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第1話

朝、セットしたアラームより早く目が覚める体質だったのに、ここ最近は身体が重たくて中々起きることが出来ない。困ったことに熱もなければ風邪の初期症状らしいものさえ感じられないし、食欲だってある。原因は全く不明だ。 「……ダメだ、遅刻する」  重たい身体を無理矢理起こして洗面台へ向かうと、黄色いエプロンを身につけ、フライパンから焼けた目玉焼きをお皿に移していた母がこちらへ振り返る。僕の体調を心配しているのか、その表情には不安が滲んでいるのが分かった。 「おはよう雪。具合はどう?」 「おはよ。うーん、あんまり良くない」 「やっぱり一度病院に行く?」 「もうちょっと様子見てみる。朝ご飯ありがとうね。もう出る時間じゃないの?」 「何かあったら連絡してね」 「分かったから。いってらっしゃい 」  朝食をテーブルに並べるのを手伝い、出社する支度を整えた母を見送る。うちは母子家庭なので、もう見慣れた光景だ。 「……いただきます」  母さんが作ってくれた朝食は相変わらず美味しいし、残さず食べられる。それなのにどうしてこんなに身体がだるくて、頭がぼうっとするんだろうか。 「学校休んだら、母さん心配するかなあ」  浦井白雪(うらいしらゆき)。女みたいな名前だけれど、れっきとした十六歳の男子高校生だ。入学して以来皆勤賞だったけれど、今日はさすがに無理かもしれない。 ……最初に異変を感じたのは、日課の読書中のこと。本好きの父親に影響されて一日一冊本を読むことが染みついていたのに、文章が頭に入ってこなくなった。その時初めて体調不良に気がつき始めた。僕が本を読めなくなるのは決まって体調不良の前兆だから、今回もそうだろうと思っていた。でも風邪らしい症状が一切出ないまま謎の不調に悩まされるようになり、全身で危険信号を感じたのが先週のこと。驚くほど身体が薄くなり、顔の肉が減っていたのだ。怖くて体重計に乗れていないけれど、普通の痩せ方じゃないことは明らかだった。それでも病院に行く勇気が出ずにいたが、さすがに限界だろう。 「とりあえず学校に連絡……」  そうつぶやいた時、家のインターフォンが鳴る。重たい身体を引きずるように玄関に向かい扉を開けると、立っていたのはクラスメイトの一条春喜(いちじょうはるき)。クラスでは一番仲が良い存在。春は現在親の仕事の都合で一人暮らしをしており、そのアパートが近いことから時々こうして迎えに来てくれていた。 「……お前、やっぱ今日病院行くぞ」 「開口一番それえ?」 「自分で体調がおかしいことは分かってんだよな?」 「……はい、さすがに分かってます。だからそんな怒らないで。キレイな顔が台なしですよ」 「俺はいつでもキレイな顔なんで」 「ムカつくなぁ~!」  もちろん本当にムカついたりしないし、むしろ笑ってしまった。春は同性の僕から見ても綺麗な顔立ちをしていて、学校内外問わず超絶モテる。入学式の時の騒がれ方なんてそりゃもうすごかった。正直同じクラスになって、しかもくじ引きで一緒に美化委員になってしまった時は相当焦ったっけなぁ。  春にはじめて声をかけたのは、初めての美化委員会の時。男女問わず人気のある彼に、僕が話しかけても大丈夫だろうかと不安がよぎった。 「……あの、よろしく……い、一条くん」  しかし、春は僕の不安なんてどこかへやってしまうような穏やかな声で返事をしてくれた。 「苗字で呼ばれるの変な感じだな。みんな名前で呼ぶし」 その時、初めて彼と視線が重なる。くっきりとしたふたえ、大きな瞳。なんだか変に緊張して目をそらしてしまい、なんとか返事をしなければと、無理矢理話を続けた。 「そっそれって、あの、中学校の時の話?」 「あー、そうそう」 「……一条くんは、春喜っていうんでしょ?」 「よく知ってんね」 「クラス表に張り出されてたじゃん?かっこいい名前だなと思って覚えてた」  すると、彼はこちらをじっとのぞき込む。人生で出会ってきた中で一番キレイな顔が迫ってきて、彼に音が聞こえないか心配になるほど、心臓が強く跳ねた。 「な、なに?」 