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第4話

 ――僕がVロームを発症してから二か月、生活は元に戻り始めていた。母さんにも学校の人達にも、今のところバレる様子もないし、僕がVロームだという噂が立つ気配もない。本当にありがたいことだと思う。今の僕の日常は、屋敷先生のところで週に一度診察を受けて血液パックを処方してもらい、決められた時間に決められた量を飲む。そして、それ以外の栄養は……。 「は、う……ま、って、春……っ」 「もう何回もしてるのに、雪はいつまでも慣れないねぇ」  朝、学校に行く前と家に帰宅する前、それぞれ一回ずつ、春の家で栄養を補給してもらうのがルーティンワークとなっていた。春は僕の頭を引き寄せ唇に吸い付き、丁寧に唾液を送り込んでくる。春の唾液が、僕の中の何かを駆り立て、もう、春の精液を飲むことしか考えられなくなってしまう。ぐちゅぐちゅと舌で口内をなめ回され、彼の唇が離れていくのと同時に、銀色の糸が伝っていく。その糸を辿って視線を移すと、宝石のようにきれいな二つの瞳の中で僕のみっともなく赤くなった顔がゆらゆらと揺れていた。 「ほら、ちゃんと言って」 「……春の、春のせい……せいえき、ちょうだい……っ」 「ん、いいよ」  もう何度も何度ももらっているはずなのに、それが目の前に出されるだけで、口のなかに唾液が溢れる。反り立つそれを奥までくわえ込み、丁寧に舐め取っていく。じゅぼ、ぐじゅと、情事特有の水音が部屋に反芻するのも、もはやなんとも思わなくなってしまった。それでも、時折り春へと視線を向ける。食事をもらう以上、少しでも春に気持ちが良いと思って欲しいのだ。彼へ視線を投げれば、決まって溶けるほどに優しい笑みを浮かべ、僕の汗ばんだ前髪をさらりと撫でる。そして両手で頭を抑え、耳元で囁くのだ。 「……いくよ、春。残さず飲んでね」 「う……んっ」  どぷりと、口の中が精液で満たされる。ごくりと喉を鳴らしながら飲み込み、口からはみ出た分を舌で舐め取って吸い上げた。 「……っはぁ……ごちそうさま……でした」 「ん。じゃあ少し休んだら学校行くか」 「毎朝ありがとうね」 「食事係だからな」  春はそう言いながら身支度を整え直す。すると「あ」と小さな声を上げた。 「どうしたの?」 「やばい。宿泊学習のことすっかり忘れてた」 「あ」  春につられて、僕もおもわず声を上げる。  うちの学校には、夏休み前に一泊二日の宿泊旅行に出掛ける風習がある。修学旅行は夏休み明けの九月にあって、その前にクラスで親睦を深めつつ、期末テストに向けて勉強をする、と言うものらしい。進級した時担任の先生が板書していた内容を、ぼんやりと脳内で思い出していく。でもこれは、僕にとってかなりまずいものだった。 それを春も理解してくれているんだろう。心配そうに言葉を続けた。 「明日、参加の可否の用紙回収だったよな?雪はどうする予定だったの?」 「一応母さんにサインはもらってるけど、出すかどうか決めてなかったんだよね……」 「同じクラスだから、同じ班になれば泊まる部屋も一緒だと思う。でも血を飲んだり精液飲んだりって結構タイミングが難しいから、かかりつけの先生にも相談しな。無理なら休んでいいし。俺も休む」 「そんな、ダメだよ。春、一人暮らしの条件に無遅刻無欠席も入ってなかった?」 「そう、だけど……」 「屋敷先生に相談してみる。修学旅行のこともあるし丁度いいよ。宿泊学習は一応参加ってことで話を進めておいて、ダメならちゃんと欠席するからさ」  ありがたいことに、僕には尊人や春がいてくれたから、Vロームになっても比較的穏やかな毎日を過ごすことが出来ていた。でも実際、これからもこうやって弊害は出てくるんだろうと思うと、胸が痛んだ。すると、春が僕の腕を掴み、胸の中に抱き寄せる。 「春?」 「学校イベントじゃなくて、俺と二人だったら旅行だって行けるのにね」 「……そうだね。春と行ったら楽しそう」 「だからもし今回がダメでも、いくらでもチャンスはあるから」  最近、僕は春への気持ちの変化に戸惑いを覚えるようになっていた。毎日のように春から栄養をもらって、甘やかされて、特別な感情を抱くなという方が無理な話だ。でも僕は、その特別な感情から目をそらし続けている。それを認めてしまったら、苦しくなるのも辛くなるのも僕の方だから。 