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scene1-1
prologue
お前が何を言っているのかわからない、至極真っ当な顔をして竹内悠生 はそう言った。
八月、昼下がりの強い日差し。けれど、風は強く、無造作に竹内と小川大翔 の髪を散らしていた。
人工に作られた浜辺はとても綺麗で、割れた貝殻の破片が砂に混じって星の砂のように光っていた。
風に煽られさざめく波の音が竹内の履きこまれたスニーカーの底を覆う。
立ち尽くす小川の足元にも、じわりじわりと緩んだ星の砂が流れて行く。
ああ、わかってる。わかっていたさ。
緩みそうになる気をなんとか食いしばって小川は立っていた。
竹内の視線の向こうに小川の姿がない事などもう知っていた。竹内の心の中を占める者が誰なのか知ってしまったから。
「友達じゃんか」
かける言葉に悩み、竹内は友達だとそう言った。
睫毛に縁取られた瞳が落ち着きなく動く。
戸惑い、居心地悪そうに、海水がさざめきぬかるんだ砂地を踏んで、歯を食いしばって立ちすくむ小川を申し訳なさそうに盗み見る。
「分かってる」
友達。
友達なのだ。
歪みそうになる視界の中、とどめのように刺された言葉。
友達。
反芻すればするほど小川は惨めになる。
もう一生戻れない。
その為に自分で壊したのだから。
──好きだったんだ、竹内。
男だとか親友だとかそんなもの取っ払ってでも、知ってしまった感情を殺すこともできず、どうしようもなかった。
お前の事が好きだったんだ、竹内の事が、本当にずっと、ずっと──
scene1
小川が竹内の存在を知ったのは、竹内が小川を知るよりも少し先だった。
背が高く、黒い髪が繊細に流れる横顔。
色白で見た目は文系なのに、運動神経はよく武道に長けてめっぽう強いらしい。
夏休みが明けた始業式の体育館で、各部活動の夏の総体結果を体育主任が読み上げていた時だった。
入賞された部は舞台に上がり校長から賞状とメダル、そしてトロフィーを授与されていた。
「空手部、個人組手の部、第三位、一年三組竹内悠生」
ハイ、と小川の近くからその声は聞こえた。低く控えめな声量だった。
呼ばれているのはほとんどが三年ばかりで、小川の所属するサッカー部も先輩たちがインターハイへ行き、ついさっき舞台で表彰されたばかりだった。
用のない一年生は飽きて無駄口を叩いている者がほとんどで、小川も前後のクラスメイト達と意味もなくゲームの話や昨夜のバラエティ番組の話題で暇を潰していた。
そんな一年の列から声が上がり、一人のシルエットが舞台へ駆けて行く。
すげえな、一年で三位ってめちゃ強くね?
イケメンじゃん、あんな奴いたっけ?
そんなどこからか発された声が小川の耳に入る。
一年一組の後方でダラダラと並んでいた小川だったが、一年で既に入賞し表賞される竹内悠生という人間に少しだけ興味を持った。
舞台に上がったのは、格闘技をやる男達のイメージとは違い、スラリとした体躯の男だった。
背が高く、黒い髪がサラサラと揺れていた。
夏の制服である白いポロシャツから伸びている二の腕は白く筋肉が張っていて、肘から下は筋が一本深く通っていた。
自分とは全てが真反対だと思った。
毎日グラウンドでサッカーボールを追っていた小川の肌は焼けて真っ黒だったし、髪も茶色に抜けていた。
身長が百七十三センチの身体は、部活がハード故どんなに食べても消費されてしまうようで肉にはならず、サッカーでついた微々たる筋肉しか付いていない。
舞台から降り、一年の列へ竹内が戻ってくる。
スポーツ推進校だが、無名の一年生の快挙に同学年から注目を受け、竹内はくっきりとした二重の瞳をただただ真っ直ぐ向けて戻って来た。
唇を引き結び、無表情。何か冷たそうな奴。
それが小川の竹内への第一印象だった。
教室へ帰りがてら、小川は一年三組の教室を覗いた。
好奇心旺盛な性格ゆえ、どんな奴かとりあえず確かめたかった。
体力的にも技術的にも強い奴には興味がある。格闘技が強い、男子ならば一種の憧れに近いものを持っているからだ。
ざわざわと思い思いにしゃべる騒がしい教室内で、席に着きスマホを弄っている姿はすぐにはわからなかった。
「小川ー?」
後ろから声を掛けられて振り向く。
小川と同じサッカー部でこのクラスの杉田洋介 だった。
