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第2話
――あれからどれくらい経ったんだろう。
目の前を過ぎていく景色は、都会の町並みから緑の色合いが増えて行き、次第に静かな田舎道へと切り替わる。そこからさらに走って行くと、手入れの行き届いた草花が風に揺れる庭の前で停車した。
「運転ありがとーね。尊人。俺、先にひかじーのところ行って準備手伝っとく~」
「よろしく」
富実さんが出て行ったのと同時に、後部座席の扉が開く。
「……おまえ、静かにしてると思ったのに。寝てねえだろ」
「バレた?」
「顔色最悪だよバカ。少しでも休まないとダメだろ」
「……お医者さんのところ、行かないとダメ?」
「ダメ。ほら、行くよ」
尊人は僕を担ぎ上げ、さっさと歩き始める。僕が尊人に出会ったのは、たぶん六歳くらいの頃。引っ越しの挨拶に行った時、尊人は小学生だった。尊人のお母さんと僕のお母さんが意気投合してよく家につれて行ってもらうようになり、気付いた時には遊び相手になってくれていたのを覚えている。尊人が引っ越して行ってから、思い返すことはずいぶん減ったけど尊人と過ごした二年間が、ぽつぽつと湧き上がってくる。その思い出はどれも楽しい物だったのに、どうして忘れていたんだろう。僕の視線に気づいたのか、彼は心配そうにこちらをのぞき込む。
「どうした? 具合悪い?」
「……ううん。僕のところに来てくれたのが、尊人でよかったなって」
もし尊人以外の人だったら、もっと取り乱していただろう。もしかしたら無理矢理病院に連れて行かれていたかもしれない。尊人が来てくれたおかげで僕がどれだけ救われているか、尊人に伝われば良いんだけどな。彼は僕の瞳から視線をそらして、少し遠くを見つめた。
「……正直電話受けた時はマジで固まったけどな。浦井白雪なんて名前、お前以外にたぶんいないだろうし」
「ふふ、そうだね」
「……俺も、電話受けたのが俺で良かったと思ってる。雪は何も心配しなくて良いよ。ほらついた」
尊人が見つめる視線の先へ顔を向ける。そこには赤い屋根の小さな診療所が建っていた。
「やしき診療所……?」
「そう。屋敷 先生が個人で営んでる一般内科で、eat love から運ばれてくるVロームの患者に対応してくれているんだ。ほぼVローム専門の診療所だよ」
説明を受けつつ、診療所の中へ進んでいく。木製の壁、たくさん並んだ観葉植物。絨毯とソファ。そして窓枠の縁で黒い猫が一匹、日向の中でまどろんでいた。
「こっちだよ、雪ちゃん」
ドア越しに富実さんが顔を出し、笑顔で手招きをしている。そこには「診察室」というプレートがぶら下がっていた。尊人に抱えられたまま部屋へ入ると、奥に座っていたのは、白衣を羽織った小柄なおじいさん。フワフワした白髪に、フワフワした白いひげを蓄えて、丸眼鏡を掛けている。眼鏡の奥の瞳は、とても穏やかで優しい雰囲気をまとっていた。
「いらっしゃい。ずいぶん顔色が悪いのね。そこのベッドに寝かせてちょうだい」
ベッドに降ろされ、ふとため息が出る。尊人に栄養を補給してもらったとはいえ、身体のしんどさはそこまで変わっていないのか、全身が石のように重たかった。
「ここに来るまでちゃんと寝た?」
「……えっと……」
「言ってやってくれ。そいつ頑なに寝ようとしねえ」
「あらあら。そりゃまたなんで?」
理由を答えたくなくて視線を逸らすと、先生は「意外と頑固な子なのね」とくすくすと笑みをこぼしながら説明を始めた。
「それじゃあ色々検査させてもらおうかな。あと輸血なんだけどね、Vロームでも輸血の場合は血液型が同じじゃないとダメなの。口から飲む場合は関係ないんだけどね。このあとちゃんと検査するけど、自分で何型か分かる?」
「B型+です」
「了解。本当は尿検査とかもしたいんだけど、水分摂れてる?」
「食事自体はちゃんとしていたので……」
「そっか、じゃあそこのトイレで取ってきてくれる?全然ちょっとでもいいよ。栄養失調の度合いを検査したいのよ」
そう言っておじいちゃん先生は紙コップを僕へ手渡し、富実さんの方へ視線を投げた。
「トミー、連れてってあげて」
「は~い。雪ちゃん歩ける?」
「なんとか」
「お手をどうぞ、プリンセス。なんちって!」
「……小さい頃、めっちゃ言われましたよそれ……」
「え、なにそれモテモテってこと? プリティボーイってこと?」
「……違いますよ。名前が白雪だから、白雪姫って。名前あんまり好きじゃなくて」
「えー! もったいないよ。とっても素敵な名前なのに」
富実さんはお世辞でもからかうわけでもない、キラキラした瞳でこちらを見つめながら、僕の手を引き歩き出す。こんな風にストレートに褒められることがあまりないので、素直に嬉しかった。富実さんの言葉は魔法のようだなんてぼんやり考えていると「到着!」という富実さんの言葉で、はっと顔を上げた。
「何かあったら声かけてね」
「はい、ありがとうございます」
トイレの中へ入って検尿を終えてドアを開けると、あっという間に富実さんの腕の中に収まっていた。
「ちょっ……富実さん⁉」
「やっぱり歩くのしんどそうだったから!帰りはトミー馬車で送ってあげるね♪」
富実さんは、チャラくて軽そうに見えるけど、本当は周囲のことがよく見えていて、とても気遣いの出来る人なんだと実感する。歩くのがしんどかった僕にとって、抱きかかえてもらえるのはとてもありがたいことだった。富実さんはスキップしながら歩き出しす。跳ねる音が聞こえたのか、眉間に皺を寄せた尊人が診察室から顔を覗かせた。