「……ありがとう、春がいてくれてよかった」  精一杯、春へお礼の言葉を口にする。春は特に何も言わなかったけど、満足そうな表情を浮かべて僕の頭を撫でてくれた。  その後二人で学校へと向かう。さすがに誰かに見られたら困るから手を繋いだりはしないけど、隣にピッタリ並んで歩いてくれる春は、相変わらずの心配性だ。それから教室に入ると、一時間目の時間を使って宿泊学習について色々決めることに。今朝思い出しておいて本当に良かったと安堵しながら、班決めが開始される。もちろん春は女子からそりゃもうモテるので、班決めは戦争なんだけど……、当の春本人はと言えば…… 「俺は雪と組むから。他は誰でもいいや」  と、この調子。本当に女子からモテるということに一ミリも興味がないんだなぁ。女子たちからの恨めしい視線を一手に引き受ける僕の身にもなってくれ。結果として先生が女子の揉めごとを回避するために、僕たちの班は男子四人で固められることに。まあこれで女子全員平等になるので、担任としては正しい判断だろう。行くかどうかはまだ先生の許可が出てないのでなんともいえないけど、いざ春と同じ班に決まったら、出てきてしまった。 「……行けるといいなぁ」  小さなひとりごとが、クラスの喧騒に溶けていく。僕は書類を写真に撮って尊人に送信。宿泊学習について相談したい旨を連絡すると、今日の夜、屋敷先生に電話で相談出来るよう手配してくれることに。そしてあっという間に放課後を迎え、春が僕の机まで迎えに来てくれた。 「帰ろう、雪」 「うん」  何の違和感もなく春の隣に立つと、その様子を見てクラスの男子が小首をかしげた。 「お前ら、最近いつも一緒にいるよな。クラスの女子が付き合ってんの?つってたぞ」 「女子ってすぐそういうこと言うよな。なんだ?BLっつーの?」 「春喜がどんだけイケメンでもさすがにそれはねえって」  クラスの男子がゲラゲラ笑いながら僕らの方へ視線を投げる。別に、いつもだったら、Vロームになる前だったら、笑って流せたのかもしれない。でもどうしてだろう、今の僕は彼らの言葉に酷く動揺しているらしく、上手く言葉を返すことが出来なかった。すると春は僕の手を握り、無表情のまま口を開く。 「彼女がいねーからって妬くなよ、童貞ども」 「あー⁉ うるせえ! お前顔だけで中身ロクでもねーだろ!」 「顔が良ければ許される。じゃあな」 「バーカ!」  騒ぐクラスメイトに見向きもせず、春はそのまま歩き出す。僕は「じゃあね!」と返すだけで精一杯だった。学校を出ていつもの帰り道に出た時、ようやく春に言葉をかける。 「は、春。さっき、ごめん。僕上手く返せなくて」 「あんなの気にしなくていい。あいつらもなんとも思ってないよ。最後の方笑ってたし」 「……違う。僕が嫌なの。春が、そういう風にバカにされるのは」 「そう? 俺はバカにされたと思ってないよ」 「でも」 「むしろ俺ら、ずっと一緒にいた方が都合いいんだし」  優しさからそう言ってくれているのは分かる。だけど、変に希望を持たせるようなことは言わないで欲しい。だからだろうか。ほんの少し、意地悪を言いたくなってしまった。 「……そしたら、春に彼女出来ないじゃん」 「それは雪も一緒だろ?」 「僕が彼女作れないの分かってて言ってんだろ、性格悪い……」  それは元からモテないという話ではなく、他人にVロームのことを明かすつもりがない僕に特別な存在が出来るわけがないという意味で言ったんだけど、春に正しく伝わったかは分からない。視線を合わせず俯いていると、頭上から春の声が降ってきた。 「じゃあ、諦めて俺とずっと一緒にいたらいいよ」  繋いだ手を持ち上げ、手の甲にキスを落とす。いたずらっ子のような笑みを浮かべる彼の顔はそれでも美しくて、腹が立った。 「……春はそうやって何人の女子を泣かせて来たんだろうね」 「はは、怒った怒った」 「うるさいもうっ」 「じゃあ、帰りはうちに寄らないんだ?」 「それは……その……あの、えっと……」 「ほら、行こう」 「……はい」  結局春に丸め込まれて、そのまま差し出された手を取り歩き出す。日に日に春から離れられなくなっている自分が恐ろしかった。僕はちゃんと、春の手を離してあげられるのだろうかと。 「雪、何考えてるか当ててやろうか」 「なに、怖いな」 「どーせロクでもないことでしょ」  帰宅後、春は無言で僕を部屋に連れ込みベッドへ座らせ、押しつけるように深いキスを落とす。