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第3話

「ん、んん……」  翌朝、自然と目が覚める。今まではスマホのけたたましいアラームで起こされていたのに、Vロームになる前のようにスッと身体を起こすことが出来た。輸血と、春から栄養をもらえたおかげだろう。 「……いや、冷静に考えてとんでもないことしちゃったんじゃ……っ」  昨日の春との出来事が思い起こされ、頭を抱える。僕にとってはありがたいことだし、感謝して受け入れなくちゃいけないことなんだけど、そんなすぐ春との関係を「ハイよろしくお願いします」と前向きに捉えられるほど僕のキャパシティは大きくない。昨日は熱に浮かされて、そういう関係?になってしまったが、やっぱり断った方が良いんだろうかと、グルグル部屋を歩き回ると、つま先がバッグにぶつかる。頭の中で尊人の「飲め!」という声が響いた気がした。 「……えと、いただきます……」 血液パックを二つ取り出して、中身を吸い上げる。昨日よりは慣れたし、抵抗感もない。それでもほんの少し胸が痛むのは、僕がまだVロームを受け入れられていないんだろうな。一パック飲みきった頃、手元に置いてあったスマホが光る。画面を確認すると、通知の相手は春だった。 『おはよ。今朝の気分は?』 『おはよう。久しぶりにアラームより先に目が覚めたよ。今は栄養補給中』 『じゃああと十五分くらいしたら迎えに行くよ』 『ありがとね』  春に返信したあと、尊人に『朝食完了』のメッセージを送る。するとすぐに『了解』のスタンプが返ってきた。 「……もうこんな時間か」  スマホの時計に目をやると、母さんはもう家を出ている時間だった。朝のあいさつと、体調の報告をラインで送る。 「着替えなくちゃ」  実際学校に行くわけじゃないけど、万が一母さんと鉢合わせたときのことを考えて制服に着替え、今日必要な分の血液パックと、久しぶりに本が読めると思って何冊か手に取ってスクールバッグに詰め込む。すると、約束通りの時間にチャイムが鳴った。 「おはよう雪」 「おはよう春。わざわざゴメンね」 「いいよ。ほら行くよ」 「え?う、うん」  春は僕の手を握り歩き出した。あまりに自然だったので、特に抵抗することはなかったけど、なんで歩くのに手を繋ぐんだろう。こんなこと今まであったっけ……。小首をかしげながら春の方へ視線を投げると、ふわりと優しい笑みを返された。 「なんだよ」 「え、いや……なんで手繋いでるんだろうって」 「かよわい白雪ちゃんが倒れないように」 「なっば、バカにすんなよっ! 歩けるわ!赤ちゃんじゃないんだぞっ」 「別に赤ちゃん扱いしてるわけじゃねえよ」  春の長くて綺麗な指がするりと絡まり、そのまま僕の手を顔へ寄せる。それに何の意味があるのか分からないけれど、心臓の鼓動が早くなっていることだけは理解出来た。 「雪は自分で思ってるより筋力が落ちてると思うよ。脂肪より先に筋肉が落ちることがほとんどだから。それってちょっとした段差でもつまずきやすいってことなんだよ。だから大人しく支えられてな」 「……は、はい」 「ん」  それから春の家に着くまで、お互い何か喋ることはなかった。春と一緒にいて無言になる時間は珍しいことではないが、今日の無言は今までとは違って、なんだか恥ずかしいようなくすぐったいような、変な気分だった。それでも家から春のアパートはそんなに離れていないので、十分も歩けば到着する。春は先に階段を数段あがり、ゆっくりこちらへ振り返った。 「階段、ゆっくり登るんだぞ」 「う、う。、ありがとう」  こんな、階段で手を差し伸べるイケメンがいていいんだろうか。僕はそんなの、本の世界の中でしか知らなかったのに。僕が女の子だったら大変なことになってたぞと心の中でつぶやきながら、春の手を取り階段を上がる。そのまま部屋の中へ案内されるが、もう何度も来た場所なので、特に居心地の悪さは感じなかった。今までにない心臓のうるささにほんの少し戸惑ってはいたけれど。 「俺が帰って来るまで好きにしてていけど、出来れば寝てろな」 「ベッド借りちゃっていいの?」 「むしろ床で寝てたら蹴り飛ばす。あとそれから本も読まずにひたすら寝ろ」 「えー……楽しみにしてたのに」 「ダメ。いい子にしてろ」  頭をくしゃりと撫でながら「じゃあ行ってきます」と言って、春は家を後にした。考えてみれば春の部屋に一人きりになるのは初めてのことで、少し緊張する。 「……いや、僕の仕事は栄養摂って寝る!栄養摂って寝る!」  次の栄養補給まで二時間くらいあるので、また仮眠することに。うるさい心臓を静かにするには丁度良い時間だろう。お言葉に甘えてベッドに身体を沈めた。しかしそれだけで僕の思考が止まるわけもなく、頭の中はさっきまで一緒にいた春で埋め尽くされていた。 「……春って、あんなに優しかったっけ?」  元々良いヤツではあったけど、あんな風に気を遣ってくれるなんてことあったっけ?いやなかったと思うんだよなぁ。あんな優しい顔で僕を見てくれたことあったっけ?なかったと思うんだよなぁ。記憶の中の春を脳内でスライドしていくけど、今日見たような笑顔は、どこにもヒットしなかった。 