「おめえ、雪を抱っこしながら飛び跳ねんなバカが!」
「ごめんって! それより雪ちゃんしんどそーだから、早く血入れてあげてよ」
富実さんは僕をベッドへと寝かせて、先生の顔をのぞき込む。すると先生は困ったように笑いながら「まだ検査することがあるのよ」と、頭を撫でながら、はっとした様子で僕の方へ振り返った。
「そういえば自己紹介してなかったね。僕は屋敷光(やしきひかる)。おじいちゃんだけどまだ現役だから安心してちょーだいね」
「……はい。お願いします」
僕がそう言うと、腕にくだが巻かれて採血が始まり、その後簡単な診察が行われた。しばらく横になりながら待っていると、屋敷先生が診察室に戻ってきて話を始める。
「血液検査の結果が出たけど、B型+で間違いなかったから輸血を始めるね。この輸血は白雪くんにとっての栄養点滴みたいなものなの。ただし、かなり重度の栄養失調という結果も出ているのね。本来なら二日は入院が必要なレベルなのよ」
「……でも、入院したら母に……」
「もちろん僕らとしては白雪くんの気持ちを優先したいと思ってるよ。でもね、どうやってもアナタは未成年で、保護者の管理下にある。親御さんに全てを隠して治療を続けることは難しいだろうねえ」
少し困ったように小首をかしげる。先生の言うことはもっともだし、本当なら病院に運ばれることが確定した時点で母に連絡しなければならないはずだ。でも、どうしてもそれだけはしたくなかったのだ。言いよどんでると、尊人が椅子に腰を掛け、僕の方へ視線を落とす。
「……雪。確かにVロームは世間的に公表しづらい病気だよ。実際社会的に追いやられて生活もままならなくなった人もいる。でも、おじさんやおばさんは雪を病気で差別するような人じゃないだろ?確かにショックは受けるかも知れない。だけど、今は昔より病気への対策もしっかりしてるし……」
尊人が僕のことを励ましてくれようとしてくれているのは理解出来た。でもそうだ、彼は知らないのだ。我が家に起った五年前の出来事を。
「……あのね、うち、父さんが五年前に事故で死んでるんだ。だから今、僕と母さんの二人暮らしなの。唯一残った家族の僕が、Vロームになったって分かったら、母さん一人でそれを受け止めなきゃいけないじゃん……。それは、あんまりかなって……」
枕に顔を埋める。重たい空気になることは分かっていた。それでも、嘘をついても仕方がない。僕は病気になったこともショックだったけど、母さんに心配をかけることが、母さんに余計な負担をかけることが何よりもイヤだった。父さんが死んでから母さんは働き通しで、夜中一人で泣いているところも何度か見かけた。だから早く大人になって、僕が母さんを守らなくてはならないのに、それはきっと叶わない。
「……母さんが、病気で差別するなんてことはないって、僕も思ってるよ。でもこれ以上、母さんを苦しめたくないんだ……っ」
震える声で、なんとか自分の意思を伝える。そして、溢れそうになる涙を必死に飲み込んだ。今ここで泣いたって仕方がない。分かってるんだ、自分でも。
「雪……」
尊人の声に、ほんの少し視線を上げる。尊人が僕へと手を伸ばすが、その手を屋敷先生が遮った。
「尊人くん、今は先生のお話の時間ね」
「……分かった」
「良い子ね。あのね、白雪くんの気持ちは分かったよ。でもね、最初から隠せないことなら、隠さない方が賢明だよ。嘘や隠し事は、墓場まで持って行けると思ったものだけにしないとね」
「だけど、先生……」
「だから、とりあえず白雪くんの気持ちが落ち着くまでは黙っていよう。今日輸血して帰宅して、次の土曜日泊って日曜日に帰るみたいな、バレない範囲で体調を回復する通い方をするのはどうかな?」
「……いいんですか……?」
「ふふ。ここの院長は僕だからね。僕が良いって言ったら良いの」
「……ありがとう、ございます……」
目に、じわりと涙がにじむ。僕のわがままを否定しないでくれる大人がいることが、こんなに安心することだとは思わなかった。すると、目元にするりと指が伸びる。視線をあげると、そこには今にも泣きそうな尊人の顔があった。
「ごめん、俺何も知らなくて」
「いいよ。僕だって引っ越していってからの尊人を知らないもん。聞きたいことがたくさんあるよ」
尊人は僕の言葉を受けて、緊張した顔を緩ませる。尊人について聞きたいことがたくさんあるけれど、屋敷先生の言葉に止められた。
「輸血してる間におしゃべりしててもいいけど、出来れば白雪くんは寝たほうがいいわよ。自分で想像してるより体力も筋力も落ちてるだろうからね」
「……眠りたく、ないんです」
「それはどうして?」
「……それは……」
自分でも上手く言葉が出てこない。まとまらない。ぐるぐると頭の中で感情が渦巻いているけれど、どれも言葉として形を成してはいなかった。
「雪が言いよどむなんて珍しいな」
「そんなこと、ないよ」
「だってお前めちゃくちゃ本読むだろ。子どもの頃とかすごかったじゃん。たくさん言葉知っててさ」
尊人にそう言われて、ふと思い返す。そうだ、僕が何かに悩んだ時、ヒントをくれるのは部屋の壁を埋め尽くす本だった。でもここには一冊も本が無い。なんだか急に心許ない気持ちになった。
「そう、本が好きなのね。じゃあ今度はたくさん本を持っておいで」
先生はそう言いながら、布団をかけ直してくれる。そして尊人も、窓のカーテンを閉めて眠りを促してきた。
「……寝なくちゃダメ?」
「雪の仕事は寝ることだからな。家には何時までに帰れればいいの?」
「いつも七時くらいには帰ってるよ。お母さんが仕事から戻るのは九時とかが多いかな」