春の言う「ロクでもない考え」を塗りつぶすように、頭の中は、目の前の彼のことでいっぱいになっていった。  ――帰宅後、尊人が約束してくれた二十時にスマホが鳴る。画面には屋敷先生の名前が表示されていた。テレビ通話に切り替えて挨拶を交わし、さっそく宿泊学習の話に。 『一泊二日なのね?そしたら、行く前日に尊人くんに血液パックを多めに届けてもらえば大丈夫よ』 「本当ですか?ありがとうございます……!」 『いつもより小さいパックにして、目立たないようにしよう。お手洗いとかのタイミングでこまめに飲んでね』 「分かりました」 『あと、行き先データを尊人くんたちに送っておいて。何かあったらすぐ連絡すること』 「はい、ありがとうございます」 『あとそれから、白雪くんは普通の食事を取ることに抵抗はなくなったの?』  先生の言葉に、思わず顔をしかめる。実はVロームと診断を受けてからしばらくの間、僕は普通の食事を口にすることが出来なくなっていた。味は今まで通りのはずなのに、身体が拒否するように吐いてしまう。でも何も食べないと母にバレてしまうので、ひとまず食べるということだけは出来るようになっていた。でも…… 「……調子によっては、全部吐いちゃう日もあります」 『そう。それなら食事しなきゃいけない時は春くんに助けてもらってね。でもね、何度も言うけど白雪くんはすごいのよ。Vロームになってから何年も普通の食事が出来ない人の方が多いの。尊人くんなんて四年くらいかかったんじゃないかな』 「そうなんですね…」 『だから、食事の件もそうだけど、焦らずに行こうね。大事なのは白雪くんが旅行を楽しむことだから』 「……はい。ありがとうございます。お土産楽しみにしててくださいね」  こうして僕も無事に宿泊学習に行けることになった。Vロームになってから外泊するのはこれが初めてなので、緊張していないと言えば嘘になる。でもそれ以上にみんなと…春と出掛けられることが楽しみだったのだ。その後、先生と話した内容を伝えるために尊人へ電話をかける。 『許可出たか。早めに教えてくれて良かったよ。普段より血も多めに用意しないとな』 「迷惑かけてごめんね」 『良いんだよ。あ、富実は食べ物なら何でも喜ぶと思う。俺は入浴剤とかがいい!』 「ふふ。分かった、買ってくるね。それじゃあおやすみなさい」  その後、特に大きな問題もなく過ごし、気付けば宿泊学習当日を迎えた。 荷物を整理する僕の周りをウロウロしては、アレは持ったかこれは持ったかと心配している母に、思わず笑いがこぼれる。 「お母さん、大丈夫だから」 「そうは言っても……何かあったらすぐ連絡してね?」 「分かったよ。お母さんも久しぶりの一人暮らし、満喫しなよ」 「もう。本当に気を付けてね」 「うん、いってらっしゃい」  いつものように仕事へ向かう母を見送り、母親には隠していたもう一つのバッグをクローゼットから取り出す。その中身は、前日尊人に持たされた血液パックだった。尊人は急に不安になったのか「やっぱり行くのやめるか?」と言い出し始めた。一時間に一回連絡するからと言ってようやく許可が出たくらいだ。それくらいVロームは何が起こるか分からないということを胸に刻んで、自分が一番注意して過ごさなくてはいけない。荷物を背負って玄関のドアを開けると、そこには同じような荷物を抱えた春が立っていた。 「おはよ。丁度鳴らすところだった」 「よろしくお願いします」  その後、クラスごとにバスに乗込む。しかしこのバスの席順で女子が大荒れすることになってしまった。班で一緒になれないならバスの席順くらいはくじ引きで決めて!と一人が言い出し、全員がそれに便乗。先生も渋々許可を出すことに。春は死ぬほど嫌がっていたが、抵抗しても仕方がないので諦めることに。予定では僕と春は隣同士になるはずだったけど、春は前列、僕は後列と、かなり離れた場所となってしまった。 「何かあったらラインして」 「さすがにバス移動くらい大丈夫だよ。サービスエリアで休憩もあるから」  いつまでも春と話していると、先生が間に入って来て、他にもおしゃべりをしている生徒たちに声かけを始めた。 「早く全員早く着席しろ~!」  先生に促され、僕はバスの後ろの方へと進んでいく。くじ引きで新しく決まった座席は、ラッキーなことに一人席。