「……ごめん、名前なんだっけ?」 「僕は浦井だけど……」 「知ってる。そうじゃなくて下の名前」 「えーと……し、白雪……です……」 「白雪?」 「あはは……女子みたいだよね」  自嘲気味に笑って、ほんの少し彼と距離を取る。僕は自分の名前がコンプレックスだった。誰がどう聞いたって「お姫様」みたいな名前、どんなに親と仲が良くてもイヤでしょうよ。ため息をつきながら視線を下げていると、彼からは予想外の言葉が返ってきた。 「冬生まれなの?」 「はぁ……?」 「いや、雪ってついてるくらいだからさ」  俯く顔を上げて彼の方を見る。その表情は僕をからかおうとしているのではなく、純粋な興味からだということが分かり、その質問に答えることにした。 「……全然。春生まれだよ。生まれた日に雪が降っててさ、満開の桜に雪が積もってたのがすごいキレイだったから白雪にしたんだって」 「へえ、それで白雪が出てくるって、親御さんはなんていうか、文学的だね」 「文学的って……。初めて言われたよ」  予想外の回答に思わず笑ってしまう。でも実際、その回答は合っているように感じた。 「僕の父親がね、ライター業をやってたんだよ。本がすごい好きなんだ。言葉の意味とかすごい大事にする人でね。名前にはこだわりがあったのかも」  ふと、両親のことを思い浮かべる。白雪という名前をとても気に入っているようだから、僕が直接二人に不満を言ったことはない。でも辛い思いをしていることも事実なので、内心複雑だった。俯く僕を気にしたのか、彼は僕をそっとのぞき込んだ。 「別に、良い名前だと思うけど」 「……めちゃくちゃ白雪姫ってイジられて、ちょっとトラウマだけどね」 「じゃあなんて呼ばれるのがいいわけ?」 「うーん……家族とか友達は雪って呼ぶかな」 「じゃあ俺も雪って呼ぶよ。そしたら雪は、俺のこと春って呼べば良いよ。ね、雪」  彼はそう言って、美しい笑顔を向けてくれた。あの日の出会いを、僕は今でも鮮明に思い出せる。名前をからかわないでくれた。良い名前と言ってくれた。単純だけど、僕はそれだけで、彼を、春をとても好きだと思ったから。まさか学校の友達の中で一番一緒にいるようになって、お互いの家も行き来するような仲になるとは思わなかったけど。  なぜなら春は、ちょっと不思議な人だった。例えば僕の家に初めて来た時、テーブルを見て目を丸くしていた。何か珍しいものでもあったかな?と思い視線をやると、そこに置いてあったのはどこにでもある普通のポテトチップス。 「ポテチ嫌いだった?」 「……俺、ポテチ食べるの初めてだわ」 「え、なに……お金持ちなの?」 「……いや、別にそんなじゃないけど……」    左右に泳ぐ視線を見て、嘘がつけない人なんだなと思った。僕にだって触れてほしくないことはある。それ以上何かを聞くことはせず、ポテチの袋に手を伸ばした。その様子をキラキラした子どものように見つめていた春を、ポテチを見るたびに思い出す。どこか浮世離れしていてつかみ所のない春は、女子からの黄色い声にはさっぱり興味がなくて。でも決して無愛想というわけでもない。  僕が本を読む隣で、自分も気になった本を読んでくれる。そういう春の横顔を見ているのが好きだった。   ――思い出に浸って黙り込んでいる僕を見て、春がしびれを切らしたように口を開く。 「……お前、さっきからなに無言でじっと見てんだよ」 「キレイなお顔ですね~」 「知ってる」 「うるさっ!」 こんな軽口を叩きながら、穏やかな時間を過ごせる、居心地の良い人。僕にとって春はとても大事な友達。だからこそ、余計な心配を掛けたくなかったんだ。 「……とにかく春は学校行きなよ。僕は自分で病院行けるから」 「病院に送ってから学校行っても間に合う」 「でも今日、朝から小テストあるじゃん」  僕がそう言うと、明らかに不機嫌な顔して舌打ちをする春に思わず笑ってしまった。一人暮らしをするにあたり、親から成績上位をキープすることが親御さんから出された条件だとよく言っていた。仕事の都合で遠方に住んでいるという親御さんにテストをサボったなんてバレたら、親元に強制送還で転校なんてこともあるかもしれない。