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第1話

 警察官歴十一年、先日巡査部長に昇格したばかりの県警刑事、諸井(もろい)仁(じん)捜査官は、昇級の成果を給与明細に見る前に、三十年の人生を終えた。危険を伴う職業だ。無傷で元気に定年を迎えるとは思っていなかったが、少し早すぎると思わずにはいられなかった。  しかし、天涯孤独となった自分と、少年の人生を秤にかければ、迷うことなく少年の人生を選択した。警察官を目指したのは、少年少女の人生を壊す大人を捕まえたい、自身が少年だったころ、そう強く願ったのがきっかけだったからだ。  二か月ほど前に、DⅤの現行犯で男を逮捕した。男は懲役刑に処されたものの執行猶予がついた。拘置所を出て向かう先は、内縁の妻とその連れ子がいるアパートだろう。嫌な予感がして、仁は勤務を終えたその足で、アパートに寄ることにした。拘置所は決して快適な場所でもなく、遂に前科がついた男が、気を立てて帰るのが目に見えていたからだ。今回は仁が逮捕にこぎつけたが、男が常習的に内縁の妻子に暴力をふるっていたのは明らかで、反省も更生もせず同じことを繰り返すのは自明の理だった。しかし、仁が最も危惧していたのは男の暴力よりそれを受けていた子のほうだ。現行犯逮捕時に現場にいた、思春期にさしかかった少年の目には、明確な報復の意思が宿っていたから。  たった二か月でも、年ごろの男子の成長は早い。体格も腕力もどんどん大きく強くなる。内縁というだけの関係を清算できない母親に憤り、また暴力をふるいに戻ってくる男に恨みを募らせ、追い詰められた少年が何をしてしまうか、それが仁の気がかりだ。まともでない大人のために、少年が犯罪者になってはならない。怪我は治っても前歴は消えない。大人が撒いた動機であっても、前歴が残るのは少年のほうだ。  男が更生しているという僅かな望みにかけながら、古びたアパートの扉の前に立つと、男の怒鳴り声と女の小さな悲鳴が聞こえた。施錠されていない扉を開け、狭い玄関に散らかった靴を蹴散らす勢いでアパートに入れば、男は一升瓶を振り上げ、まさに女を殴ろうとしていた。 「やめろ!」  男の手首を掴むと、自分を逮捕した刑事の顔は覚えていたのか、男が一瞬怯んだ。その隙に取り上げた瓶の口から、微量の酒が流れ出す。途端に部屋中に撒き散らされた酒の匂いが鼻を刺激した。男は拘置所からここまでのあいだに安酒を買い、ほぼ飲み干して酔っているのだ。内縁の妻は瓶で打たれたようだが、威力も命中率も悪かったのか、目立った傷はない。少年は逃げ場のない狭い部屋の隅に立ち、必死に怒りを堪えている。拳を握り、唇をきつく噛む姿に、来てよかったと思わずにはいられなかった。 「医者に診てもらうか?」  声をかけると、女は小さくかぶりを振った。仁は内心舌打ちせずにはいられなかった。  勤務時間外でも現行犯逮捕はできる。執行猶予中の再犯なら男の懲役は確実だ。半年でもいいから男が服役していれば、この内縁の妻も関係を清算するに至るかもしれない。そう考えていた。しかし女も男に依存しているのか離れようとしない。  一番の被害者は少年だ。様子をうかがうと、赤の他人からの理不尽な暴力と、そこから離れようとしない母親に絶望していた。  ともかく今夜はなんとかなるだろう。刑事の目が光っていると知れば男も少しは自重するかもしれない。執行猶予を恨みながら、その猶予の意味を男に説いて帰ろうとしたとき、背中に鋭い痛みを感じた。途端に息が苦しくなり、同時に女の悲鳴が耳を突き刺して、自分が背後から刺されたことに気づく。刃物が抜かれた感覚がして、その鮮明さに傷の深さを知らされた。振り返ろうとしたとき、驚愕する少年の顔が見えた。  振り返ったところを正面から刺された。男の顔はもはや、人のそれではなかった。このままではこの母子もやられる。