「……ん~……分かんないなぁ……」   ――気付いた時には意識は夢の中に溶けていて、僕を現実世界に引き戻したのはスマホのけたたましいバイブ音。それが着信音だと気が付くのに時間は掛からず、大慌てで電話に出た。 「はいもしもし…っ⁉」  画面も確認せず電話に出たので、相手が誰か分からなかったが、声ですぐに分かった。 『おい雪! ちゃんと定期的に連絡しろ!寝落ちしてたのか⁉』 「みこ……みこと……?」 『ぽやぽやしてんな。お前もう午後の一時だぞ』 「えぇえ、ご、ごめん……全然気が付かなくて……」 『ちゃんと寝過ごした分飲むんだぞ、約束だからな』 「……ねえ尊人」 『どした?』 「……ちょっと相談というか、言わなきゃいけないことがあって」 『このまま聞くか?直接が良いか?』 「直接、かな……」 『じゃあ明日聞いてやるよ。飲んだらまた寝るだろ? どれくらいまで寝る?』 「夕方くらいには起きられると思う」 『分かった。そのくらいにもう一度連絡する。おやすみ』 「ありがと、おやすみ」  電話を切り、言われたとおり多めに栄養補給をする。寝る前に尊人と春に連絡を入れて目を瞑れば、僕は簡単に意識を手放した。 「――ゆき、ゆき。雪、起きて」 「……んぇ、あ、え⁉」  勢いよく身体を起こすと、目の前には学校から帰ってきた春がいた。想像以上に近い場所に顔があって、思わず目をそらす。 「お、おお、お帰り、春」 「ただいま。栄養補給の時間は大丈夫なの?」 「あ、そうそう。あとちょっとでアラームが鳴るとこだった」  枕元に置いたスマホの時間を確認すると、アラームの五分前。よかった、これなら尊人にも怒られずに済むと一安心していると、春が耳元に近づいて来た。 「血液にする?それとも精液にする?」 「なっっ、あの、あのねぇ!」    ちゃかしたことを言う春をキッと睨み付けると、それとは対照的にふわりとした笑みを浮かべられ思わず息をのんだ。 「だって俺はお前の食事係だから」 「そ、れは……その……」  春の身体が、ゆっくりと僕の身体に重なり、ベッドへと押し倒す。目の前には、春の大きくてキレイな琥珀色の瞳が二つ、キラキラと輝いていた。 「……相変わらずきれーな顔だね」 「話をそらすな」 「……だって、やっぱり、恥ずかしいよ」 「ウブなこと言ってんね」 「ちょ、まって、は……うんんっ」  春は問答無用で僕の唇を吸い上げ、歯列に舌を押しつけ無理やりこじ開けていく。口内をなめ回し、舌を絡ませ、あっという間に口の中へ唾液を送り込んできた。 「ん、ふ……っは……っ」 「ねえ、俺の唾液は美味しい?」 「え?えっと……う、うん……」 「じゃあいっぱい飲んでよ。お前のための唾液なのに」  ……やめて。そんな風に優しく笑いかけないで。こんな風にドロドロに甘やかされて、いつか捨てられるのは僕の方なのに。近い未来、困るのは僕の方なのに。春のシャツを掴む力が強くなると、春はゆっくりと唇を離す。そして耳元に顔をうずめ、艶めかしい声で囁いた。 「……ほら雪。雪が欲しいって言ってくれないと、飲ませてあげられないよ」  そう言って、彼は自分のものを押し当てる。僕はVロームになっておかしくなってしまったんだろうか。春の唾液を飲むと、我慢が利かなくなる。唾液だけで十分なはずなのに、もっと、もっととねだってしまう。 「……飲み、たい……です……」 「いい子だね」  僕のおでこに口づけを落としたあと、身体を起こしてズボンを脱いだ。そうして花の蜜に吸い寄せられるように、春の身体へと縋り付く。彼は僕の頭を優しく引き寄せ、反り立ったそれへと誘導した。 「……飲んで、いいの?」 「当たり前だろ。お前のために作ったのに、飲んでくれなきゃ困るだろ」 「……ごめんね、春」 「謝るの禁止。飯の時はなんて言うんだよ」 「えーっと、その、いただきます……?」 「はい、めしあがれ」  恥ずかしくて死にそうになるけれど、それ以上に春の精液が欲しい。はやる気持ちを抑えながら、彼のものを口に含んだ。だらりと溢れる先走り汁を丁寧に舐め取り、自身の唾液と混じり合い、ぐちゅぐちゅと水音が部屋に響く。上下の動きを速くすれば、春の呼吸も上がっていき、僕の頭を優しく掴む。昨日からなんとなく思ったけれど、これが春の達しそうになる合図なんだろう。期待するあまり、心臓が一つ強く跳ねた。 「……雪、出るよ……っ」 「うん……っふあっあ……っっ」  口いっぱいに白濁が注ぎ込まれ、ごくごくと音を鳴らす。僕のために作られた精液を、一滴残らず飲み干せるように。 「……ごちそうさまでした」 「美味しかった?」 「……美味しいよ。昨日も言ったじゃん」 「美味しいって言ってもらえると嬉しいの。いいだろ別に」 「……あのね、春。血も美味しいけど、春がくれるものは特別全部美味しいよ。eat loveの人が言ってた。体液にも好みとか相性があるんだって」 「じゃあ俺と雪は相性良いんだ?」 「たぶんね。だから大丈夫だよ」  僕の言葉に、春の表情がほころぶ。そして頬に手を伸ばしてまるで宝物でも愛でるような視線を注いで来た。 