頑固な春に何と言えば効果的かを分かっている僕は、意外と春との口げんかで負けたことはない。春も観念したのか、ゆっくりと僕の頬に手を伸ばす。 そして春の指が頬に触れた時、ぐらりと頭が揺れる感覚に襲われる。 指先に視線を移すと絆創膏が巻かれていて、じわりと血がにじんでいた。 「……指、どうしたの」 「あ?ああ、今朝ちょっと切った。これくらいすぐ治る」 「……そう、気を付けて」 「気を付けるのはお前だよ。なあどうした?顔色が……」 「大丈夫だから、春は早く学校行きな。病院行ったらちゃんと連絡する」  食い気味に被せて返事をする。春は怪訝そうな顔をしてこちらを見ているが、何とか押し通すしかない。 「ね、春。約束するから」 上がっていく呼吸をなんとか抑え、ゆっくり息を吸う。お願い、どうか気が付かないで。 「……絶対連絡しろよ、約束な」 「うん……分かった。約束ね……」 春は終始心配そうにしていたけれど、渋々登校して行った。 扉が閉まったことを確認して、その場に座り込む。 心臓をぎゅっと抑え、溢れてくる涙を必死に拭った。 イヤだ、イヤだ。 ねえ神様、どうしてこんなことになってしまったんだろうか。 胸の中に溢れた言葉は「絶望」だった。   ――約十年前、世界で突如確認されるようになった奇病。それを発症した人間は体液からしか栄養を摂取できなくなる。食事から栄養が摂れないために痩せ細り、体液を見ると異常に興奮するなどの症状が現れるため、比較的自覚・発覚するのが早いともいえる病気だった。研究の結果、最も効率良く栄養を摂取できるものが「血液」となることから「ヴァンパイア症候群(シンドローム)」通称Vロームと呼ばれるようになった。また、栄養を効率的に摂取できるのが血液というだけで、汗や唾液、精液など身体から分泌される液体なら基本的に栄養を取り込むことが可能だという。 Vロームを発症した人間は生涯供給相手が必要になるため、そういう相手をお金で買うこともあると授業で習った。Vロームを専門にした売春や性暴力事件が発生するなど社会的に問題視されている面もあり、Vロームを公表する人間はほぼいない。現在の発症人数は世界で数千人と言われているが、専門機関を受診して登録されている人数のみなので、自覚症状があっても受診せず生きている人を換算すれば数はもっと増えるとされている。それなのに病気が見つかり十年経った今も、社会的な受け入れ体制は完全には整っていなかった。 食事を食べてもどんどん痩せていく身体、頭を支配していた嫌な予感。そして春の指先から感じ取った強烈な甘い匂い。全身が「血が欲しい」と叫んでいる感覚に吐き気がした。   震える手でポケットからスマホを取り出し、『Vローム 供給』で調べていく。ネットで調べればいくらでもそういう相手は見つかることは僕でも知っていた。でも僕は未成年だから相手にしてもらえないかもしれない。体液の値段の相場も分からない。あんまり怪しいところは怖くて行けない。回らない頭を必死に動かしながら、ヒットした記事を読んでいく。その中で一つ気になるものを見つけた。 「……Vローム支援団体『eat love』……?」  Vロームを発症した人を守り、社会活動を支援する団体らしい。こういった団体は世界各地に存在していて、これもその一つということだった。Vロームを発症している人はもちろん、自覚症状があっても医療機関を受診する勇気が出ない人や、体液を安定して供給する相手がいない人など、幅広い人を対象に窓口を開いているようだ。僕の身体はきっともう限界に近い。メールを打つ気力もなかった僕は、恐る恐る電話を掛けることに。すると、ワンコールで繋がった。 『はい。Vローム支援団体『eat love』です』  電話口から聞こえた声は、若い男性の声だった。心拍数が上がり、うまく喋れない。言いたいことがまとまらない。 『大丈夫、落ち着いて。話せるようになるまで待っているから』  電話口の男性の優しさに、気が付いた時には両目からボロボロ涙が溢れる。言いたいことはたくさんあったはずなのに、その言葉を押しのけて出てきたのはたった一言だった。 「たす、助けて……っ助けてください……っ」  嗚咽を漏らしながら吐き出したたった一言のSOSを、男性は受け取ってくれたらしい。 