前の席は女子が二人座っていて、なんだか賑やかそうだった。最初の方は先生からの説明を大人しく聞いていたけど、高速に乗ったあたりからみんなザワザワと騒がしくなる。僕が座っている席からは、春が何をしているかは見えない。最近春とはずっと一緒にいたから、同じ空間にいるはずなのにそばに居ないことが、なんだか無性に寂しく感じた。今なら本が読めるかなと思い、もう何度も繰り返し読んだ本を開く。久しぶりに読むから、練習もかねてだ。 「うわ、まじで?最悪じゃん」  本の世界に集中していた僕の耳に、前の席から女子のつぶやきが飛び込んできて、思わず顔を上げる。すると隣に座っているもう一人の女子がそのつぶやきに反応した。 「どうしたん」 「今お姉ちゃんから連絡来て、なんか彼氏からVロームになったって言われたらしくて。無理だから別れるって話ししたらめちゃくちゃ揉めてるらしいよ」 「えーマジで? いやそれは無理っしょ。だって普通に生活できないし。つーか彼氏もアホだね、言わなきゃいいのに」 「ね。結婚してるとかじゃないんだし隠しとけよって話しじゃん? お姉ちゃんかわいそー」  心臓が、鷲づかみにされたような痛みが走る。その彼氏は、一体どれだけの思いで彼女さんに告白したんだろう。どれだけ思い悩んだことだろう。きっと、その人と一生一緒にいると思ったから、自分の全部をあげるつもりで告白したのに。結果、その人は全て失うことになってしまうなんて。これ以上何も聞きたくないと耳を塞ぐ。それでも、目の前に座り、甲高い声で喋っている女子たちの声を完全に塞ぐことは出来ず、僕の意思とは関係なく耳にどんどん流れ込んできてしまった。 「ていうかお姉ちゃんさ、襲われたりしたんかな? ヴァンパイアって言うくらいだから血吸っちゃう、みたいな?」 「いやそれはないっしょ。キバが生えてくるわけじゃないんだし」  二人の話が別の生徒にも聞こえたのか、男子生徒の声が混ざるのが聞こえて来た。 「キバ生えたらさすがにバケモノすぎだろ」 「分かんないよ~? Vロームってみんな隠れて生きてるから本当のことって分かんないじゃん。てかマジでドラキュラみたいだよね。日の光に出てくると死んじゃうみたいなさ」 「あー分かる分かる。昔ってVロームってだけで仕事クビになったりしたらしいもんね。誰かにバレるだけでアウトー! って感じ」 「ていうかVロームって精液飲むんでしょ?じゃあ男の方が効率いいんじゃね。ゲイでも漁ってろって話しじゃん」 「言えてるわ~」 「え、じゃあゲイはVロームになったら逆にモテるんじゃね?」 「あははは! 何それキモすぎるんだけど」 「ていうかVロームって本当にいるんだね。私身近で見たことないわ」 「だから普通は言わないんだって。人から体液もらわないと生きていけないとかさ、普通にイヤじゃん。気持ち悪いし。同じ人間のくくりで見られなくない?」 「うちのクラスにいたらどーすんの?」 「マジで学校来て欲しくない。無理すぎる」  今、僕の心臓は、きっとナイフでえぐられたように血まみれだと思う。  でもそれは、彼女たちの言葉に傷付いたからというだけではない。同級生たちに悪気なんてないんだ。  彼女たちは、少し前までの僕なんだ。Vロームは遠いどこかの誰かで、人から栄養を恵んでもらえないと生きていけないんだと。もちろん病気の当事者になって、その考えが間違っていることは身をもって体感した。でもそれは、当事者にならないと分からないことで、恐らく僕と僕以外のクラスメイトがわかり合うことは一生ない。でもクラスメイトたちは、この世界の大半の人達と同じだ。だからこそ、Vロームの人間の孤独が酷く浮き彫りになるのだろう。  Vロームを発症し、自ら命を終わらせた人たちのことを思う。その人たちの気持ちが今、僕にもやっと分かった気がした。  冷や汗が止まらない、動悸がする。気持ち悪い。吐きそうだ。  助けて、助けて。 「……春……っ」 「浦井くん、何か言った?」  身体を乗り出して、僕の顔をのぞき込んでくるクラスメイト。あまりにビックリして、しばらくじっと顔を見てしまった。 「なんか顔色悪いよ? 酔った?」 「あ、う、うん……そうかも……ちょっと寝るね」 「着いたら起こすわ~」 「浦井どうかしたん?」 「酔って気持ち悪いんだって。ちょっと静かにしよー」  たいして喋ったことのないクラスメイトの顔色を見て心配できるくらい、この人たちは優しいんだ。