「血はいいけど、他の体液は俺以外から飲んじゃダメだよ」  輸血や血液パック以外の体液摂取は、こうやって相手に直接口を付けるしかない。それは相手に僕がVロームであると打ち明けるようなものだ。そんなこと、僕が春以外に出来るわけないのに、今更何を言うんだろう。春は僕以外の誰かに提供できるだろうけど、春以外から飲めないのは、僕の方なのにね。 「……分かってるよ。僕のこと、一生養ってくれるんでしょ?」 「そう、約束な」  頬に一つキスをして、彼は満足そうにベッドから立ち上がる。 「じゃあ俺着替えてくるから。春は血液補給し終わったらまた休んでいいよ。おばさんが帰って来る前に送るから」 「うん、ありがとうね」  春が出て行ったあと、血液パックを飲んで尊人にラインする。そのまま春に起こされるまで眠りについて、目が覚めた時には辺りはすっかり暗くなっていた。 「気分はどう?」 「昨日に比べたら夢みたいに調子いいよ」 「そっか。よかった。じゃあ帰ろう」  帰り道も春に手を引かれて歩いて行く。そして、後ろから見える春の横顔をぼんやり眺めていた。もし僕が女の子だったら、そりゃもう大変なことになってるだろう。秒で恋に落ちてると思う。でも僕は男だし、なによりこの関係は今だけの契約みたいなもの。  それにこの状況で好意を抱く現象、確か名前があったと思う。そうだ。昔本で読んだ「ナイチンゲール症候群」だ。心優しいナースに患者が恋してしまうというもの。似たようなケースを本でたくさん読んできた。僕は今、追い込まれたこの状況で献身的になってくれている春に少なからずドキドキしているだけだ。気持ち悪がられず、今まで通り友達でいてくれる春に、これ以上何かを望んじゃいけない。 「なあ雪、さっきから何?」 「え?」 「そんなじーっと見られるとさすがに照れるんだけど」 「え、あ! ごめん!」 「別にいいけどさ。見られ慣れてるし」  ぐいっと手を引かれ、隣に立たされる。何がなんだかわけが分からず目をぱちくりさせていると、春がこちらへ振り向いた。 「どーせなら隣歩けば? その方がよく見えるでしょ」  咄嗟に何と言えばいいか分からず「あ、え、あ」と、カオナシみたいな声しか出てこない。それが面白かったのか、春はクスクス笑いながら、視線を前へと向ける。 「……土日、ライン出来そうならしろよ。心配だから」 「あ、うん、はい……」 「ふは、なにその後輩みたいな返事」  そうこうしているうちに家に到着すると、春は僕の頭に手を置いた。 「何かあったらすぐ連絡しろよ。約束」 「……分かったって。今日は本当、ありがとね」  春が帰っていくのを途中まで見送り、家の中へと入る。お風呂に入り歯磨きを済ませ、寝る前に血液パックを摂取。尊人に報告をして、そのまま眠りについた。  翌朝、母には春と口裏を合せていた内容を伝える。体調がだいぶ戻ってきたから、今まで遅れていた分の勉強を春の家でやるので泊まり込むというものだ。母は春を信頼しているので、特に疑われることなく許可が出る。そして春の家に行くフリをして、少し歩いたところで尊人の車と合流した。 「尊人、富実さん。今日もよろしくお願いします」 「おう。上手いこと言い訳出来たか?」 「うん。それはバッチリ」 「ねえ雪ちゃん、あのアパートの窓からこっち見てるのってお友達?」  富実さんに言われて視線を上げると、そこには確かに春がいた。ひらひらと手を振ると、少しぶすくれた顔で手を振り返す。そしてそのまま家の中に引っ込んでいった。 「あれが、この前話した春です」 「ああ、あいつがね…。まあその話は車で聞くから、とりあえず乗りな」 「はーい」  春のアパートが見えなくなるくらいまで車を走らせたところで、尊人がぽつりとつぶやいた。 「雪、昨日言ってた聞いてほしい話ってあいつのこと?」 「あ……うん、そう、あのね」 「Vロームって結局バレてたのか?さっきすげー目でこっち見てたし」 「それは僕にもよく分かんないけど……」  これは春のプライベートにも関わることなので、どこまで話していいか迷った。でも二人にはこれからもお世話になるわけだし、話さないわけにはいかない。覚悟を決めて昨日あった出来事を話すことに。二人は、ただ黙って聞いてくれた。 「……その、やっぱりおかしいよね、友達同士でこんなこと」 「や、全然おかしくないよ。ごめん、雪を責めたいとか気持ち悪いとか思ってるんじゃないんだ。俺が今黙り込んでたのは、その春ってヤツ、どこまで分かって話してんだろーなって」 「どういうこと?」 「Vロームを受け入れてくれるのはありがたい話だけど、一生世話するなんて普通の友達じゃ言えないだろ。結婚みたいに公的に手続きするわけじゃないけど、栄養をもらうパートナーってのは、Vロームにとっては結婚相手とほぼ同じだよ。それくらい信頼してないと、直接もらうのは精神的にしんどいだろ。だから体液の保持者が分からないように、俺たちみたいな団体が匿名で栄養を提供してるんだ」  尊人の言うことはもっともだと思う。でも僕は、春に一生のパートナーになって欲しいと思っているわけじゃない。 「……きっと春が栄養をくれるのは、ずっとじゃないよ。それくらい僕も分かってる」 「雪……」 「ほら、尊人たちだっていつでも駆けつけてくれるわけじゃないでしょ。