『今いる場所と名前だけでも言えますか?すぐ向かいます』  僕は途絶え途絶えではあったが、住所を伝えたあと、絞り出すように自分の名前を告げる。すると男性は少しの沈黙のあと『分かりました、急いで向かいます』と言葉を返してくれた。それを最後に、僕は意識を手放した。    ――暗闇の中で、一人、こちらを向いて立っている人がいる。すぐに、春だということに気が付いた。僕は立ち上がり、春の方へ駆け寄っていく。手を伸ばし、春に触れようとするが、その手は冷たく振り払われる。 「春……?」 「近づくなよ、気持ち悪い」  春は冷たい声でそう言い放ち、僕を一瞥して踵を返した。待って、お願い、行かないで。一人にしないで。春。 「……は……る……?」 「浦井さんっ!」  耳に飛び込んで来たのは、春の声ではない。でも、視界がかすれて見えない僕には、それが誰の声かは分からなかった。返事が出来ないでいると、その男性は自分が何者かを説明し始める。 「電話を受けた、eat love の……田崎と言います。インターフォンを押したけど返事がなくて。鍵が開いていたので勝手に入りました、すみません」  田崎と名乗ったその人は、僕をゆっくり抱きかかえる。相変わらず視界はぼんやりしているけれど、田崎さんは笑顔を浮かべているようだった。 「意識はまだありますね? よかった……。本当なら病院で処置を受けた方がいいんですが」  病院という言葉に、全身の血の気が引いていく感覚がした。そして、力の限り首を横に振る。 「……行きたく、ない……です……。こ、こわい……っ」 「分かりました。じゃあとりあえず応急措置だけ失礼しますね」  唇に、ふわりとした熱が重なる。キスされているという事実に気が付くのに少し時間がかかったが、抵抗する気力もない。 舌で唇をこじ開けられ、僕の口内へと侵入してくる。その時送り込まれてきたのは、田崎さんの唾液だった。 「あ……っふ……んんっ」  口いっぱいに溢れそうな唾液。これを飲み込んでいいのか分からず戸惑っていると、田崎さんは僕の頬をトントンと優しく叩く。 誰かの唾液を飲むなんてもちろん初めてのことだったけれど、気が付いた時には田崎さんの身体に縋り付き、口をゆっくり、大きく開く。 「ふ……んぁっ……」 「……うん、上手だ。良い子だね」  僕が口を開いたことを受けて、田崎さんはぐちゅりと音を立てて唾液を流し込んだ。栄養が摂れなくなってからも、食事は普通に美味しいと感じていた。けれど、口いっぱいに広がった田崎さんの唾液の味は、それとは比べものにならないほど美味しくて、痺れるような快感が全身を走って行った。 「……はぁ……はぁ……うぅ……ぐぅっぅ……っっ」  僕は唾液を飲み干したあと、声をかみ殺して涙をこぼした。ショックだった。自覚症状があったとしても、何かの間違いであってほしかった。でも、この唾液の味を知ってしまったら僕はもう逃げられない。嗚咽を漏らして会話にならない僕のことを、田崎さんはふわりと抱き寄せる。そして優しく背中をさすってくれた。 「痩せていますね。きっと栄養失調を起こしていると思います。今日僕から栄養を補給できたとしても、それは応急措置にしかなりません。きちんと受診することを約束してください」 「……だ……っ誰にも、誰にもバレたくない……っ」  絞り出すようにそう伝えると、田崎さんはまるで小さい子どもをあやすように、優しく、穏やかに話を続けた。 「僕達が紹介出来る医療機関に行きましょう。保護者の付き添いがなくても対応出来るところもあるので安心してください」  田崎さんはゆっくりと僕を抱きかかえ立ち上がると、そのまま階段を上がり始めた。 「じゃあ、浦井さんの部屋に運びますね」 「え、あ、ちょっ……」  少し栄養を摂ったおかげか、少しずつ頭が回り始める。そしてふと気が付いた。この家に来るのが初めてのはずの田崎さんが、どうして僕の部屋の場所を知っているのか。そういえば、顔をよく見ていなかったけど…… 「どうしました?」  心配そうにのぞき込むその顔を、僕は遠い昔に見たことがあった。 「……み……尊人(みこと)……?」  言葉にすると、それは確信に変わった。