この人たちが悪いんじゃない。誰も悪くない。それなら、この胸の痛みを、僕はどうすればいいんだろう。溢れそうになる涙をぐっとこらえて、窓に持たれながら必死に目を瞑る。でもこんな時ばかりグルグルと考え込む思考が止まらず、眠りに落ちることは出来なかった。そして先生のマイクアナウンスで意識が現実へと引き戻される。 「そろそろサービスエリアに着くぞー。集合時間は十時半! しっかり戻ってくるように」  アナウンスが流れた数分後、バスが駐車場に到着し扉が開く。前から順に人が降りていくが、春が立ち上がる様子がない。前の生徒の流れについて行き、春の座席に視線をやる。すると、サイドテーブルに突っ伏して眠っている春がいた。春の隣に座っている女子が僕に気付いて、控えめに手を振ってきた。 「春喜くん、着くまで寝てるってさ」 「……そうなんだ。じゃあね」  春は車に弱い。酔い止めを飲んでも効かないと言っていたし、何より隣の女子にずっと話しかけられるのもしんどかったんだろう。眠っているのが一番だし、起こすのも可哀想だ。声を掛けずに一人でトイレに向かう。個室に入り、手早く血液パックを飲み干した。ほんの少し呼吸は楽になった気がするけれど、それでも動悸は治まらず、気分は悪いままで、一人になった途端、バスで我慢していた様々なものが両目から溢れて止まらなくなってしまった。 「どう、しよう……っこれじゃ、戻れない……っ」  すると、握りしめていたスマホが震える。恐る恐る通知を見ると、そこには尊人の名前が表示されていた。 『ちゃんと血は飲めてるか?なんかあったら連絡しろよ』  気が付いた時には、僕は通話ボタンをタップしていた。すると、ワンコールで電話が繋がる。 『おい、どうした?雪』 「……けて……」 『ん?なんだ、聞こえないよ。雪?』 「助けて……っみこ、尊人……助けてぇ……っ」  絞り出すように尊人に助けを求めると、尊人は何かを察してくれたのか、とても優しい声色で僕に話しかけてくれた。 『すぐ行くよ。どこにいるの?』 「海老名……サービスエリア……く、くだり……っ」 『分かった。落ち着ける場所にいて、動かないで。誰かそばにいる?』 「い、いない。一人…でも、休憩時間、十五分しか、ないの。もうそろそろ、終わる…」 『バスまで戻れるか?』 「……はぁっは……う……っ」 『どうした?おい、雪。大丈夫だから深呼吸して、落ち着くんだ。大丈夫だから』  遠くから尊人の声が聞こえる。でも僕の心臓はどんどんとスピードを上げていき、呼吸が荒くなり、目の前が真っ暗になりそうになた。手元からスマホが落ち、壁にもたれかかる。経験したことは無いけど分かる。これはきっと、過呼吸だ。あまりの呼吸の苦しさに、このまま息が止まってしまうのではないかと錯覚してしまう。いや、もう、それでもいいかもしれない。でもそれなら最後に春の顔がみたかった。 「……はっは……はぁ……っはる……う……っうぅ……っ」  ――来たよ、雪  耳元で、優しい声が響く。もしこれが人生で最後の夢なら、こんなに幸せな夢はない。神様は最後、僕にご褒美をくれたのかな。 「……ごめ、ん、ね……はる……っは、はる……っ」 「大丈夫だよ、ほら」  顎に手を置かれ、口が大きく開く。そして暖かい温度が重なり、僕の口の中にゆっくりと酸素が送り込まれた。 「は、あ……う……」 「ゆっくり吸って、吐いて。大丈夫だから。大丈夫。ほら、雪。俺を見て」  かすむ視界をなんとか正常に戻すように、瞬きを繰り返す。何度目かに瞼を開いたとき、僕の目の前にいたのは、夢に見た彼だった。 「は……る……?」 「そうだよ。間に合って良かった」 「え……だって……バス……え……?」 「雪がいつまで経っても戻ってこなかったから、探しに行くって言って無理矢理降りた。見つけたら連絡して、宿のレンタカーで先生が迎えに来てくれるって。だから雪、もう大丈夫だよ。少し、ここで休んでいこう」  ぐったりと壁にもたれかかる僕を抱き起こし、そっと胸の中に抱き寄せてくれる。彼の心音と体温が、僕の心臓を優しく抱きしめ、正常なスピードへと戻していくようだった。 「……もどり、たく、ない」 「雪?」 「ごめん、春。僕、みんなのとこ、かえりたく、ない……っ」  涙が溢れ、上手く喋れない僕の背中をゆっくり撫でながら、春は小さな声で「分かった」とだけつぶやいた。