頼れる人は一人でも多い方がいいじゃない。春に恋人が出来たりしたら、ちゃんと手放すよ」  僕の言葉を受けて、尊人はそれ以上何も言うことはしなかった。きっと踏み込んではいけないと感じ取ってくれたんだろう。富実さんも、静かに僕を見守ってくれているように感じた。 その後病院に到着し、診察を受けて輸血が開始される。その間、尊人や富実さんはもちろん、屋敷先生も忙しくしていたので、僕は大人しく眠ることにした。今の僕は、目を瞑ればすぐに眠れるくらいには弱っているらしい。土曜日はほぼ寝たきりで過ごし、日曜日の朝を迎える。スマホを見ると、定期的に春からラインが来ていることに気が付いた。 『たぶん寝てるんだと思うけど、起きたら教えて。それから、帰る時間が分かったらそれも教えて』  通知画面をするりと撫でる。春の心配が嬉しくて、表情が緩んでいることが自分でも分かった。その後朝の健診を一通り終える。まだまだ気は抜けないけれど、最悪の状態からはかなり良くなっていると言われて一安心だった。屋敷先生が書類を書き進めながら、ふと僕へ疑問を投げかける。 「白雪くん、栄養を提供してくれる子が見つかったんだって?尊人くんから聞いたよ」 「あ……えっと、友達、なんですけど……すごい良いやつで、僕を心配してくれて」 「うん。白雪くんが信頼出来る子ならそれでいいんだ。でもね、Vロームは良くも悪くも狙われやすい。特に性犯罪の被害に遭うことが多いんだ」 「それは、男女問わず、なんですか……?」 「そうだよ。Vロームは精液を栄養として吸収するから、まず自然妊娠しなくなる。そのせいで、少し前まではかなりの女性Vロームが性被害を被ってきた。そしてそれは男性も例外じゃない。男性もセックスで精液を体内に取り込めば栄養になる」  先生は直接的に言わなかったけれど、それはつまり、男同士のセックスで栄養補給が完了するという意味なんだろう。背筋にぞわりと寒気が走るのが分かった。 「今はVロームの専門医療機関が整っているからそんなことはないけど、病気が確認されてからの二年くらいは栄養補給先もままならなくてね……性被害を黙って受け入れるしかない人もいた。栄養をもらえる相手がいないから、むしろ相手はボランティアで相手をしてやってるんだと主張する輩までいたんだよ」 「そんな!」  そんなこと、誰であっても許されていいはずがない。Vロームになったからって、人間であることに変わりはない。そう思い至ったところで、僕は思わずはっとする。僕は尊人に出会った時、尊人に確かにこう言った。   ――人間じゃ、なくなっちゃうの?   あの時の発言が頭をぐるぐると巡る。そうだ。僕だってそう思っていたんだ。それこそVロームが見つかったばかりの頃は、そういう風潮ももっと強かったんだろう。気持ちのやり場が分からず、思わず腕を握り、爪を立てる。すると、屋敷先生が僕の腕に手を重ねた。 「白雪くんも、色々想像出来てしまうね。辛いね」 「……僕、最低なんです。だって僕も、思っていたから。Vロームになったら、人間じゃなくなるって」 「Vロームの人権を守るために、Vロームの人たちは自分たちについて情報を発信することを  まだ選べていないからね。そう思うのも仕方ないの。いつか正しい知識が広まって、持病の一つくらいの認識になるといいんだけど、それはまだまだ先の話。そしてそういう差別的な歴史があったこと、今も根深く残っていることを頭に入れておいてね。一歩間違えば、君はそういう被害に遭いかねない対象なんだ。そしてお友達は一歩間違えば加害者になりかねないということも忘れてはいけないよ」  先生の言葉が全身に反芻し、気が付いた時には涙となって両目から溢れていた。春がそんなことをするはずはない。でもそういう危険を誰しもがはらんでいる。その事実がただただ怖かった。 「ゴメンよ、Vロームになって日の浅い子にする話しじゃないのは分かっている。でもパートナーを見つけた子がトラブルにならないように話さなくてはならなかったんだ」 「……先生は悪くないです。正しい知識を持っておくことはとても大事だと、僕も思います」 「きっとネットでこの病気を調べれば、栄養補給の手段の一つとして必ず知ることになる。そしてもし相手から提案されたら、よく考えるんだよ。簡単に受け入れてはいけない。いいね」 「……はい、ありがとうございます」  先生が僕の手の上に両手を重ねる。僕もゆっくり、先生の手を握り返した。すると先生は「そうだ」と声をあげ、本棚の方へと歩みを進める。そして一冊の本を手に取り、僕に手渡した。 「これは?」 「Vロームの子が書いた日記をまとめた本だよ」  表紙には『親愛なるあなたへ』と表題が刻まれている。それを開くのが、ほんの少し怖かった。 「雪、ひかじー、話し終わった?」 「……え、あ」  尊人の声で現実に引き戻される。屋敷先生の方へ顔を上げると、先生は優しい笑顔で僕を見つめた。 「よければ読んであげて。その子が残した、たった一冊の本だから」  その言葉の裏に、どんな意味があるかは分からない。もしかしたらこの作者は、この本を残して亡くなってしまったのかもしれない。