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第6話
「始めるよ」
「おう」
ばしゃんと音がする勢いでアンドリューが桶に入ってきた。シーツを踏んだり、つま先で水面に八の字を書いたり、自由に遊んでいる。
「ローズはどうする?」
アンドリューが楽しそうにしていると、ローズもだいたい参加してくる。しかし、慎重な性格なので何かひっかかっているようだ。
「私もドレスを脱がなきゃいけないの?」
「そうだなぁ。レディだからそのままでいいか。スカートだけはこうして裾を上げるけど」
ローズの場合は、プライドの高さに合わせて、レディと認識していることを伝えると、機嫌も良くなり前向きになる。今回も納得した表情で靴下を脱いだ。
「それならいいわ」
スカートの裾を端折ってやると、さっそく桶に足を入れていた。仁はもう一つの桶に別のシーツを入れ、石鹸を泡立て、足で踏んでいく。
「今日は暖かいから、水が冷たくて気持ちいいな」
「「うん」」
バシャバシャと音を立ててシーツを踏む二人を眺めながら、仁も童心に返っていた。否、戻りたい子供時代なんてなかったから、あのころに得られなかった、世界を曇りない目で見る感覚を、二人を通して学んでいる。
ギャンブルと酒、ネグレクトと暴力。それが仁の両親を形容する言葉だ。中学生になるまでどうやって生き延びたのか、自分でもわからないほどひどい家庭環境で育ち、それが当然のように非行に走りかけた。しかし根っこの部分は正義感が強かったから、犯罪に手を染めることはなく、警官を目指すきっかけとなったある刑事との出会いによって更生できた。
真っ暗な過去を、二人が少しずつ浄化してくれている気さえする。未だに転生の原因や理屈は不明で、刑事の仕事に未練もあるけれど、毎朝自室のベッドから起き上がるときは憂鬱でも億劫でもなく、充実した一日にしたいと自然に思うほどにはウェルトン伯爵家のメイドに馴染んできている。
ただ一つ気になるのは、双子に友達がいないことだ。敷地が広大でお隣さんは遥か遠く、近隣に同等レベルの貴族家もおらず、アンドリューとローズはいつも二人きり。仕方がないのだろうと最初は考えていたけれど、昨日アンドリューが気になることを言っていた。
「吸血鬼がきたぞー」
兵隊の形の駒人形を持ったアンドリューがローズの人形に襲いかかるそぶりを見せた。するとローズは、悪い冗談を鬱陶しがるような反応ではなく、恐怖と嫌悪に美貌を曇らせていたのだ。
この時代においての吸血鬼の認知度はわからないが、多くの人間が知っていたとして、五、六歳の子供に教えるものだろうか。不気味な童話などは、生活における教訓を教えるものだったりするけれど、吸血鬼がその一部とは思えず、双子がどこでどうやって吸血鬼の存在を知ったのか、不可解に感じた。
もう一つ気になることがる。それは、この広大な屋敷には以前、五十人近くが勤めていたのに、双子の母親が亡くなったのを機にほとんどが辞めていたこと。庭師のトーマスも、執事のマイルズも、シェフのサイモンもこの関連性は一切話さなかったが、個々に話を聞いてまとめると、双子の母親が亡くなった理由に、大量退職の原因があったと推測できた。
バランスを欠いた屋敷の現状を解く最後のピースは、吸血鬼ではないか。諸井巡査部長だったころからの勘はそう囁く。このひと月で、この世界は異世界なんかではなく、地球上の西暦一八三五年の十月だと確信できた。魔法や怪物の類は一切存在していない。ならば、なぜアンドリューが一度だけ放った吸血鬼という言葉がカギだと思うのか。それは、一斉に使用人が辞める事態を起こせるのは、亡くなった双子の母親、伯爵夫人が吸血鬼に殺された場合ではないかと考えたからだ。
仁は吸血鬼なんて信じていない。だから、アンドリューの一言を聞くまで、吸血鬼なんて可能性は思考を掠めもしなかった。が、幽霊や怪奇現象を根強く信じているだろうこの時代の人々は、死因や遺体に怪しさを感じたら、吸血鬼の存在を持ち出してもおかしくない。
「きれいになってきたんじゃない?」
アンドリューの声で意識が洗濯に戻ってきた。
「ああ。上手だ。そろそろすすごうか」
踏む作業を終えようとしたとき、向こうに白馬に乗ったオーガストの姿が見えた。
「お父様だわ」
ローズは慌てて桶から出て、スカートを下ろした。アンドリューはというと、まったく気にせず、桶の中から手を振っている。
(やっべぇ……)
マイルズに見つかるより先にオーガストに洗濯の現場を見られるのは、想定外だった。貴族家庭では大人、特に男性は子供とあまり関わらないのが普通のようで、オーガストは日中、子供たちの様子を見にくることもあまりない。なのでこのひと月、自由に遊んできたのだが、よりにもよって召し使いの仕事をさせている場面でオーガストが出てくるとは。
せっかく子供たちが懐いてくれたけれど、子守りの役からは外されてしまうかもしれない。こちらに近づいてくるオーガストが、普段は乏しい表情を険しくする悪い予感を抱きながらも、仁は自分が踏んでいた桶の石鹸水を排水路に流した。
パカパカと馬の足音がそばまで来たので、立ち上がってそちらを向くと、単独で乗馬に行ってきただけなのに、帽子からブーツまで隙なく身なりを整えたオーガストと目が合った。
(絵に描いたような貴公子だな。まあ、本当に本物の貴公子なんだけど)
白馬が似合う人間を初めて見た。といっても、騎馬隊か競馬場の騎手くらいしか馬に乗った人間を見たことがないが、ともかく、プリンセスやらおとぎ話やらの類にまったく関心のない仁ですら、貴公子と思わせるオーガストの存在感は真の一級品だ。
「お父様、見て、洗濯はこうやってするんだよ」
近づいてきたオーガストに、アンドリューが笑顔でシーツを踏んでみせる。ローズは関わっていたことを隠したそうだが、裸足なのでオーガストも気づいているだろう。
子供が召し使いの領域である洗濯に参加していたことに、ウェルトン伯爵はなんとも言い難そうな表情で、かける言葉を思案しているようだった。アンドリューは楽しげで、ローズはコメント待ち状態。子供たちに苦言を呈するわけにもいかず、仁に対しても、子供の前では咎めたくないのだろう。
それに、深刻な人手不足はオーガストが一番よく理解しているはずだ。仁が子供たちに洗濯の手伝いをさせた理由も勘づいてはいるだろう。
「そうか。初めて見た」
馬の上からアンドリューに答えたオーガストは結局、洗濯を止めようとはしなかった。
「ジーンがね、僕たち上手にできたって」
胸を張るアンドリューの無邪気さに、無表情ぎみのオーガストも頬をほころばせる。
「何事も成果を残せるのは良いことだ」
前向きなコメントを残して、オーガストはマッドルームのほうへと馬を歩かせ去っていった。
(とりあえずは、お咎めなしかな)
あとからマイルズを通して何か言われるかもしれないが、子供たちを萎縮させるような結果にならなくてよかった。
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