仁は刺された状態のまま、男の胸ぐらを掴み、力の限り男を壁に押しつけた。 「逃がすかよ、糞が」  品行など構っていられない。胸ぐらを掴んだまま、男を見据え続けた。命がけの拘束と剣幕に圧された男の顔が青ざめていく。今度は執行猶予では済まされない。 「俺たち警官は、同族殺しに容赦しねぇんだ」  身体の力が勝手に抜けていく。自分はもうだめだ。しかし、この男が確実に逮捕されるまでは絶対に意識を手放したりしない。  少年が震える声で通報しているのが聞こえた。住所を伝える、変声期半ばの声は、痛々しいけれど、芯の強さもうかがえた。  それでいい。誰かを刺すとはどれほど怖いことかを、人を攻撃することに正義なんてあり得ないことを今日見たことから知ってほしい。そうすれば、独り立ちできる日までがどれほど苦しくても、道を踏み外すことはないだろう。自分も非行に走りかけて踏みとどまれた。だからこの少年だって、立派に成長できる。  真面目でいるより腐るほうが容易だった過去をばねに刑事になり、自分なりの信念を貫いた諸井仁巡査部長は、命と引き換えに殺人の容疑者を現行犯逮捕した。         ***   「お客さん、着いたよ。早く降りて」  運転手に急かされ、寝落ちてしまっていたことに気づいた仁は、慌ててタクシーを降りた。しかし―――。 「うわっ」  道路に出たはずが、なぜか下へと転げ落ちた。溝にはまったわけではない。東京ほどではなくてもそこそこ都会的な街に住んでいるのに、なぜか運動場のような茶色い土がむき出しの地面に突っ伏していた。 「大丈夫かい、お客さん」 「あ、ああ……」  わけがわからない。ここはどこだ。困惑しながらも立ち上がり、状況を掴むため周囲を見回すと、自分が乗っていたのはタクシーでなく馬車で、茶色い地面はだだっ広い草原のあいだの、未舗装の道だったことに気づいた。 「ここ、どこ?」 「ウェルトン伯爵の屋敷だ。お客さんがここを指定したんだろう」  呆れ顔の中年男性は、やや急いだ様子で馬車の御者席にのぼった。 「え、ちょっ……」 「長くいたい場所じゃないんでね。お客さんも気をつけな」  そう言って、男性は馬車を走らせて去っていってしまった。 「なんなんだよ、一体」  伯爵、屋敷。現実とは思えない言葉の羅列が、背後を振り向いた瞬間、繋がった。金属製の大きな門がそこに鎮座していて、仁が立っている土の道が、門の向こうの広大な屋敷まで続いている。 「おいおい、本当に伯爵さまの屋敷って感じじゃねぇか」  思わず声をだしていた。日本中を探しても、眼前に広がる広大な敷地と、職人技を感じる洋式の屋敷というセットにはお目にかかれないだろう。建築のことなんて知らない。が、この屋敷が、文明開化以降の洋風建築とは一線を画すものであることは、感覚的にわかる。つまり自分は、日本でない場所にいるということだ。 「いつの間に外国なんかに」  服についた土を払い落とすため、腹から下を見下ろせば、見覚えのない服を纏っていてさらに困惑した。今の自分は、焦げ茶色のスラックスというべきか、長い丈のズボンと、似たような色のベスト、そして黒っぽい上着を着ている。しかし、そのどれもが既製服の、あの単一的な生地で作られていない。足元も、買った覚えのないハイカットの革靴で、使い込まれて柔らかくなっている。  なにより、そのデザインが古めかしいのだ。物はそう古くないだろうに、形が昨今のメジャーなデザインになっていない。  まるで歴史のどこかにタイムスリップしたようだ。わけがわからず、立ち尽くしていると、タイムスリップを裏づけるような荷馬車が、門の向こう側からこちらへ向かってきた。そして門の手前で止まると、馬車を操っていた四十代くらいの大柄の男が降りてきて、門を開ける。この男も、仁の着ている衣服と似たような生地の服を着ていた。

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