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第2話

「あんた、仕事を探しにきたんだろう」 「えっ」  仕事とはどういう意味だ。この門まで来るようさっきの馬車に頼んだのも自分のはずで、その目的が求職だったということか。 「乗りな」  さっぱりわけがわからない。けれど、他に選択肢があるようには思えない。男は大柄で愛想もないが、悪人の気配もしないから、ともかく従うことにした。今の自分は荷物も持っておらず、ポケットを確かめてもせいぜい小銭しかない。日銭を稼がねば見知らぬ場所で野垂れ死にしてしまう。 「ああ、助かる」  二メートルほどの横幅の荷馬車は、馬一頭が引いている。御者席はベンチ型で、少々手狭でも細い大人二人なら並べそうだ。しかし、男が大柄なものだから、そこに仁が座る余裕はない。  仕方なく荷台に乗ると、中には芋や玉ねぎといった野菜と、鍬とスコップ、薪が載せられていた。 「あんた、名前は?」 「仁だ」 「ジーンか。俺はトーマスだ」 「よろしく。いきなりなんだが、トーマス。今年って、何年だったかな」 「うん? 一八三五年だ」 「一八三五。って、いつだよそれ」  思わず言っていた。インフラ設備は言わずもがな、スマホやパソコンなしに一日を過ごすのはもはや難しい時代に生きていた仁にとって、一八〇〇年代の生活様式なんてまったく想像もつかない。 「どうかしたのか」 「ああ、いや、なんでもない」  明治維新は何年だっただろうか。一八〇〇年代といえば、その百年のどこかで文明開化が起こっているはず。混乱した頭の中でなんとか思い出すも、残念ながら、歴史の知識は公務員試験を最後に頭の中からどんどん消えていっている情報で、世界史は特に、成績があまり良くなかった。 「ここら一帯が伯爵の土地なのか」 「見える限りどころじゃない。ウェルトン地方全体が伯爵のものみたいなものだ。だからウェルトン伯爵だ」 「ウェルトン伯爵ね」  地方名を知っても、ここがどこかはさっぱりわからない。しかし雰囲気からは、ここはイギリスと推測している。  荷馬車が進むにつれ、屋敷の壮大さに圧倒された。表の玄関は使用人がずらりと並んで、主人を出迎えるのが似合いそうだ。しかし、仁は職を求めに来たはずの存在で、トーマスも明らかに労働者。豪華な玄関での出迎えがないだけでなく、荷馬車は裏口へと向かう。  裏口は、現代日本の一般的な建築物に慣れている仁にとっては豪華に見えたが、表とは明らかにランクが違う。そんな裏口からしか屋敷に入れないことに抵抗はなかった。人間社会には常に階級差が存在して、自分は真ん中から下に属する身だとよく理解しているからだ。  そこまで考えて、肝心な事実を思い出した。  待てよ。自分は確か、現代日本で死んでしまったのではなかったか。 (これってまさか、転生っていうやつか)  信じ難いがそうとしか思えない。突然外国に移動していただけなら、長期間、記憶を失ったという苦しい説明もつくだろう。しかし、時代まで違ってしまうと、転生以外の説明ができない。  第二の人生とでも捉えればよいのか。仕事に関しては、まさにこれからという年齢と経験値だった。神のいたずらといった現象で転生したのだとして、二度目の人生はその埋め合わせと解釈する以外、考えられない。 「執事のマイルズさんだ」  トーマスの声に意識が引き戻された。裏口のほうを見ると、燕尾服に似た、質の良さそうな衣服を着た高齢の男性が立っていた。 「メイドを募っていたのですが」  少々困惑気味に言われ、そもそも自分がなぜ一八三五年のウェルトン地方にいるのかわかっていない仁は、答えようがなかった。  ともかく荷馬車から降りると、マイルズは表情を正してまた口を開いた。 「名前は?」 「仁だ。苗字は諸井というんだけど……」 「ジーンですか。良い名前ですね。覚えやすい」  ジーンでなく仁なのだが。そこをつっこむ気にはなれず黙っていると、マイルズがすっと息を吸った。 「人手が欲しいことに変わりありません。ジーン・モロイ、ついてきなさい」  マイルズの言い方だと、純和風だと思っていた名前が洋風に聞こえてくる。  踵を返したマイルズを追って屋敷に入ると、まずは土間のような空間が広がっていた。内装はレンガ状に切り出された石と木で組まれていて、ひんやりした空気が漂っている。休日なのか人気がなく、使用人が働くのだろうエリアをしばらく歩いて、台所を通りかかったところでやっと一人見かけた。六十代くらいの男性で、服装から察するに料理人だ。台に並べた野菜を睨み、考え事をしている。 「シェフのサイモンです」  マイルズは一瞬サイモンのほうに視線を向けただけで、廊下をずんずん進んでいき、最初に見えた階段を、足音を立てずに上っていく。仁もできるだけ音を立てず、後に続いた。  上階に出ると、景色ががらりと変わった。石がむき出しになっている壁も床もなく、豪邸の貫禄がそこにあった。ピカピカに磨かれた木の柱や扉、床板から天井のモールディングまで、芸術的なまでに繊細なデザインが施されている。廊下は先が見えないくらい長くて、どう考えても量産されていない調度品や、金の縁で囲われた絵画、そしてクリスタルがふんだんに吊るされた照明が延々と並んでいる。このどれもが手作りなのだと思うと、自分のものではないのにありがたみを感じるほどだ。 「ご主人様に質問をされなければ、あなたから話しかけてはなりませんよ」  長い廊下をまっすぐ進みながら、マイルズが言った。身分が低い労働者階級から、支配者階級の伯爵に話しかけるなということだろう。 「はい」  雇い主に話しかけられないとは。極端に感じるけれど、マイルズが決めたことでもないだろうから、素直に返事をした。  マイルズが一つの扉の前で立ち止まり、上着をびしっと整えた。 「ご主人様、新しいメイド……、使用人が来ました」  失礼しますと言って扉を開け、室内に入ったマイルズは、仁も入るよう視線で促す。  そこは書斎だった。壁一面の本棚に、カウチやテーブルまである。窓のそばの職人技が光るデスクに向かっているのは、予想を裏切る若い男性だった。  栗色の整った髪と、すっきりした顎と鼻筋、そして涼しげな目元と水色の瞳が気高さを表している、二十代半ばの男性はウェルトン伯爵。上質な衣装を纏い、胸の前で指を組んだ姿は、洗練された貴族とはなんたるかを示すようだ。 「男ではないか」  伯爵の第一声には、感情が籠っていなかった。しかし、抑揚がないにもかかわらず、甘さを感じさせる印象的なものだ。座っていても背が高いのがわかる。屋敷の規模や称号から考えて、上流階級の中でも上位の存在だろう。そのうえ容姿や声質まで整っているとは、天は二物を与えたものだ。 「しばらくは、求職者が男になるかもしれません」

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