病気だったのか、自死だったかも分からない。でも、この人の人生に触れることは、僕にとって必要なことだと理解した。 「大事に読みます。先生」 「うん、ありがとう。それじゃあまた水曜日ね。パートナーが見つかっても、定期健診は欠かさないこと。血液パックも持って帰ること。いいね」 「はい先生。またよろしくお願いします」  会釈をして、尊人に連れられ車に乗り込む。僕は外の景色を眺めながら、先生の話を何度も思い返していた。今日富実さんは一人でお仕事らしく、車内には尊人とふたりきり。きっと尊人は僕と先生の話を聞いていたんだろう。その話題に触れることはせず、僕の手元にチラリと視線を移した。 「その本は、ひかじーが病院に来る患者にはみんな勧めてるんだよ」 「尊人も読んだ?」 「うん。あの本はあれ一冊しかないから、自分で書き写したやつも持ってる。それで、どうしても眠れない日とかに、何度も読んでるよ。俺にとってはお守りみたいなもんかな」  手元の本に、僕も視線を落とす。この人は僕に、何を教えてくれるんだろうか。 「雪にとっても、お守りになることを願ってるよ」 「うん、ありがとう尊人」   ――そのまま僕は窓にもたれかかり、ぼんやりと思考を巡らせる。屋敷先生に気が付かせてもらった事実を自分なりに受け止めて解釈しなければならない。でも景色が自宅に近づいていっても、思考は一向にまとまることはなく、気が付いた時にはいつもの定位置に到着していた。 そして、いつものように尊人がこちらへ振り返る。 「着いたよ、雪」 「……ありがとう、尊人。毎回ごめんね」 「俺の仕事だっつーの」 「そうかもしれないけどさ」 「本、読んだら感想教えて。それじゃまた水曜日な」 「うん、またね」  尊人の車が見えなくなるのを見送って家へと戻る。母さんはまだ仕事から帰っていないようだった。部屋のベッドに座り込みながら春へとラインする。 「ただいま春、帰ってきたよ」 『おかえり。調子は?』 「だんだん良くなってるよ。ずーっと寝てばっかりだった」 『会いに行ってもいい?』 「ごめんね、今日は疲れてるからもう寝る。また明日迎えにきて?」 『分かった。血液パック飲み忘れるなよ。おやすみ』  電話の切れる音が聞こえるのと同時に、身体の力がふっと抜けた気がした。春が会いに来てくれると言ってくれたのは嬉しかったけど、今日は春の顔を見る気になれなかった。春が僕に対してそんなことをするなんてありえないと分かっているのに。なんだか気分がモヤモヤして、上手く笑えない気がしたのだ。 「ごめんね、春……」  深いため息をつくと、視線の先にはカバンがひとつ。僕はそのカバンをたぐり寄せ、中から一冊の本を取り出した。本のどこにも、作者の名前は書いていない。一体どんな人物だろうか。栄養不足で頭が回っていなかったけど、今なら読める気がする。深く潜っていける気がする。ゆっくりとページをめくり、本の世界への扉を開いた。 『一月二十一日、とても寒い朝だったことを覚えている。私はここ数日、原因の分からない体調不良に悩まされていた。と言っても今年で六十になる。何かしら病気になってもおかしくはないと、まじまじと鏡を見つめる。その時、ふとしたことに気が付いた。なんだか身体が細くなっているような気がする。不自然に感じて体重計に乗ると、ここ数年で一番軽い数字が表示されギョッとした。この年齢になっても独身の私は、いきなり死んだら孤独死になってしまう。迷惑を掛けるわけにはいかないと、すぐに病院へと向かった』 『一通り検査を受け、私は一日入院するよう指示を受ける。そして数時間待たされた末に言い渡された病名が、ヴァンパイア症候群だった。担当医がその後何を言っていたかはあまりよく覚えていない。頭の中で巡っていたのは、私はそろそろ死ぬのだろう、ということだった。なぜなら私は孤独な六十歳のおばあちゃんだ。栄養をくれる相手もいなければ、探すことも難しい。全国的に血液が不足しているのに、私が定期的に輸血を受けられるワケもない。静かに死を待つしかないのだろう』 『一月二十二日 主治医から輸血を始めると言われた。その時紹介されたのがeat loveというVロームを支援する団体。Vロームになった息子を守るために、四十代の女性が立ち上げる予定で、継続的な支援を約束するから頑張って生きて欲しいと言われた。立派な人がいるものである。そして私は思ったより長生き出来るかも知れないと思った』    この人は女性で、六十代になってから病気を発症した。eat loveはVロームが世界で確認された一年後に出来た団体。それが出来るか出来ないかの頃ということは、この人はかなり初期の患者さんのようだった。そして読んでいて感じたのは、この人は早い段階でVロームであることを受け入れて、自分の死について考えられる人ということが分かる。年齢や環境も大きく左右するんだな……。  その後しばらく読み進めていくと、女性を取り巻く環境が大きく変わった。 『三月九日 数年連絡を取っていなかった弟が訪ねてきた。保健所かどこかが弟に私の病気を伝えたらしい。弟は久しぶりに会った私に心配の声を掛けることもなく、盛大に罵声を浴びせてきた。