そこから僕の瞼はどんどん重たくなっていく。ダメだ、これだけ言っても春を困らせてしまう。 「……eat loveの、人、呼んだ……から……ここで、待ってて……くれる……?」 「分かった。あとは俺に任せて大丈夫だから雪は寝ていいよ。遅れてごめん。よく頑張ったね。偉かったね、雪」  おでこに一つキスを落として、抱きしめる力をほんの少し強めてくれる。偉かったね。たったその一言で、僕の胸の不安は薄らぎ、意識は夢へ溶けていった。 「……雪、雪」  ――耳元で、くり返される僕の名前。ああ、そうだ。ずっと春に抱きしめられていたんだ。もう、起きなくちゃ。 「…はぅ…?」 「春じゃなくて悪かったな」  その声を聞いて飛び起きる。目の前に居たのは、春ではなくて尊人だったのだ。 「え、あ、え、え⁉」 「なんだよ。お前が助けてくれつったんだろ」 「あ……」  そうだ、春よりも前に、電話で助けを求めていたのに。起き抜けで意識が回らず混乱していると、尊人がため息をつきながら話を続けた。 「ったく。顔色わりーな。血ちゃんと飲めなかったのか?」 「の、飲んだんだけど……なんかね……。ねえ尊人、ここどこ……?」  見渡すとそこは旅館のようで、学校で泊る予定だった宿泊施設とも違って見えた。尊人は僕が寝る布団の横に座り直して、じっと視線を重ねる。 「ここは俺の知り合いがやってる旅館だよ。泊まりに来る客は、Vロームとその親族がほとんどだ」 「それは、またなんで……」 「ここの経営者もVロームだからだよ。サービスエリアから近かったし丁度いいかなって」  Vロームの人が旅館を経営してるなんて想像もしなかった。あとで挨拶にいかなくちゃ。いや、でもその前に…… 「ねえ尊人、春は……」 「その前にお前は俺の質問に答えろ。バスで何があったんだよ」 「えっと……あの……」  強い視線をぶつけられ、思わず萎縮する。視線を下げても、尊人の両手が僕の頬を多い顔を上げられる。逃げ場なんてどこにもないのだ。 「休憩中におかしくなったんなら、普通にバスの中で何かあったって思うだろ。バスの座席、春の近くじゃなかったのか?」 「ちょっと色々あって……遠くになっちゃって」 「降りる時にどうして春に声掛けなかったんだよ」 「く、車酔いして寝てたから」 「ああ?ふざけやがって」 「……で、でも助けにきてくれたんだよ。だから、あの……」 「役立たずに変わりねーだろうが」  尊人は思いっきり舌を鳴らして、眉間に皺を寄せる。そして僕の頬に添えた手を唇へと移動していった。 「最初に会った日みたいだな」 「え……みこ……っ」  彼の名前を呼ぶ前に、唇が塞がれた。覆い被さった尊人の口内から唾液が伝い流れてくる。血液は別として、春以外の体液が流れ込んでくるのは本当に久しぶりのことだった。僕が唾液を飲み込んだことを確認した尊人は、ゆっくりと唇を離す。先ほどまで流れていた涙は、あまりの驚きに引っ込んだらしい。 「ひかじーの所に血を取りに行くわけにもいかねえから、出来るだけたくさん飲みな」 「ま……って、尊人……でも……っ」 「春からもらって、さすがに慣れたんじゃないの?」  その言葉から、尊人が僕にくれようとしているものが、血液以外のものだということはすぐに分かった。物音一つしない部屋に、僕の心臓の音だけが響いているような錯覚を起こしそうなほど、心拍数が上がっているのが分かる。しかし尊人は、一切僕から視線を逸らそうとはしなかった。 「このまま栄養失調にさせるわけにはいかないから」 「や……やだっ……やだっ!」 「なに、俺のこと嫌いなの」 「きら、嫌われたくない……っぼ、僕……尊人にまで、気持ち悪いと思われたくない……っ‼」  もうこれ以上誰にも自分自身を見られたくない。気持ち悪いと、バケモノを見るような目で僕を見ないで。  お願い、助けて、お願い。誰か。春、春……っ。  胸の中で何度も春を呼ぶ僕を見て、尊人は静かに言葉を続ける。 「それなら雪は、俺のことも気持ち悪いと思うんだ?」  尊人の言葉に、思考が停止して、思わず眉間に皺を寄せる。どうして僕が、尊人を気持ち悪いと思うのか。そんな要素、どこにもないのに。しかし目の前にいる彼は寂しそうな笑みを浮かべ、言葉を続けた。 「俺もVロームだよ」  一瞬、何も理解出来なかった。そんなこと、一ミリだって想像しなかったのだ。