「じゃあその時間までに家の近くまで車で送るから、歩いて帰ればバレないか?」
「うん……あっっ‼」
この時、僕はふと思い立って身体を起こす。すると、尊人が慌てて駆け寄ってきた。
「おいどうした⁉」
「……スマホ……! 全然連絡見てなかったなと思って……ていうか学校にも母さんにも連絡してなかったから、騒ぎになってたらどうしよう……っ⁉」
「あ、そうか! 富実!」
「オッケー!」
尊人に言われ、富実さんが僕のカバンのポケットからスマホを取り出して持ってきてくれた。お礼を言って受け取り、画面ロックを解除する。しかし、スマホの画面に表示されていた通知は二つだった。一つは母さん。画面を開くと……
『春喜くんから連絡がありました。ちゃんと学校に行けたみたいでよかった。今日は少し残業で遅くなるけど、ちゃんとご飯を食べて休んでね』
「……え、どういうこと……?」
「どうした?」
「なんか僕、学校に行ったことになってるみたいで……」
「なんだ?どういうことだ?」
母さんのメッセージ画面を閉じて、次の通知を開く。その通知相手は、春だった。
『学校から雪が無断欠席してるって言われたから、俺が代わりに伝えておいた。おばさんにも言っておいたから騒ぎにはなってないと思う』
『帰ってきたら全部聞き出すから覚悟しろよ』
「……春……」
「春って?」
僕の小さなつぶやきに、尊人が顔をのぞき込んだ。隠すことでもないので、そのまま伝えることに。
「高校の同級生で……。今日、病院に行ったら連絡するって言ってあったの」
「ちょっと見せて」
尊人はそう言って、春から送られてきたメッセージを読む。すると、表情が少し曇ったように見えた。
「……こいつ、Vロームに気付いてねえか?」
「え?そんなこと……」
「Vロームってのは、知ってたら意外とすぐ分かるよ。痩せ方が異常だからな」
その言葉を聞いて、背中に悪寒が走った。上手く言葉にならない。感じたことのない恐怖だった。あの時の夢が、鮮明に脳内で再生される。
――近づくなよ、気持ち悪い――
「……どうしよう、尊人、僕……」
恐らく今、僕の顔は血の気が引いて真っ青になっていることだろう。尊人も僕の背中をさすりながら、慎重に言葉を選んでいるように思えた。
「この春ってやつは、騒ぎにしたくないからフォローしてくれたわけだろ?言いふらそうとはしていないと思う。どっちにしろ、ちゃんと話した方がいいだろうけどな」
「……うまく、話せるかな」
「一緒にいて欲しいなら付き添うから。それよりお前、自分の今の顔見てみろ」
尊人はそう言って、ポケットからスマホを取り出し僕の顔に向ける。カシャッと音が聞こえたかと思うと、画面をこちらへ向けた。
「……うぅわ、ひどい顔」
「だろ」
画面に映っていたのは、青白くて、目の下に真っ黒なクマがこびりついた僕の顔。春からの連絡を受けて血の気が引いたとか、そういうレベルの話ではない。頬は痩せこけているし、なんならもう死ぬ一歩手前のように見えた。そりゃ、みんなが一分でも一秒でも寝かせようとする意味が分かる。
「このまま雪がどうしても寝たくないっていうなら、睡眠薬を入れるしかなくなるんだよ。お願いだから、このまま寝てくれ」
「……お願い、寝るまで手繋いでてくれる?」
「そんなんでいいなら、いくらでも。ほら」
温かい尊人の手の体温が、僕の冷え切った手を包み込む。ああ、寝たくない。寝たくない。眠りに落ちて目が覚めた時、思い知るのが怖い。輸血を受けたあとに目が覚めて、自分の身体が本当に作り変わってしまったんだと思い知るのが恐ろしい。この恐ろしさを理解してくれる人は、きっと今この場所にはいないんだろう。このまま眠りに落ちたら、目を覚まさなければいいのに。そんな後ろ暗い考えに支配されながら、僕はついに限界を迎えて意識を手放した。
―――どれくらい眠ったのかは分からないけれど、自然と目が覚める。ふと窓の外を見ると、窓が開いてカーテンが風にゆれている。その隙間から見えた景色は、日が沈みかけて夕方になっていた。
「……ああ、やだなぁ」
ぽつりと、口の端からこぼれた本音。そして、じわりとにじむ涙。目が覚めた時、驚くほどに身体が軽くなっていた。べったりと張り付いていた倦怠感が薄まり、頭もスッキリしている。「ああ、本当に戻れないんだ」と言う事実が、胸に重くのしかかった。頭を横に向けると、屋敷先生が椅子に座りながら何か書き物をしている。ペンがサラサラ走る音が、静かな部屋に響いていた。すると僕の視線に気が付いたのか、先生がくるりとこちらへ振り向く。
「おはよう、気分はどう?」
「……悲しいほど良いです」
「あはは、表現が独特だねぇ。でもちょっと分かるよ。輸血で体調が良くなったから、Vロームであることを受け入れざるを得なくなったものね。ある意味、悲しい事実だわね。そっか、だから君は頑なに眠りたくなかったのか」
先生のまつげが、頬に影を落とす。まるで誰かを思い起こすようにそのまま瞼を閉じて、何と言葉を続ければいいのか、考え込んでいるように見えた。
「……先生、僕はVロームになっても、普通に生きていけるのかな」
僕の言葉を受け、先生はゆっくりと目を開く。そして真っ直ぐにこちらを見つめた。
「一概に大丈夫とは言えない。実際生活は大きく変わるし、病気を受け入れられず自死を選ぶ人もいれば、人との交流を絶って孤独に暮らすことを選んでいる人もいる」