お前のせいで変な噂が立ったらどうしてくれる。俺や息子が病気になったらどうしてくれる。最悪だ、死んでくれ。Vロームなんてバケモノになったヤツなんか、みんな死んでしまえばいいんだと。その時私は、ようやくこの病気の辛さが見えてきたような気がした。主治医に頼んでここ過去のVロームに関する記事は読ませてもらったけれど、それはどれも目を覆いたくなるようなものばかり。正直、自分がばあさんになってから病気になってまだマシだったなと思えた程だった。私は、ずるい人間だね』 『三月十五日日 主治医から、四月から独立して診療所を開くことを伝えられる。eat loveと協力してVロームを支援するそうだ。そして私には相談役として病院で働いて欲しいと言う。Vロームを発症してパートを辞めざるを得なかった私にとってはありがたい話だった。私がVロームになったという噂はどういうわけかあっという間に広がって、こちらから職場に連絡する前に退職通知が届いたんだから驚いた。いっそすがすがしい程の差別だね』  その時、女性の主治医が屋敷先生であることに気が付いた。そしてこの女性は、やしき診療所で働いている人だったんだということも。 『五月十日 病院で働き始めて一か月経った。日記を書く手が止まるほど、人生で一番濃密な時間を過ごしているように思う。というのも、Vロームを取り巻く環境があまりにも劣悪すぎる。性暴力を受けて運ばれて来たのに、相手は「体液を恵んでやったんだから感謝して欲しいくらいだ」などと吐き捨てる。私からすれば、加害者の方がよっぽど人間とは思えなかった。しかし、被害者は口を揃えて言うのだ。身体に体液が入ってきた時、頭がスッキリする感覚がした。全身が体液を求めているのを感じた。ああ、自分はもう人間じゃないんだ。バケモノなんだ。死ぬしかないと。私は一日に必要最低限の血液だけでなんとかなっているが、若者はそうもいかない。与えられる血液以上の栄養が必要なのだ。この病が抱える根本的な問題は、人が人に恵んでもらわなければ死に絶えるという、一種の主従関係を発生させることにあるのだと痛感した』 『六月一日 主治医から、籍を入れませんかと言われた。何を言っているんだと思ったが、向こうは大真面目らしい。私は身よりもいないし、弟は私を墓に入れることはしないだろう。こんなお荷物を引き取ることに何の得があるのかは分からない。でも私は残りの人生をVロームと向き合うと決めているので、その申し出を受け入れた』  良かった。この女性が先生を受け入れてくれて。Vロームでも幸せな余生を過ごせたのだろうかと胸をなで下ろす。しかし、次のページをめくった時、その書き出しに、僕は言葉を失った。 『六月十四日 Vロームの患者が自殺した。その子は十四歳の女の子で、教師から性被害にあったという。私は私なりにその子と根気強く向き合ったつもりだったが、それでもあの子には足りなかったのだろう。私がもっと寄り添っていられれば、言葉を掛けてあげられていれば。今となっては意味もない後悔ばかりが頭を巡る。その子が私に言ったのだ。花先生はずるい。屋敷先生がずっとそばにいてくれるもん。おばあちゃんだから、誰も花先生を狙ったりしないもん。どうして私なの?どうして私がこんなことにならなくちゃならないの。代わってよ、ねえ、花先生。そう言って、大きな両目から涙を流す彼女を、私はただ痩せ細った身体で抱きしめてあげることしかできなかった』 『私がVロームになった意味は何だろう。元々余命もたいして残っていない老人だ。対して思い悩むこともない。でも、私の人生は確かに変わった。今までたいして人に興味もなく、おしゃべりも好きじゃなかった。しかしVロームになった患者たちは人生に絶望し、死にたいと泣きわめく。治療法が確立していない今、私に出来ることなんて何もない。ただ話を聞くことしか出来ない。私が病気になった意味が、みんなが病気になった意味が、何も分からないまま日々が過ぎていく。幸知(さち)が自ら死ななくてはならない理由が、私にはどうしても分からなかった』   幸知(さち)とは、自殺してしまった女の子のことだろう。花先生が幸知ちゃんのことを書き記しているページが、涙でにじんでいるような気がした。それからも日記はぽつぽつと続いていく。花先生は、自分が分かりきらない絶望に寄り添い、全ての患者の話しに耳を傾け、彼女なりの愛をたくさん注いでいることが分かる。僕も一度で良いから、花先生と話してみたかった。大げさに慰めるワケでもなく、ただ静かに「そうか」と言ってくれる人がいる安心感に、僕も包まれたかった。どんどんと読み進め、左側のページが残り数ページとなる。日記の終わりが近いのだ。 『十一月三十日 最近、思うように身体が動かない。元々私は身体が強い方ではなかった。その上Vロームになってからは必要最低限の血液しか摂取していなかったせいもあるのだろう。主治医からはもっと輸血する量を増やすよう言われたが、それは頑なに断った。未来ある若者たちに、一滴でも多く血液を与えてあげてほしい。パートナーを迎えることを恐れる子どもたちが、一人で立って歩いて行けるように』 『十二月二十日 私がVロームと診断を受けてから、あと少しで一年になる。