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店に入ってきた久遠を見るなり、バーテンダーの矢上は浮かない顔で首を横に振った。碧斗からの連絡はないらしい。久遠は肩を落としてカウンターに着いた。
碧斗がいなくなって十日が経つ。
最後に久遠の部屋を訪れた夜から数えると、二週間ばかりだ。暦は九月に入っていた。
いつものように碧斗が久遠の部屋に泊まった朝、久遠が目覚めた時にはもう碧斗は部屋におらず、そのまま行方を断った。そのほんの数日前には、碧斗の曽祖父が残した書の展示を見に関西へ旅行したばかりだった。
携帯電話にも、店の電話にも出ない。嫌な予感がした久遠は碧斗の自宅に赴き、預かっていた合鍵で中に入ったが、やはり碧斗はいなかった。
ただ、一通の手紙が和室の座卓の上に置いてあった。
『旅に出るから、探さないでください。オレのことはもう忘れてほしい』
衝撃にしばらく思考がままならなかった。「なぜ」という疑問符しか頭に浮かばなかった。
うだる暑さの中で身体が汗ばみ、それが肌で冷たく感じられるまで茫然としていた。
碧斗と付き合いの長い矢上なら何か知っているかと思ったが、心当たりはないと言う。
「念のために聞いてみたんですけど、磯崎さんも知らないそうです。新宿のほうもてんでダメで」
悔しさを顔に滲ませる。矢上も碧斗の身が心配なのだ。碧斗が立ち寄りそうな新宿の店も調べてくれたが、目ぼしい収穫はなかったらしい。
「警察に連絡しますか」
ウイスキーのロックを差し出しながら、重い口調で矢上が問う。
「いや…」
手慰みにグラスの側面を指先で撫でながら久遠は考えた。
あのような置き手紙がある以上、捜索願いを出したところで警察は前向きに動いてはくれないだろう。家出人とすら考えてはくれまい。なにしろ碧斗は二十八歳の大のおとななのだ。
単純に、久遠を嫌いになって離れたくなったというのなら、逆に希望はある。ほとぼりが冷めれば帰ってくるだろうし、その後で別れ話になるとしてもそれは仕方がない。碧斗を傷つけるようなふるまいはしないつもりだ。
しかし、他の理由でいなくなっているのだとしたら楽観はできない。碧斗の身に何が起こっているのか、下手をすれば永久に失いかねないのではないかと、不吉な予感がしてならなかった。
鞄の中でアイフォンが鳴った。見れば一樹からで、碧斗からかもしれないと期待した分、落胆しながら電話に出た。
『うわ。ようやく繋がった。僕からだと電話出ないって、決めているわけ?』
怒声まじりの勢いに「そうだ」とすんで言いかけた。
一樹はしばしばたいした用もないのに電話をかけてくるのだ。たいがいは王寺への愚痴で、こっちはこんなに愛しているのに向こうはそっけないとか、セックスの相性はいいのに会話が足らないとか、そんな惚気だか恨みだかしれない話を延々と聞かされる羽目になる。どうせ今回もそんなことだろうと、何度か無視していたのは事実だった。
「なんの用かな。今、忙しいんだけど」
気のない返事に、すねた声が返って来る。
『やだ。あなたまでそんな塩対応しないでよ。もうグレちゃうよ、僕』
「でも本当にたてこんでいるんだ」
と、そこまで言いかけて、碧斗の消息を掴めるなんらかの糸口を、一樹が握っているかもしれないと思い直した。何しろ彼らはハイファンで同僚だった仲だ。碧斗が行きそうな場所に心当たりがあるかもしれない。そんな久遠の心情も知らずに、一樹は勝手に話し続ける。
『こないだも家電にかけたのにさ、久遠さん、出ないんだもん。酷いよ、まったく。「映画化決定~っ、おめでと~っ、西小路せんせ~」って、留守電に入れといたの、聞いてくれた? 「さいこーじ、さいこーっ、おめでと~」って、いっぱい祝ってやったんだよ。試写会には絶対に行くから呼んでよ。まあ、もっと早くに映画化するべきだったけどね、あの話は』
「そう単純なものでもないんだ」
一樹の会話は火のついた弾丸のようだ。久遠はようやくそれだけを返した。
実際のところ、映画化決定が遅れたのは久遠のせいでもあった。『セヴンス・ヘヴンの爛光』の映画化は一昨年あたりから打診があったのだが、あれは映像作品に向いていないと久遠が首を縦に振らなかったのだ。
気持ちを変えさせたのは碧斗かもしれない。
あの作品をもう一度、世の人の目で触れて欲しくなった。あの作品を書いた意味を、あらためて自分に問い直すきっかけを貰ったのだ。
碧斗はあの話の映像化を喜んでくれるだろうか。
それともイメージが壊れると落胆するだろうか?