屋敷先生は言葉を選びながらも、きちんと逃げずに現実を教えてくれる。僕にとって今までVロームは他人事。いや、他人事なんてものじゃない。もはやフィクションに近い存在だった。出会ったこともなければ、身近にVロームを発症したという人も聞かない。本当に存在するのかな?とすら思っていた。そして僕は、よく知りもしないのに「Vロームってイヤだな」
「他人から体液を飲まないと生きていけないなんて無理」なんて思っていたのだ。そうして僕は、これからそういう様々な中傷に晒されることになるんだろう。想像するだけで心臓は痛いし、吐きそうだし、涙が出そうになる。屋敷先生は僕の目に溜った涙を拭い、優しく微笑んだ。
「……僕はここで医者として八年以上Vローム患者と交流を続けているけれど、きちんとそれを受け入れて、きちんと人生を生きている人だってたくさんいる。この病院に通うことで、白雪くんはたくさんのVロームと出会うことになる。その中で、白雪くんが前向きに生きていける希望を見つけられたらいいと思っているよ」
確かに僕は自分以外のVロームと出会ったことがないので、実際のVロームの人生を想像することが出来ない。でもどうしても今の僕に、Vロームとしての幸せな人生を思い描くことは出来なかった。
「……どうしても、辛くて、逃げたくて、死にたくなったら、どうすればいいですか……?」
「そうだねぇ……。そういう時、君を抱きしめてくれる人を見つけて欲しい。君の孤独と、君の絶望と寄り添ってくれる、そんな人とね」
先生は簡単に言うけれど、そんな人が見つかるとは到底思えなかった。俯いていると診察室の扉が開く。扉の向こうから現れたのはニッコリと笑みを浮かべる富実さんだった。
「目ぇ覚めたの?おはよう雪ちゃん!」
「おはようございます」
「だいぶ顔色も良くなったね。トミー安心!」
するりと僕の頬を撫で、心底嬉しそうに笑みを浮かべる。こんな後ろ暗い気持ちをこの人に気付かれてはいけないと思い、別の話題を探そうと視線を逸らすと、大きなバッグが目についた。
「ありがとうございます。その荷物どうしたんですか?」
「血液パックが入ってるの!次の土日まで生活出来るように用意しておいたんだ」
「こんなにたくさん、どうやって……?」
この病気になったばかりの僕でも血液が貴重なことはわかる。献血は全国各地で毎日行われていて、それでも血が足りていないのだから。
「心配しないで。ちゃんと正規で集めた血液だよ。俺たちの活動を支援してくれる人からの献血のストック。それと俺が献血したー!」
「富実さんもですか…?」
「それも俺のお仕事だからね!月に一回400ml献血してる~」
「それってすごい量なんじゃ…」
「俺血多い体質っぽいんだよね!男性でいうと年間200mlなら六回以内、400mlなら三回以内らしーよ」
「富実さんさっき毎月って言ってませんでした⁉」
「あはは! だから俺はとっても貴重なmiracle boyなの! 心配しないでいっぱい飲んでね」
そうは言っても、献血は負担も掛かるし、僕一人ばかりにこんなにたくさん申し訳ない。そんな罪悪感はあるけれど、富実さんがあんまり嬉しそうに渡すから、拒否することも出来ずに受け取った。そうしてふと違和感に気が付く。富実さんのとなりにいるはずの尊人がいないのだ。
「あの……尊人は?」
僕が尊人の名前を出すと、富実さんは少し眉間に皺を寄せる。しかしすぐにいつもの笑顔に戻った。
「尊人はね、ちょっと疲れちゃったからお休みしてるんだ」
一日中僕に付き合わせたせいだろうかと思わず俯く。すると頭の上に重なる、心地の良い体温。視線の先には、優しく微笑む富実さんがいた。
「献血ルームってプレートが下がってる部屋にいるから、会いに行っておいでよ」
「あ、ありがとうございます!」
ゆっくりと立ち上がり、富実さんが指を指した方へ足を進める。扉を開いて中をのぞき込むと、尊人は背もたれに身体を預けながらぼんやりと天井を見つめていた。すると僕の気配に気が付いたのか、勢いよくこちらへ振り返る。
「雪! もう起きて平気なの? ちょっとは元気になった?」
「うん。悲しいほどに」
「なんだよそれ。お前昔から言葉選びが独特だよな」
「……無理させてゴメンね。僕に一日中付き合わせちゃったから」
尊人の隣に置いてある丸椅子に腰掛けながら、小さく謝罪する。なんだか目を合せることが出来なくて俯くと、頬にひんやりとした熱が重なる。そして視線が重なった。
「俺ね、そんなに丈夫じゃねーんだ。これでもけっこう動けるようになった方だけど、遠出した時はいつもこうなるんだよ。お前のせいじゃないから気にするな」
「……それでも、尊人がしんどいのは嫌だよ」
「俺は大丈夫。ほら、もう元気だから」
そう言って笑う尊人の顔色は、先ほどより白く見えて、どうしても胸が痛んだ。
「……尊人はどうして、Vロームを助けているの?」
「うーん、そうだなぁ。話すと長くなるなぁ」
「どのくらい?」
「とりあえず日が暮れる」
「ずっとそうやってはぐらかすつもり?黙って引っ越しちゃうしさ……」
「ちゃんと話すよ。でも今、雪に余計な負担を掛けたくないのも本当なの。俺の十年、そんなに中身が空っぽってわけじゃないから」
その言葉に思わずはっとする。そうだ、僕たちが別々に過ごしていた間、父さんが亡くなった。それは僕の人生にとってかなり重たい出来事で、しかもVロームを発症して……。でも、尊人の人生にも僕と同じか、それ以上の何かがあっても不思議ではないんだ。それなのに僕は、まるで悲劇のヒロインにでもなったかのように自分ばかりがしんどくて辛いんだと思い込んで、尊人のことを、これっぽっちも考えることが出来ていなかったんだ。
「ごめん。僕、自分のことばっかりで……」