しかし、その日を迎えることは恐らくなさそうだ。だから、これから書くことは日記ではなくて、これを読んでいる君に言葉を残したいと思う』 『本当は一人でも多く、話を聞きたかったけれど、それが出来ないから、一方的な会話になってしまうことを許してね。ヴァンパイア症候群と診断されたことは、あなたにとって「死刑宣告」に等しいかも知れない。でも、あなたは何も変わらない。あなたの何かが損なわれることもない。あなたを愛してくれる人が、あなたを抱きしめてくれる人が、この世界のどこかに必ずいるから』 『だって、こんな六十歳のおばあちゃんでも、愛してくれる人と出会えたんだから、あなたが出会えないはずはないの。生きていれば、生きてさえいれば。あなたにとっては今、生きるということが一番難しいことかもしれない。でも、そんなことはないわ。苦しい時は深呼吸をして、悲しい時は幸せな思い出をまぶたの裏に再生して。辛い時は暖かい毛布にくるまって。死にたい時は、私の日記を思い出して。あなたが誰にも愛されていないと感じたら、このページを何度も読んで。私はあなたを愛しているわ。あなたに幸せが訪れることを、毎日祈っているからね』  パタンと、本を閉じる音が部屋に響く。僕は本が濡れないように、自分の裾で涙を拭うのに必死だった。思うことはたくさんあった。たくさんあったけれど、どれも形になることはなく、涙となって溢れ続けるばかりだった。尊人が、この本がお守りになることを願っていると言った意味が全身に染み渡る。僕は花先生に会ったこともなければ顔も声も知らない。でも、花先生の言葉に嘘がないことだけは理解出来たから。  そして僕は気が付いた時にはスマホの通話ボタンを押していた。 『雪?どうした』 「……ごめん、春の声が、聞きたくて」 『泣いてたのか?すぐ行こうか?』 「……Vロームの人が残した日記を読んだんだ」 『そう……』 「ねえ、春。僕はVロームだけど、生きていていいと、思う……?」  僕の問いかけに、春が応えることはなかった。耳の向こうでは、通話が切れた音が聞こえる。しばらくぼうっとしていると、玄関のチャイムが鳴った。    重い足どりでドアを開けると、勢いよく身体が抱き寄せられる。    姿を見なくても、匂いと、体温で、すぐに分かるよ。ああ、春だ。 「は、る……っ」 「生きてていいに決まってる。生きててくれなきゃ困るよ」 「……でも、Vロームになったせいで、レイプされて、自殺しちゃった子もいる。僕はきっと恵まれてる。Vロームになってから、色んな人が僕を守ってくれたから。もし、もし春たちがいなかったらと思ったら……怖い……っ」  そう、僕は酷い人間だ。あの日記を読んでいた時、僕が感じていた様々な感情の中に、確かにひとつ分かったもの。 『ああよかった。僕にはみんながいてくれる』  Vロームになって苦しんでいる人の言葉を目にしながら、自分は安堵を覚えるなんて最低だ。  思わず、春を抱きしめる力が強くなる。すると春は僕の頬に手を添え、大きな瞳で僕をしっかりと見つめた。 「雪、雪がどうして泣いているのか、本当の意味で分かってやれないと思う。けど、俺も俺なりにVロームのことは調べて勉強してるよ。どんな酷いことが起こって来たのかも、少しだけど知ってる。雪が言ったみたいに、雪はラッキーだと思う。支援団体が出来てること、その団体に心を許せる人がいること、それから……」 「それから……?」 「雪の隣に俺がいること」 「……自分で言うの? それ」  思わずふっと笑いがこぼれる。それでも春は自信満々の表情で言葉を続けた。 「当たり前だろ。俺が一番雪のことを分かってるし、助けになれる。でも、俺の手を雪が取ってくれなかったら、俺は助けてあげられない」  春の白くて長い指が、するりと僕の左手を絡め取る。そして、ゆっくりと手の甲にキスを落とした。 「俺の手を取ってくれてありがとう。生きることを選んでくれてありがとう。俺はずっと、雪と一緒にいるよ」 「……ねえ、どうしてそんな風に言ってくれるの?僕たち、ただの友達なのに」 「じゃあ、自分で気付いたら教えて。答え合わせしてあげる」 「なんだよそれ」   春は僕の流した涙を拭い、抱擁する手をほどいていった。 「もうすぐおばさん帰って来るだろ?栄養補給はまた明日の朝ね」 「……うん、おやすみなさい。来てくれてありがとう、春」  なぜだろう、春の背中を見送ることがこんなにも寂しい。少しでも気を抜くと、行かないでと、口から言葉が出てしまいそうになった。これ以上は母親と鉢合わせるとまずいので、大人しく部屋へと戻る。早く明日になって欲しい。それで屋敷先生に、花先生のことを教えてもらおう。  ――翌朝リビングへ降りると、いつものように母親が朝食を用意しており、僕の気配に気が付いてこちらへ振り返る。 「雪、体調は?」 「うん、とってもいいよ」  今日は母親が土曜出勤するのに合わせて病院に輸血へ向かう。いつものように迎えに来てくれた尊人。今日は富実さんがいないので助手席へ座ることにした。 「尊人、花先生の日記、読んだよ」 「そっか。どうだった?」 「会いたいなって思った。