目を見開いて彼を見つめるが、彼の表情はいつもと変わらず、なんなら穏やかに感じられたくらいだった。 「俺の十年を教えて欲しいって言ったな。じゃあ今から教えてやるよ」 「尊人……」 「俺がVロームを発症したのが十年くらい前。症例もなくて、全容がまったく分からなかった頃。原因の分からない栄養失調に悩まされて入院になって、それでってかんじ。俺は日本で三番目のVロームなの。すごいだろ」 「そんな、だって……うそ……」 「嘘だと思いたかったわ。全部話すのはちょっと難しいけど……もう限界ってところでVロームが分かって、輸血で命を繋ぐことが出来た。でも十年前のVロームに対する偏見は今の比じゃなかったよ。卑しいバケモノ扱いだった。誇張でもなんでもなくな。しかも俺の痩せ方が異常だったから、分かるヤツにはすぐ分かって、面白がった同級生に囲まれてレイプされたんだよ」  頭が、真っ白になった。Vロームになって、病気に関することはたくさん調べた。もちろん、尊人のような性被害に遭った人の記事も読んだ。屋敷先生からも話を聞いていたし、花さんの日記でも当事者の言葉に触れることが出来た。でもまさか、それが目の前に、しかも僕の身近な人が経験しているなんて想像も出来なかったんだ。言葉を詰まらせる僕の前髪をすくい上げ、彼は静かに話を続ける。 「でもさ、レイプされて中出しされて病院に搬送されたらさ、栄養失調が改善してたことが何よりしんどかったな。あー、俺本当に人間じゃなくなっちゃったんだって。死んだほうがいいやって思った」 「み、みこ……」 「でも、死ねなかった。母さんが俺を諦めてくれなかったから」 「おばさんが……?」 「父さんはもう俺のこと人間としては見てくれなくなってて、会話もほとんどなかったよ。色々あって離婚したっていうのは、俺のせいだったんだわ。でも母さんは俺を諦めず、病気前と何一つ変わらず接してくれた。病気のこともたくさん調べて、海外にはVロームを支援する団体があるってことを知って、日本にも作ろうって動いてくれた。それが今のeat loveだよ」  花先生の日記に書いてあった、病気の息子のために団体を立ち上げた女性、それが尊人のお母さんだったんだ。もちろん団体のことは調べていたけれど、代表者名にまで目を通す余裕はなかったし、改めてホームページを読むなんてこともしなかったから全く気が付かなかった。    一体、どれほどの苦労を、どれほどの悲しみを、尊人は背負ってきたんだろう。どんな思いで、僕に言葉を掛けてくれたんだろう。ただただ胸が潰れそうな程苦しかった。 「……ごめん、僕、何も、何も知らなくて……っ」 「いや、俺も言わないようにしてた。雪はまだ、本当の意味でVロームを受け入れていないように思えたから。雪が人生を諦めちゃうかもしれない、今言わなくちゃ引き留められない。そう思うまで言わないようにしようって」 「……俺、人生諦めようとしてる顔してた?」 「そうだな、俺が死のうと思って鏡を見た日の顔に、よく似てた」  ふわりを笑みを浮かべ、両頬に手が添えられる。どうしてそんなに傷付いたあなたが、そんなに優しく笑ってくれるんだろう。僕が経験した苦しさなんて、あなたが感じた苦しさの百分の一にも満たないだろうに。 「僕、僕が言われたことなんか……尊人と比べたら……なんにも……」 「雪、人と辛さを比べて天秤で勝ったって何も意味ないんだよ。大事なのは、雪が死にたくなるくらい辛くて嫌な思いをしたってこと。それで、俺はそれを理解してあげられるってこと」  身体を引き寄せられ、強く抱きしめられる。耳元から聞こえる尊人の心臓の音が、やけに心地よく響いていた。 「俺ならお前の抱えてる色んなもの、全部理解してあげるよ。全部理解して、ずっと一緒にいてやるよ。Vローム同士でパートナーになるのも珍しい話じゃねーし」  顔をゆっくり上げ、尊人と視線を重ねる。尊人の表情は真剣そのもので、嘘をついているようにも、からかっているようにも見えなかった。僕がVロームになって初めて血液をくれた人。尊人がいたから、僕は大きく取り乱すこともなく日常生活に戻ることが出来た。今だって、僕がどうしようもなくなった時、走って駆けつけてくれる人。大好きな人。この人の手を取れたら、僕はきっと大丈夫。頭で分かっているはずなのに。   耳を澄ませば、頭の中に響くのは。 目を閉じれば、思い浮かぶのは。 どれも、たった一人の人だった。   