「そりゃそーだろ。今日一日で受け止められるようなことじゃないんだ。お前はすごいよ。Vロームの診断を受けた日は錯乱してまともに話せなくて、睡眠薬で無理矢理寝かせる人もいるくらいなんだ。お前はこうやって俺と目を合せて会話をするだけじゃなくて、俺のことまで考えてくれようとしてるんだから」
頭の上に乗せた手を上下に動かし、心地の良いリズムでポンポンと撫でてくれる。そうだ、尊人は昔からこうやって僕の頭を優しく撫でてくれていた。昔から優しい人だった。
「俺はね、雪に謝って欲しいんじゃない。雪に生きて欲しい。生きる選択をして欲しい。そのために出来ることなら何でもする。だから何かあったら俺を呼んで。飛んで行くって約束するから」
「……僕が死にたいって泣いても、鬱陶しがらないでくれる?」
その言葉に、尊人は何を言うわけでもなく、ただ微笑んで僕を抱きしめる。全身で「そんなことないよ」と言ってくれているみたいで、涙が溢れた。
「ほら、帰ろう。おばさんが帰ってくる前に」
「うん……。帰り、運転出来るの?無理なら電車で帰るから」
「もう大丈夫だよ。それに電車で帰ろうと思ったら一時間半はかかるんじゃね?」
「ここってそんな田舎なの⁉」
「ふはっ……そうだよ。ほら、おいで」
尊人はゆっくり立ち上がり僕の前に立つと、手を差し伸べてくれた。その手を掴み、僕もゆっくり立ち上がる。
「うん、顔色も良くなったな。これならおばさんも一安心だろ」
「……ありがとうね。尊人」
「おう!じゃあ行くか~」
献血室を出て、屋敷先生のいる診察室へと戻る。すると、富実さんがこちらへと駆け寄ってきた。
「二人とも準備オッケー? そろそろ行こうか!」
「運転するのは俺だっつーの……」
「白雪くん、次の土曜日待ってるからね」
「はい先生。今日はありがとうございました」
膝に黒い猫を抱きかかえながらひらひらと手を振る先生に会釈をして、病院をあとにする。後部座席に乗込むと、富実さんが大きな声で「それじゃあレッツゴー!」と楽しそうに右腕をあげる。尊人は終始鬱陶しそうな顔で、車のエンジンを掛けた。
「俺、雪ちゃんと尊人の馴れそめ聞きたぁい」
「はあ?今聞く話でもねーだろ、今度にしろ」
「え~。みーこのけちんぼ!」
「……尊人は初めて会ったとき、僕の名前を笑わないでくれたんですよ」
今でもよく覚えている。今よりもっと名前にコンプレックスが強くて、初めて会う人に自分の名前を言えなかった頃。引っ越しの挨拶に行った時、母親が代わりに僕を紹介してくれた。
「女みたいって言われると思って、心臓がドキドキして。でもそんな俺に、尊人は言ったんです。『ふーん、じゃあ長いから雪な!俺尊人。あっちで遊ぼうぜ』って」
ふと視線を尊人に投げる。すると、耳まで真っ赤になっていた。
「もうこの話おしまい! お前は栄養摂って寝るのが仕事なんだから、寝ろ!」
「……うん、おやすみなさい」
富実さんへ視線を向けると、とても満足そうにこちらへ笑顔を向けている。これ以上話すと尊人が不機嫌になると思い、ゆっくりと目を閉じた。
「――雪、着いたよ」
「んん……」
尊人の声に、沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。視界に映る景色は、いつもの近所の風景だった。
「ありがとう……」
「ここから降りて歩いていけば、途中でおばさんと鉢合わせても問題ないな?」
「うん。本当にありがとうね」
「いいか? 血液パックは紙に書いてある量を決められた時間になるべく飲むこと。あんまり間が空くとすぐ不調が出てくると思うからマジで気を付けろな」
「出来れば学校は休んでほしいんだけど、雪ちゃん出来そう?」
「明日は金曜だし、一日くらいなら大丈夫だと思います」
「いいか? 雪の仕事は栄養摂って寝る、栄養摂って寝るだからな!」
「無理しないのよ~!」
「はい。尊人も富実さんも今日はありがとうございました。気を付けて帰ってくださいね」
二人の車が見えなくなるまで手を振って、家までの道を歩き出す。幸い帰り道は誰かに遭遇することもなく無事に帰宅することが出来た。
しかし、家の鍵を開けた瞬間、僕の顔めがけて腕が横切り、ドンという音が響いた。後ろに誰かいる。そして動けないように身体を重ねられていた。これが見知らぬ人なら恐怖だろう。でも僕は、目を合せなくてもそれが誰か分かってしまった。そして、恐る恐るその名前を口にする。
「春……?」
「お帰り。ずいぶん顔色が良くなったな」
「待って、どうして……」
「お前が帰って来るまでここにいただけ」
「なん……で……」
「お前が俺に質問出来ると思ってんの?」
肩を掴まれ、強引に身体の向きを変えられると、春と視線がぶつかる。今朝家に来た時と同じ人間とは思えないくらい、険しい表情を浮かべていた。
「中、入れてくれるよな」
「……どうぞ」
心臓が音を立てて暴れているのが分かる。春とは一年以上一緒にいるけど、ここまで怒っているのは見たことがなかった。でもそれくらい心配を掛けた僕が悪いんだから、彼の怒りは甘んじて受け止めなくては…。深く息を吸い、玄関の扉を開けて春を中へと招き入れる。自分の部屋に案内するまでの無言の時間が、とてつもなく重たく長く感じられた。そしていつものように、僕が自分の椅子に座って春がベッドに腰掛ける。しかし春はこちらを睨み付け、無言で自分の横を叩いている。ここに座れ、ということだろう。観念して横に腰掛けた。
「……えっと、僕から話していいの?」
「当たり前だろ」
「……えっと……その、あのね……」