いずれにせよ、どんな碧斗でも自分は愛しく思うだろう。彼のためにまた純文を書きたいと思うだろう。
あの話が好きだと伝えてくれた、碧斗の繊細な笑顔を思い出す。
会いたい。
慎ましく、幼げな、そして色気のある碧斗の美しい相貌を見、陶器のように白く滑らかな肌に触れ、すらりと華奢な肢体を抱きしめたい。
久遠が西小路だと知ったら碧斗はどうするだろうかと、古書店での再会を果たしてからずっと考えてきた。
飛びあがって喜ぶか、怯えて戸惑うかの、どちらかのような気がした。そして碧斗の気性からいって、おそらく後者だろうとも予測した。久遠を気遣ってとんでもなく遠慮しかねないだろう。だからこそ、その言及は慎重に行わなくてはならないのだ。
そこまで考えて、久遠ははたとした。
なんともいえぬ嫌な動悸がし始める。
「…一樹、その俺への留守電って、いつ入れた?」
予想通り王寺の愚痴を始めていた一樹の話を遮り、久遠は鋭く訊ねた。
『え? え~~? いつだったかなぁ~?』
話を止められてにわかに驚きを隠せないながらも、一樹はのんびりと答える。むしょうに苛立たしくなった。
「早く。思い出して」
『えっとぉ…? そうねぇ。二週間くらい前だったかなあ?』
「何時ごろ」
『早朝だよ。翔真が早くに出かけちゃったもんで、つまらなくてかけたから』
屈託ない返事が届く。そんな時間にかけてくるなと言い返しそうになった。
そうであって欲しくないと願う時に限って運命は悪い采配を辿るものだ。たぶん、一樹が電話をかけたのは碧斗が久遠のマンションにいた朝だ。
久遠の寝室には電話の子機があり、留守電の際は相手の声が小さく流れる仕組みになっている。久遠はまだ眠っていたが、目覚めていた碧斗は留守電から流れる一樹の声を聞いたのに違いない。
「その留守電で俺のことを、西小路先生とかって呼んだわけ?」
憤りを含んだ久遠の問いかけに一樹が慌てた声を出す。
『えぇえ? まあね。だっていいじゃない? デビュー作の映画化なんて、最高にめでたいことでしょ? なんでダメなの?』
無邪気な返事に言葉を失う。
おそらくその時、碧斗は久遠が西小路浩嘉だと知ってしまったのだ。そして久遠の恐れた通り、久遠の前から姿を消してしまった。
普段はこんなことで怒らない久遠の異様な様子に、一樹はひどく狼狽しているようだ。しかし一樹に憤るのは筋違いだ。一樹に罪はない。
罪があるのだとしたら、告白を引き延ばして碧斗に黙っていた自分だが、たとえ前もって知らせたとしても、久遠が西小路だと知った時点で碧斗は同じ行動をとっていた気がする。
竹を割ったような性格なのだ。
その上、遠慮深く、それゆえに過去の罪悪感から抜け出せないでいる碧斗は、「殺人者」である自分が西小路の恋人であることに臆して、自分の前から消えたのに違いない。そんな必要などまったくないのに。
「碧斗がいなくなった理由が分かりました」
スマホを切って立ちあがった久遠に矢上が驚いた顔を向けた。
「理由? 何?」
碧斗が守ろうとしているのは西小路だ。そのために大事な古書店の仕事を放擲し、行方を断った。
「俺のせいです。俺がきちんと説明をしなかったから。碧斗は、俺に少しでも迷惑をかけまいと思ったんです」
「どういうことだ。どこにいるんだ、碧斗君は?」
切羽詰まった声を矢上があげる。
「分かりません。けれど、必ず見つけます」
誰かに連れ出されたわけでもなく、自分から姿を消したならば、少なくとも犯罪に巻き込まれている心配はない。それだけは安心材料だった。
碧斗を探すために久遠は興信所を頼ることにした。
一樹を見つけるのにも一役買った白峰興信所に連絡を入れるために、久遠は店を後にした。
◇◇◇
しかし白峰興信所は思いのほか手間取っていた。
調査を依頼してから半月が経つが、音沙汰がない。すでに一樹の時の倍以上の日数が過ぎている。その気になればどんなに遠くへでも行けてしまう期間だ。今頃もう、碧斗は久遠の知らない街でひそかに暮らしているのだろう。むしろ海外にいるのではないか。心許ない思考がよぎって、久遠の焦燥はますます募る。
正直、仕事どころではないのだが、『セヴンス・ヘヴンの爛光』の映画化作業は粛々と進めねばならず、今日もキャスティングやら演出の打ち合わせで丸一日がつぶれた。
深夜に帰宅し、パソコンを開くと興信所からメールが入っていて、待ちに待っていた連絡かと期待に胸を膨らませた。
碧斗を横須賀で見つけたという報告だった。とうとう見つけてくれたのだと感極まる。
『豊崎碧斗さんは日傭取りの仕事をしています。主に建築資材の木材運びで、横須賀の三笠公園近くにある建築現場に派遣されています。朝六時に集合場所で受付して、夕方六時には賃金を貰って帰途につきます。』
白峰の社員の淡々とした文面が続けて知らせてきたのは、碧斗の仕事内容の過酷さだった。
添付ファイルがあるので開いてみる。紛れもない、重い資材運びをしている碧斗の姿だった。今年は残暑が厳しいので汗にまみれていることだろう。日付から察するにいずれも最近の写真で、ほっそりとした長身に合わないだぼだぼの作業衣を着て、長い角材を肩に担いでいる。
仕事の後はコンビニで夕食を買い、郊外にある寂れた旅館に戻って一人で連泊しているのだという。宿泊費は一般的なビジネスホテルの四分の一以下。質素というよりは退廃的な貧困すら感じさせるつましさだった。
パソコンの中に小さく映っている碧斗を目に焼き付ける。相変わらず憂いめいた美しい顔立ちだが、一日中の外仕事のためか、服から出ている部分が赤土のように灼けてしまっている。
色素が薄いから日に焼いても熱傷のようになって皮膚が剥けてしまうのだ。そうメモを見せて控えめにほほえんだ碧斗がむしょうに懐かしい。久遠はひっそりと静まった部屋で、しばらくパソコンの画面から目が離せなかった。
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