両手で尊人の身体をぐっと押す。密着していた身体に距離が出来た分、尊人の顔をよく見ることが出来た。そして真っ直ぐに尊人を見つめる。 「……尊人のことは、大好きだよ。信頼してる。それは、十年前も今も変わらないよ。だけど、僕……」  そこまで口に出したところで、言葉がどもって出てこなくなる。この先の言葉を言ったら、僕は尊人に嫌われるんだろうか。もう二度と、声を聞くことも、手を握ってもらうことも出来なくなるんだろうか。自分から拒絶するくせに、拒絶されることが怖いなんて、そんな都合の良いことが言えるはずもない。無言のままボロボロ泣き続けると、ゆっくりと襖が開く。そこに立っていたのは…… 「とみ、さん…?」 「尊人、意地悪言わないの」  富実さんは尊人の背中を抱きしめ自身に引き寄せる。その様子を見て、僕の中に一つの言葉がすとんと落ちてきた。 「二人は、あの……」 「せいか~い!俺と尊人はパートナーなの。恋人なのよ」 「うっせばーか」  耳まで真っ赤にしている尊人を見て、それが嘘でないことが分かる。でもそれなら、どうして。口から出てきそうになる疑問よりも先に、言葉を発したのは富実さんだった。 「どうして雪ちゃんに、告白みたいなことを言ったかって話しよね?」 「え、あ……は、はい」 「俺は本気だぞ。雪が大事だし、雪が俺を選んだらちゃんと一生大事にする覚悟はあるし」 「いやそしたら俺はどーなるのよ⁉」 「世話になったな」 「そ~いう心にもないことは言わないの!」 「……だって、無理だろ。雪が傷付いて泣いてるのにそれに気付かない男に任せるなんてさ」 「尊人……」 「Vロームと付き合うっていうのは、生半可な覚悟じゃ無理なんだよ。自分がいなくなったらそいつは死ぬくらいの覚悟がないなら、最初から手をとるべきじゃない」  尊人の言っていることはもっともだ。僕たちはまだ十六歳で、将来を一緒に生きて行くような相手を決められる年齢でもないし、僕は春をその相手に出来るとも思っていない。 「……一生一緒にいる約束なんて、してないよ。春に恋人が出来たり、結婚したりしたら」 「俺は尊人以外に、誰も、何もいらないけどね」  僕の言葉を遮って、富実さんの真剣な声が響く。富実さんの方へ視線を投げれば、そこにはいつものような笑顔はなくて、とても真剣な一人の男性の顔があった。 「あのね、俺らのパートナー契約って結婚より重たいよ。紙の契約があるわけじゃないけど、俺は俺の人生を全部、尊人にあげたの。何があっても尊人を死なせないし、尊人より先に死なない。それが出来ると思った相手じゃないなら、パートナーとは呼べないよ。いつか手放すつもり程度の相手なら、雪ちゃんも春くんに深入りしちゃダメだ」  いつか手放すつもり程度なら。その言葉が僕の胸に深く突き刺さる。僕はもう、とっくに分かっていたはずなのに。 「……かった……んだ……」 「雪?」 「僕、嬉しかったんだ。病気って知っても春が僕を嫌わないで、今まで通り接してくれて、僕を守ってくれるって言ってくれたこと、本当に、嬉しくて。でも、それをずっと望むのはわがままだと思った。僕は男で、春とずっと一緒にいられないのに、この病気を理由に春と一緒にいたいと思うのは、春を縛り付けるのと一緒だから……っだから、春が別の人と幸せになる日が来るなら……っ春の手を手放さなくちゃって思ってた……っっ‼」  本当にそう思っていた。その言葉に嘘はない。今だってそうだ、そう思っていたのに。 「……尊人が好きだ。尊人は僕に血をくれた初めての人だから。こんなに栄養が足りてないなら、尊人に縋り付いて、精液を欲しがるんじゃないかと自分でも思った。でも、でも、頭の中でずっと聞こえるんだよ。春の声……春が、春が僕を呼ぶ声がっ!」  何重にも鍵を掛けていた気持ちの蓋が、ガタガタと音を立てている。 “それ”はもう、目前まで迫っていた。 「雪ちゃん、そこから先は直接教えてあげた方がいいよ」 「へ……?」  富実さんはふわりと優しい笑みを浮かべ、襖をそっと開く。僕の呼吸が、止まってしまうんじゃないかと思った。襖の先にいる、ずっと求めていた人。 「雪」 ――少し困ったような笑顔を浮かべる、美しい人。  夢じゃなければ、目の前に居る人は間違いなく、春だった。

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