どうして僕は気が付かなかったんだろう。 「なんだ。やっと気付いたの、雪」  くしゃりと浮かんだ笑顔からは昔の面影が感じられる。ああ、尊人だ。もう十年くらい前だろうか。彼は近所に住んでいて、よく一緒に遊んだ幼なじみのお兄ちゃんだ。でも僕が知っている彼の名前は、田崎ではない。 「でも、苗字が……」 「色々あって親が離婚してんの。まあ俺の話はまたあとね」 扉をあけ、ゆっくり僕をベッドに降ろして横に腰掛ける。部屋をぐるりと見渡すと、懐かしそうな笑みを浮かべた。 「この十年で、またずいぶん本が増えたなぁ」 「……もう習慣みたいなもんだからね……」 「また元気な時にオススメ教えてな。今雪に必要なのはこっち」 尊人はスマホを取り出して僕の方へ見せてくる。そこには「体液摂取について」と書かれていた。 「まず、今日俺から雪に提供する体液について説明するな。優先順位の一番が血液、その次が精液、唾液、汗になるんだけど、雪は見た限りかなり状態が悪いから、血液を摂取してもらうことになるよ」  体液を摂取する。分かっていても、そんなことは人生で一度も経験したことがない。血の味というのは、そりゃ想像は出来る。口の中を切ったとか、指を切って舐めたとか。でもそれを美味しいと思ったことはないし、大量に飲むなんて想像も出来ない。その本音が小さく口からこぼれ落ちた。 「……血なんて、本当に飲めるのかな」 「俺の唾液は不味かった?」 「え⁉ いやその……お、美味しかった、けど……」  尊人の心配そうな顔をみて、嘘でも不味いなんて言えなかった。だってそれは本当に、本当に美味しい物だったから。僕の答えを聞いて、尊人は安心したような笑みをこぼす。 「じゃあ良かった。基本はどれも美味しく感じると思うけど、食の好みが分かれるのと同じで、特別美味しい!と思うこともあるから、まあそれは相性だな」  彼は大きなリュックサックからポーチを取り出す。その中からまち針を取り出して人差し指の腹を刺すと、赤い球体がプクリと姿を現した。 「まずは味見。どうぞ」  目の前に差し出されたそれを見て、春の指に触れた時の記憶が呼び起こされる。尊人からもらった唾液とは比べものにならないほど濃縮された香りが広がって、自分の喉がゴクリと音を立てるのが聞こえた。 「そんなに物欲しそうな目をしなくても、これは全部雪のだよ」  唇を撫でられ、我慢出来ずに彼の指を舌で舐め取る。それはまるで甘いキャンディのようで、いつまでも舐めていたいと思えるような味だった。 「ん……ふぁ……っ」  尊人の指を吸う音と、乱れる自身の呼吸の音が部屋に響く。いやだ、恥ずかしい。こんなことしたくない。そんな風に思っていても、尊人の血を吸うことを止められなかった。もっと、もっと欲しいと、頭の中はそればかり。しばらくすると、尊人はゆっくり指を引き離す。僕はまるでおもちゃを取り上げられた子どものように「あっ」と声を上げてしまった。 「今のは味見。美味しかった?」 「……う、うん……」 「よかった。今からちゃんとあげるから少し待ってな」  優しく頭を撫でられ、思わず顔が熱くなる。いくらなんでもはしたなかっただろうかと。しかしそんな僕の考えもお見通しなのか、彼はふっと笑みをこぼしながら手慣れた様子でリュックから器具を取り出し始めた。 「恥ずかしいことなんて一つもないよ。雪にとっては食事中のお皿を勝手に下げられたようなもんだから」  手際よく左腕を縛り、右手で注射器を使って血液を吸い上げていく。その様子から、僕は目が離せなかった。あんなにたくさん、飲んでも良いの?あんなにたくさん飲んだら、本当に僕はもう、戻れなくなってしまうのではないかと。心臓が痛いくらい高鳴っているのが分かる。ああ、欲しい、お願い。おなか一杯、僕にその血を飲ませて欲しい。  尊人は血液を専用の透明なパックに移す。そして飲み口の方を向けながら、僕の方へと差し出した。 「これを飲んで少し休んで。そうしたら病院に行くって約束してくれ。いいな?」  病院には行きたくない。でもそれ以上に、目の前の血液が飲みたい。もう、自分でも限界であることは分かっていた。でも、それでも、血液の入ったパックに触れることが出来なかった。 