ダメだ、なんて言い訳すればいいんだろう。いや、言い訳すれば春はもっと怒るかもしれない。でも僕は、どうしても自分の口からVロームを発症したと言い出すことが出来なかった。口ごもっていると、春の手が僕の頬を掴み、ぐっと顔を引き寄せられる。強くて鋭い瞳に捕まり、身動きが取れなくなった。
「ちょっ何……っ」
「自分で言えないなら俺から言ってやるよ。雪、俺は……全部知ってたよ」
「どういう……こと……?」
「俺は、お前が気付く前から、お前がVロームを発症してるって気付いてたよ」
頭を殴られたような衝撃が走る。止まりそうになる思考を必死にたたき起こして、言葉を絞り出した。
「どう……して……」
「弁当は毎日食べてるし、おばさんと会った時にお前が飯を残してるか聞いたけどそんなことはないって言ってた。でもお前は明らかに痩せていっただろ。Vロームの特徴が頭に入っていれば誰だってピンとくる」
尊人の言った通り、春は僕がVロームになったことに気づいていた。でも、それならどうして……。
「……な、んで……黙ってたの……?」
「雪は俺からVロームを発症しているから病院に行こうって言われて、素直に行ったか?」
「それは…」
「雪が自分で気付いて認めて病院に行かなきゃ意味がないと思った。だから今朝、かまかけることにしたんだよ」
「どういう……」
「俺の指、ケガだと思った?」
目の前に、春の指が差し出される。今朝、僕がVロームとして初めて「体液」を欲した、血のにじんだ指先だった。春の口元はニヤリと弧を描いており、指先のケガが事故ではないということを理解した。
「春、自分で指を……?」
「血のにおいがトリガーになると思った。でもまさか、自分で供給先を探すとは思わなかったよ。てっきり病院に行くと思ったのに」
言いたいことはたくさんあるはずなのに、どれも言葉になって出てこない。春が僕自身に病気を認めさせたかったのは分かる。でもどうして、そこまでする必要があったんだ?病院に行かず、尊人たちの所に電話を掛けたことの何が問題なんだろう。明らかに混乱した様子の僕を見て、春はふと優しい笑みを浮かべながら、指の絆創膏を剥がした。
「なあ、お前はもう血を飲んだの?」
「……え、栄養として、だけど……」
「まあそうなるか……。初めては俺の血を飲んで欲しかったのに」
「は?何言って……っ」
「俺はね、お前がVロームになったって分かった時から決めてたの。俺がお前を一生養ってあげるって」
そう言って春が勢いよく絆創膏を剥がすと、指先から、じわりと血がにじむ。その指先でゆっくりと僕の唇を撫で、口内へと侵入してきた。ふわりと広がる甘い香りに、思わず顔をゆがめる。それは決して嫌悪という感情ではない。身体に流れてくる快楽に抵抗しようとしているのだ。尊人の言葉が頭をよぎる「体液にも特別相性がある」と。今朝春の血の匂いが鼻をかすめた時から、なんとなく感じていた。春の体液は、僕にとっては危険すぎる。ほんの少し口に入ってきただけで、理性が吹き飛びそうなくらいの快楽が全身を駆け抜けていた。
「ふ……う、あ……っ」
「雪。もう俺以外から栄養をもらうのはやめてよ」
「そん……な、無理だよ。だって、春……っ」
「そっか、これだけじゃ足りないんだな。こんなに痩せたし、しょうがないか」
口の中から指を抜き取り、両手で僕の顔を引き寄せる。気が付いた時には、春は僕の唇を吸い上げながら、顎を掴み、無理矢理口を開かせた。そして自らの舌を使って口内をぐちゃぐちゃと音を立てて舐め回す。そこにはやっぱり、嫌悪感は欠片も存在しなかった。呼吸が苦しくなってきたタイミングで春が一度唇を離す。二人の間には、銀色の糸が伝っていた。
「ふ……っう、はっはぁ……っ」
「……俺はね、お前がVロームになったって気付いた時からちゃんと勉強していたんだよ。血液も唾液も、美味しいんだろ?」
「ん、んま、まって、は……ん……っ」
もう一度唇が重なり、ぐじゅりと音を立てて、口の中に唾液が送り込まれる。ゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、春は満足そうな表情で僕のおでこにキスを落とした。ダメだ、頭がぐらぐらする。ぼうっとする思考に、起きろ起きろと叫びながら、春の言葉に耳を傾けた。
「今日、雪を送ってきたやつらは誰なの?」
「……い、eat loveっていう……Vロームを支援してる団体……っ。病院で、輸血をしてくれた、よ」
「そこには定期的に通うわけ?」
「ど、土曜日に……輸血の入院……する。一日、だけど……」
「分かった。それは我慢する。治療が終わったら、そのあとは俺だけにして」
「で、でも……春……っ」
「雪はラッキーだよ。Vロームの供給相手は男の方が効率いいから」
「どういう……こと……?」
僕が小首をかしげると、春は僕の右腕を掴み、自身の下半身へと誘導する。静かな部屋に、僕の心臓の音だけが響いているような気さえした。そして小さく微笑みながら、今まで聞いたこともないような声で囁いた。
「血液の次に栄養があるのは、精液だからに決まってるだろ」
その言葉で、僕は全てを理解する。一瞬で全身の体温が上昇するのを感じた。でも、だめだ、それだけはダメだと、雨粒程度に残った理性をフル回転させて、首を横に振った。
「……だ、ダメ、ダメだよ、春。だって僕ら、お、おと、男同士なの、に」
「どうして?これは食事だよ。セックスなんかじゃない」
「な……っ」
「キスだってそう。これは全部、雪にとっては食事なんだから、何も特別に思わなくていいんだよ。それに、雪は知りたくない?」