夢でもいいから。どんな人かもっと知りたいな」  僕の言葉を受けて、尊人が少し遠くを見つめる。心に住んで居るであろう花さんを訪ねているように見えた。 「……俺はね、花先生が病院に来た時から知ってるんだ。無表情で何を考えているか分からない人だったけど、嘘だけは絶対に言わない人だった。決して同情することもしなかった。だから花先生と話している時だけは、Vロームになって可哀想な俺っていう気持ちから解放されて、一人の人間として会話が出来ているような気がしたんだよ」  僕が手渡した日記を手に取り、懐かしむような瞳で背表紙を撫でる。病院に訪れる全ての人にとって、花先生はとても大切な人だったんだろう。そして、それは今も変わらないということが伝わってきた。 「この日記はね、ひかじーが皆に読んで欲しいからって、自分で別の本に書き起こしたんだよ。花先生が書いた日記は大事にしまってあるんだって。本物の日記を読めるのは旦那さんの特権だからって言ってたわ」 「へえ、素敵だね」 「まだ話はいっぱいあるよ。それじゃあ行こうか」  尊人から本を受け取り、車はゆっくりと走り出す。花先生の話を聞いているうちに、あっという間に病院に到着した。屋敷先生がお庭に水やりをしているのが見えて、一目散に先生の元へと駆け寄っていく。 「白雪くん、いらっしゃい」 「先生、あの、これ」 「もう読んだの?さすが本好きだねぇ」 「……花先生と結婚しようと思ったのは、どうしてですか?」 「んふふ。そうねえ……変な人だと思ったからかな」 「変な人……?」 「僕はね、国内で初めてVロームを発症した人を診察した医師団のうちの一人なの。そして二人目の発症者は、僕の同僚だった」 「その二人は……?」 「最初の一人は診断が出る前に重度の栄養失調で、二人目は自らね……」  先生は水やりをする手を止めて、ぽつぽつと昔話をはじめてくれた。 「それからこの診療所を開くまでの間、大学病院でVロームについて研究しつつ、患者の診察を続けていた。でも当時は今よりVロームの理解も追いついていなくて、根も葉もない色んな噂が飛び交っていてね……。病気を発症しただけで人生が終わるって本当に思われていたんだよ」 「……はい。なんとなく、分かります」 「でも花さんはね、僕が診断を下しても特に表情を変えることもなく、あ、そうですか。とだけ言ったのよ。もしかしてVロームを知らないのかな?と思って説明したんだけど、ただ淡々と、はい、はいってね。絶望して投げやりに返事をしているとかでもないしさ」 「……変な人、ですね」 「でしょう?」  屋敷先生はニコニコ笑いながら、何本か花を手折る。病室に飾ってある花は、先生が育てていたんだと気が付いた。 「花さんだってショックを受けていたし、辛かったんだと思う。でも花さんはその上で、この先何があるんだろうか、自分に出来ることはなんだろうかと考えられる思慮深い人なんだろうと感じたよ」 「それは、日記を読んでいても思いました。事実を事実として受け止められる人なんだろうなと」 「うん。でもね、彼女がこの病気について更に知ろうと思ったのは、弟さんとの一件があったからだろうね。この病気になることで、どれだけ不必要な悪意に晒されなくてはならないか……。彼女は自分が言われている以上に想像出来たんだと思う。毎日熱心にVロームに関する記事を読んでいる彼女を見て、カウンセラーを頼んだんだ。その時にはもう、花さんと一生一緒にいることを考えていたかな」  先生は、花先生と過ごした日の昨日のことのように覚えているのだろう。一言一言が映像のように、鮮明の僕の頭の中に流れてきた。 「僕が花さんと過ごせた時間は短かったけど、彼女が残してくれたものはずっとこの診療所に残る。そして患者のみんなの中で息づいていくと信じている。彼女の言葉は、白雪くんにも届いたでしょう?」 「……はい。お守りみたいに、ずっとそばにいてくれると思います」 「それならよかった。花さんも喜ぶよ。それじゃ行こうか」  先生に連れられ診察室へと歩いて行く。そして空いた花瓶には、先生が摘んだキレイな花がいけられた。そしてその横に、一枚の写真立てが並べられる。 「花さんの本を読んだ子が来る時は、写真を置くことにしてるんだ。花さん、この子が白雪くんだよ。本が大好きでね、頭の良い子だよ。きっと花さんの気に入るタイプだと思う」 「……初めまして。浦井白雪です」  花瓶の横で、むすっとした表情を浮かべている花先生。でもきっとこれは、不機嫌とは違うんだろう。 「花さん写真嫌いだったからね。あんまり残ってないの。じゃあ、診察はじめようか」 「よろしくお願いします」  Vロームと診断されてから僕の人生は百八十度変わってしまった。目に見えない不安に押しつぶされそうになったこともあるし、それはこれからも変わらないだろう。  でも、僕の中に一つ一つたまっていくお守りのような言葉たち。僕を守ってくれる優しい人たちとの出会い。それはこの病気にならなければ出会えなかったものだと思うと、なんだか不思議な感じがした。

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