「どうした? 飲みたいだろ」 「……こ、怖い……。飲んだら、もう、戻れなくなっちゃう。僕、もう、人じゃなくなっちゃうの……?」  頭では、もうとっくに戻れないことなんて分かっていた。それでも心のどこかでそれを認めたくない自分がいて、この血を飲むことを拒否している。なのに身体は血が欲しいと叫んでいて、僕は身動きが取れなくなってしまった。涙で視界が揺らぐなか、尊人は悲しそうな瞳で僕を見つめた。 「……人じゃなくなるなんてことはないよ。雪は何も変わらない。そんな悲しいこと言うな」 「でも……っ‼」 「ほら、いい子だから吸って。それとも口移しがいいのか?」  尊人にそう言われ、思わず顔が熱くなる。冷静に考えて、僕、誰かとキスするのは初めてだったのに、こんな形でしてしまって、しかも幼なじみと、しかも男と。 「じ、自分で飲みます……」 「はい、めしあがれ」  恐る恐る口を開けば、尊人がそっと、飲み口を僕の口へとあてがう。深呼吸して、覚悟を決めて、血液を吸い上げる。口にため込み喉の奥に流し込めば、もう止めることは出来なかった。 「……よく我慢したな。たくさん飲んでいいんだよ」 「うぅ……っうぅう……っっ」  美味しい。今まで食べてきた何よりも、僕は今、尊人の血液を美味しいと感じていた。その味は出来れば一生知らずに生きていたかった。身体に広がったのは、多幸感と、それを塗りつぶすほどの絶望感。両目からは涙が止まらず、泣きながら血液を飲み干した。すると尊人は僕の肩を抱き寄せ、頭を撫でた。そういえば昔も、こんなことがあったっけ。 「……ねえ、なんで黙って引っ越しちゃったの?」 「昔話はまた今度。少し寝ていいんだよ?」 「……寝たく、ない」 「でもお前は今栄養失調状態で、体力も相当落ちてる。起きてるだけでもしんどいだろ?」 「次、目が覚めた時知らない場所にいるのが怖い」 「……そっか。分かった。じゃあ迎えが来るまで一緒に……」 「みーこー。来たよお」  部屋の向こう、正確には階段の下あたりから、聞いたことのない大きな声が響く。思わず肩がびくりと震えると、尊人が背中を優しくさすってくれた。 「大丈夫だよ雪。俺たちの仲間。敵じゃない」 「やっほー!トミーちゃん到着でぇす!」 「……あ、あ、のあ、あ、え、あの」  目の前に現れた人を見て、まったく上手いこと返事が出来なかった僕を見て全てを察したのか、その人は目を大きく見開いて「えー!」と大きな声を上げる。 「俺が来るって言ってあったんじゃないの⁉」 「悪い。言い忘れてた」 「ちょっとも~勘弁してよ~! 俺めちゃくちゃ不審者じゃん!」 「あ、ああの、あ、あの、その」  尊人が言っていた通り、悪い人ではないのだろう。でもあまりに突然のことで理解が追いつけずにいた。するとその男性は「ごめんごめん!」と言いながらベッドに腰掛けて、僕と目を合せる。その表情はとても明るくて優しいものだった。 「はじめまして! 俺は愛沢富実(あいさわとみ)。豊かな富が実るで富実! トミーって呼んでいいよ♡ あんまり呼んでもらえないけど!」 「あ、あの……に、日本語が、お上手……ですね……?」 「あははっ! この見た目だもんね!」  そう。富実さんは、美しいブロンド色の短髪に、白い肌、そして青い目をしていた。とても日本人には見えなかったので、名前を聞いて驚いてしまったし、もしかしたら日本の名前の外国人なのかなと思って、失礼なことを言ってしまった。しかし富実さんはなんてことない顔で話を進める。 「俺はアメリカ人のお父さんとアメリカ人と日本人のハーフのお母さんの間に生まれてるのよね。クオーターってやつ? ほぼアメリカ人!でも生まれも育ちも日本! こんな見た目だけど英語喋れないのやばいでしょ!」  彼のマシンガントークに圧倒されていると、尊人が助け船を出してくれた。 「富実。世間話はまた今度にして、お前が来た理由を説明してやれ」 「ああ、そうだったそうだった。大変だったね、雪ちゃん」  表情は柔らかいまま、でも落ち着いた声色に切り替わる。彼がただのちゃらけた人ではないということがなんとなく伝わってきた。 