「なに……を……?」
「血の味と、唾液の味と、それから、精液の味」
春は美しい顔に似合わない言葉をこぼしながら、右手で僕の頭を撫で、左手で僕の手を掴むと、自身のズボンへと誘導する。そこは布越しでも分かるくらいに熱をはらんでいた。
「ねえ、雪。Vロームになった人は一生誰かから栄養をもらわなくちゃいけない。知らないヤツより、俺の方がずっと良いと思わない? 色んな人に負担を掛けるより、俺ひとりからもらった方が、雪の気持ちも楽じゃない?」
彼の瞳に映る僕の顔は、どんな表情をしているだろう。それは僕には分からない。僕の両目には涙がたまって、全ての景色がにじんで見えた。春はゆっくりと僕の涙を舐め取っていく。
「あう、は、春……」
「泣かないで、むしろ喜んでよ。これで雪は一生食事に困らず生きていけるんだからさ。雪の秘密は、俺が一生守ってあげる」
何か返事をしなくちゃいけないのに、僕の頭は何も考えることが出来なくなっていた。春は返事を待ちきれなくなったのか、もう一度僕に問いかける。
「ねえ、俺のこと、美味しく食べてくれないの?」
怪しく妖艶に笑う春を見て、背筋にぞくぞくと快感が走るのが分かる。僕の身体は今、ずっとずっと欲しがっていたご馳走を目の前に並べられて、理性が吹っ飛ぶ寸前だった。目の前にいる人が友達だとか、男だとか、これから先どうなるかとか、そんなことはもう、どうでもよくて。
――身体中の細胞が叫んでいた。
飲みたい、飲みたい、飲みたい。
口いっぱいに、おなかいっぱいに。
「……は、る……」
「ほら、おいで」
春は履いていたズボンをゆっくり脱いでいく。下着ごとおろしたんだろう。目の前には、今にも破裂しそうなそれが顔を出した。今まで自分以外のものをまじまじ見たことなんてない。まして、どんな匂いがするかなんて嗅いだことも想像したこともなかったけれど……。
「なあに、見ただけで食べたくなっちゃった?すごい物欲しそうな顔してるよ」
春の指先が伸びて、唇をするりと撫でる。その端から溢れたよだれをすくい取り舐める仕草を見て、ついに我慢の限界を迎えてしまった。
「た、たべ、たべたい……っ食べたい……食べたい……っっ!」
「……うん、めしあがれ」
春の合図を受けて、先走りをダラダラと流しているそれに唇が触れる。その瞬間、甘みとも苦みともなんとも言えない、味わったことのないうま味が口いっぱいに広がった。恐る恐る口を開けて春のそれをゆっくり口に含む。夢中になって舐めていると、春は僕の頭を掴んで更に喉奥へと突っ込んだ。ふと視線を上へ向けると、春の顔から少し余裕が消えたように見える。もしかして春も気持ち良いと思ってくれているのだろうか。
――いや、違う。これは食事だ。ちゃんと精液を飲ませてもらえるように、僕が頑張らなくちゃいけないんだ。春も言っていただろう。これはセックスじゃなくて、ただの食事。これに「愛」はない。勘違いしちゃいけない。僕は意識を切り替えて、口の動きを速くする。すると、春のなまめかしい声が少しずつ漏れ聞こえるようになってきた。
「ん……っ春、気持ちいいよ……ちゃんと全部、飲むんだよ?」
「んっ……ちょ、ちょーらい、はるっ」
春は僕の頭を固定して、白濁を放った。ごくごくと喉を鳴らし、一滴残さずそれを飲み込んでいく。胃の中に落ちていく感覚が分かるほど、春の精液が全身に広がっていくのが分かった。
「……はぁ……ん……っ」
「雪……っ?」
一滴残らず春の精液を飲み込んだあと、ゆっくりと口を離していく。飲んだばかりなのに、信じられないほどの名残惜しさを感じた。
ああ、こんなに、こんなに美味しいものを、こんなにたくさんもらってもいいんだろうか。春から注がれた精液は甘くて、美味しくて、思わず涙がにじむ。でも僕の涙を、彼は後ろ向きな意味に解釈したのか、不安そうな声で僕の顔を上へ上げた。
「雪……ねえ、ちゃんと、美味しい?」
「……んっ……。おいし、かったよ……ずっと、飲んでたいくらい」
「それなら、よかった」
「……ねえ、春。僕のこと、気持ち悪く……ない?嫌いに、ならない……?」
僕は春が好きだ。大事な友達だ。そんな友達とこんな歪んだ関係を持ってしまって、嫌われるなんてことになるのが一番怖かった。一番仲の良い友達だからこそ、僕は春に、Vロームであると知られることが何よりも怖かったのだ。春にこんな負担を強いることになって、離れていかれることが恐ろしくて、僕の視界は滲んでいく。春は目じりをするりと撫で、不安の雫をぬぐい取った。
「雪がネガティブになるのは分かるよ。でもね、俺から言い出してるんだから、嫌いになるわけないだろ」
「春……」
「お前が一生食事に困らないように、俺が養ってあげる。それだけの話だよ」
……そう、これは食事。困っている僕を見過ごせない、春の優しさ。春は「一生」なんていうけれど、それも恋人や奧さんが出来るまでのことだろう。それにもしかしたらその間に、治療法が見つかるかもしれない。春に依存しないでも生きていける誰かと出会えるかもしれない。これは、それまでのいわば「契約」なんだ。
黙り込む僕の返事を促すように、汗ばんだ前髪をすくい取られ、自然と春と視線が重なる。
「……もしまだ足りないなら、出ると思うけどどーする?」
「ふはっ……元気だね?」
「当たり前だろ、十六だぞ。ナメんなよ」
「……ありがとう。春のおかげで、なんか久しぶりに満腹って感じ。それにもうすぐ母さん帰って来るから、今日はこれで十分だよ」
「そういえばお前、土曜の入院する言い訳は考えてるの?」
「あー、そういえば全然」
「俺んちに泊るって言っておけば?それが一番怪しまれないだろ」
「いいの?」
「だってお前、おばさんに病気のこと言うつもりないじゃん」
「バレてましたか」
「見てりゃ分かるよ」
そう言いながら、春はふと僕から視線を移動する。その先には、富実さんから受け取ったバッグが置いてあった。チャックの隙間から中身が見えてしまったんだろう。
「あれが血液パック?」
「そうだよ。一時間から二時間の間に一パック飲むように言われてる。もし三時間以上眠るなら一時間一パック計算を先に飲んでおく、みたいな」
「でも雪は今精液飲んだじゃん?それはカウントされないの?」
「結構重ための栄養失調だから、栄養は摂れれば摂れるだけ良いんだと思う」
「そっか。で、明日の学校は?学校休んで俺の家に泊りに来るのはさすがに変だろ」
「でも、学校で一時間に一回血液飲むのってむずくない?」
「じゃあ明日は学校行くフリして俺んちにいたら? 先生には俺が言っておく」
「そこまで甘えるのもちょっと…」
「いーんだよ。成績優秀な俺の言うことは大体信用されるから。風邪こじらせてるってことにしといてやるよ」
玄関の前で会った時は信じられないほど怖い顔をしていて、栄養をくれていた時は見たこともないくらい艶めいた顔をしていて、今はいつものように子どもっぽい笑顔を浮かべている。 その春を見て、僕は気が付いたらまた涙が出ていた。
「どうした、雪?」
「……違うの、ちょっと安心して……」
「なにが」
「……春が、いつもとおんなじように笑ってくれたから」
本当に僕のことを嫌いにならずに、Vロームになる前と同じように隣にいてくれるんだと分かってどれだけ安心したか、春には分からないだろうね。春は僕の前髪をさらりと撫で、目じりにキスを落とした。春が涙をなめたって、ただしょっぱいだけなのに、なんでだろう。そんなことを思いながら視線を重ねた時、彼は今までにない優しい笑顔を向けてくれた。
「バカだな。どんな風になっても、雪は雪だよ。何も変わんないよ。俺の言い方が悪かったのかも知れないけど、俺はただ、雪のために出来ることがしたいだけ。そうだな……俺は雪の食事係になりたいってことだな」
「……なあに、それ」
自分で自分を食事係なんて言わない。でも、色っぽさを感じさせない業務的な言葉が、僕の気持ちを軽くさせた。
「白雪さんが食事係を募集していると聞いて来たんですけど?」
「もう、やめてよ……。でも嬉しいです。その、お世話になります」
「ん。採用ね」
春は僕の頭を肩へと抱き寄せる。深く息を吸うと、春の制服から汗と柔軟剤の匂いがまじったなんとも落ち着く香りに満たされた。すると春は名残惜しそうな表情を浮かべながら、頬をするりと撫でる。
「おばさんが来る前に今日は帰るよ。明日雪を迎えに来て、俺の家に送って、俺は学校に行くね。今日、寝る前にちゃんと血飲めよ」
「分かってるよ。今日は来てくれてありがとう、気を付けてね」
「ん。お前もな」
春を見送るために一緒に玄関へ向かう。すると、それと同時に扉が開いた。そこに現れたのは、仕事帰りの母だった。
「あら春喜くん。来てたの?今日は連絡くれてありがとうね」
「こんばんは、おばさん」
「お、お帰り母さん」
「あら!今朝より顔色がいいじゃない。体調良くなってきたって本当なのね。よかった」
母さんは心底ほっとした表情を浮かべ、僕の頬に手を伸ばす。春に視線を投げると、ふっと笑みを浮かべた。
「おばさん、まだ雪も本調子じゃないから今日は寝かせてやってね」
「そうね。晩ご飯は食べなくていいの?」
「うん、明日食べるから」
「分かったわ。じゃあ今日はもう寝なさいね」
「うん。春も今日はありがと、おやすみ」
「おやすみ」
バタンと扉が閉まったのを確認して鍵を掛ける。そして母さんの方へ振り返った。
「じゃあ僕寝るね。おやすみ母さん」
「ええ、暖かくして寝るのよ」
部屋へと戻り、ベッドに身体を沈める。今日一日に起こったことがあまりにも多すぎて、脳みそがパンクしそうだ。明日目が覚めた時、全部夢だったらいいのに。ふとスマホに視線をやると、画面に通知が表示されている。ロックを解除しメッセージを開くと、尊人からの確認メッセージだった。
『ちゃんと寝る前にパック飲めよ! 寝落ちすんなよ! 飲んだら返事!』
メッセージを読んで思わず吹き出す。今まさに寝落ちしようとしていたところだったのだから。カバンから血液パックを取り出し、ゆっくり飲んでいく。その時、ふと気が付いたことがあった。
「これ……尊人のじゃない。誰だろう?」
今朝尊人からもらった血とは違う味がしたのだ。「相性」もそうだけど、人それぞれでこんなに味が違うんだと驚いた。
「……なんか、こうやって慣れていくのかな……慣れるしかないのかな……」
目を瞑り、無心で血を飲んでいく。脳裏によぎったのは、春から栄養をもらっていた時のことだ。甘く、ドロリと広がる、あの味を、きっと僕は一生忘れることが出来ないと本能で理解していたから。
「……春……」
いつか春と離れる日が来ても、僕はきっとふとした時に、春の味を思い出すことになるんだろう。そんな未来を思って、胸にじくりと、痛みが走る。
血を全て飲み終えたことを尊人にメッセージで報告し、アラームをセットして眠りにつく。今はいくら栄養を摂取しても足りないし、体力は自分が思っているより減っているのだろう。こんなに頭がグルグルしているのに、意識はどんどんと暗闇に溶けていった。
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