「……正直まだ、色々、全然受け入れられてないんですけど……」 「そりゃそーでしょ! 目が覚めたら夢だったらよかったのにな~って感じだよね。でもね、残念だけどこれは現実なの。それで俺は、今から雪ちゃんを病院に連れて行く人ね」  富実さんは首元からネームタグを取り出す。そこには尊人の物と同じく「eat love 」と刻まれていた。 「改めまして。ヴァンパイアシンドローム支援団体 eat love の愛沢富実です。これから雪ちゃんを連れて行く場所は、団体がお世話になっている個人医院になります」 「……やっぱり、病院は行かないと、ダメですか」 「雪ちゃんが一番不安に思っていることはなに?」 「……母に、バレたくないんです。どうしても」  絞り出すようにそうつぶやく。それは僕にとって、何よりも譲れないものだったから。 「これから行く病院は団体と提携している病院だから、雪ちゃんの匿名性は守られるよ。ちなみに未成年への処置に対する保護者の同意関連も、Vロームを発症した患者に限って応急処置は同意書ナシで行えるって法律で決まってるからその点も安心して」  そう聞いて、心底ホッとする。それなら、母さんに気付かれないように治療する方法も聞けるかもしれない。しかし富実さんは、そんな僕の思考を読んだかのように言葉を続けた。 「最終的には話した方がいいっていうのは大前提ね」 「……そうなんですけど……でも」 「うん、分かるよ。大丈夫。今最優先されるべきは雪ちゃんの健康だからね。あと、もし雪ちゃんからお母さんに話しづらいなら俺たちが代理で伝えても良いし、やり方は色々あるから、とりあえず今は自分の身体のことだけ考えようね」  富実さんは僕の手をぎゅっと握り、優しい笑顔を向けてくれる。この人の笑顔と言葉は、なんだか太陽みたいにまぶしくて、温かくて、胸の中を渦巻いていた不安が、ほんの少しだけ溶けていったような気がいた。 「……よろしく、お願いします……」 「オッケー! 任せといて! じゃあちょっと失礼しますよ~っと」  ひょいと僕を持ち上げ、軽い足どりで部屋を出て行く。その横で、尊人はテキパキ荷物をまとめ始めた。 「学校のカバンは持って行くか?一応学校行ったことにしておいたほうがいいだろ」 「あ、うん。そうしてくれると助かるな」 「家の鍵はー?」 「玄関に置いてある……」  富実さんに連れられ玄関までたどり着くと、尊人は鍵を手に取ってこちらへ振り返る。 「なあ、なんで鍵開いてたんだ?俺としてはラッキーだったけど」 「……朝、友達が迎えに来てくれてて。でも僕は行けなかったから、見送って…そのまま座り込んだ感じ……」  左胸に針が刺さったような痛みが走る。そうだ。病院に行ったら連絡すると、春と約束したのに。どうしよう、春に、なんて言えばいいんだろう……。ぎゅっと、左胸を握りしめる。その様子を見た富実さんが、僕の震える拳に手を重ねた。 「雪ちゃん、何も心配ないよ。大丈夫だからね」  その言葉に答えることは出来なかったけれど、心臓のいやな高鳴りはほんの少し落ち着いた。僕たちはそのまま家を出て、目の前に止めてあった車へと乗込む。富実さんは僕を後部座席へと寝かせてブランケットを掛けてくれた。 「ここから病院までちょっと遠いから、その間ゆっくりお休み! よっしゃ、それじゃあさっそく出発~!」 「運転すんの俺だろ。つーかお前はさっさと免許取れ!」 「俺はみーこ専用のNavigatorだから♡」 「英語喋れねーくせに発音良いのやめろ!」  二人のやり取りを聞いていると、エンジン音が響いて車体が揺れ始めた。これから自分がどうなっていくか全く分からない恐怖に、ぎゅっと目を瞑って身体を丸める。その様子がバックミラー越しに見えたのか、尊人は優しい声色で僕に語りかけた。 「大丈夫だよ、これから行くところの先生は優しいから」  尊人と富実さんがどれだけ優しい言葉をかけてくれても、僕の中から不安が消えてくれることはない。そして、そっとスマホの電源を落とす。今は誰とも連絡を取りたくない。僕のことを、誰も彼もが忘れて欲しいと本気で願った――。

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