小川には先にサッカーを始めた五つ上の兄がおり、その影響で、幼稚園からずっとサッカーボールを蹴ってきた。
勉強が大嫌いで、スポーツ推進校のこの学校へもサッカーだけで入ってきた。
杉田も小川と小学生の時から同じフットボールクラブ出身で、同じポジションで付き合いは長い。
どちらが馬鹿かと問われれば、多分お互いがお互いを指すだろう。
「おっ、杉田、ちょいちょい」
小川の手招きに、杉田は面白い何かを期待したのか嬉々として寄って来る。
健康的に陽に焼けているのはサッカー部員の特徴だが、杉田の高校デビューを狙って急におしゃれに目覚めたセンター分けヘアーが可笑しくて、無性に崩してやりたくなる。小川はいつものように手を伸ばすと、それを察した杉田は頭を引くが、小川のが早く杉田の首に腕を回しグイと引き寄せた。
「ちょっ、痛てえっ」
「おい、あいつさっきの奴だよな?」
「え、どれ? 竹内?」
顎で真ん中の列の一番後ろに座っている男を示すと、締め付ける首を上げて杉田はあっさりと竹内の名を言った。
「何あいつ陰キャ? ハブられてんの? 空手で三位なのに一人とかあり得なくね?」
「はあ? オメーの基準と一緒すんな」
杉田がポカンとして言う。
「どんだけ強えーんか思ったらそーでもないんか、ちょっと行ってこよ」
「あー! やめろよ、バカ!」
羽交い絞めにしていた杉田の髪を思いっきり掻き混ぜて崩してやると、油断した杉田が叫ぶ。それを無視して小川はポツンと席に座る竹内の所に向かう。杉田が後ろから焦って「竹内っ」と呼ぶと、彼はスマホから目を離し、面倒臭そうに顔を向けた。
くっきりと掘り込まれたかのような二重と一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされる。
薄い上唇をきゅっと引き結び、目の前にいる小川の存在に竹内は一瞬嫌そうな顔をした。
それをさっと瞳を逸らすことで無表情を取り繕う。
「空手すげえ強えーんだって?」
「まぁ……」
沈黙。小川と目を決して合わせようとはしない。どちらかと言えば「なにこいつ?」と言いたげに、小川の後ろに立つ杉田を見ている。
あからさまな拒絶感を向けられて、小川はまじまじと目の前の男を眺めた。
襟足を刈り上げたサラリとした黒い髪に色白な肌は清潔感があって透明感がある。印象的な二重の瞳と、通った鼻梁。
不愛想じゃなければ女子に騒がれ、席の周りだって皆に取り囲まれるだろうに、妙に冷めた態度を取っている。
「嫌われてんじゃん。お前ガキくせーんだからさ」
「臭くねーよ」
杉田が丸い目を細めてぷっと吹き出すと、竹内がふっと気を緩めるのを感じた。
それが何だか気に入らなくて小川は杉田の背をどついた。「あたっ」という杉田のコミカルな声に、竹内はまた嫌そうな顔をしたが、そのまま何もなかったかのようにスマホへ目を戻した。
どちらかと言えば、手の早い小川を乱暴者と認識したのかもしれない。
「ぼーりょくはーんたーい」
「うっせえ」
ニヤニヤしながら杉田が間の伸びた声で訴えるが、小川と杉田の間ではこんな事は日常茶飯事に過ぎない。
サッカー部の連中とつるむのが常の小川に友達は多い。
明るくノリの良い性格で、ガキっぽく単純──誰とでも仲良くなれる人懐っこさが小川にはあった。
実際、教室に入れば男女問わずあちこちから声が掛けられるし、クラスが違っても部活の友達がわんさかいる。
杉田だってランドセルを背負っていた頃から友達でもありライバルでもあった。
ほぼ幼馴染である杉田の交友関係は知っているつもりだったが、いつの間に、小川の知らなかったこの男と友人だと知って、負けず嫌いに火がつく。
空手が強く表彰されるほどの腕っ節の持ち主。
背も高く容姿に恵まれたイケメンなのに妙に冷めた態度。
かなり興味があった。杉田が友達ならば、自分だって。
「なあ、今日三人でマック寄って帰んねえ?」
「部活の後にそんな余裕ねえよ、なあ竹内?」
「……」
杉田が竹内に振るが、答える気もないのか無言で首を振っただけだった。
どこの部活も終わるのは七時近い。
体力を搾り取られ、腹を空かせた状態で寄り道して帰るほどの魅力がこの誘いにはないのは明らかで。
小川の無謀な誘いに乗るでもなく全く興味を示そうとしない竹内に、小川はなぜか悔しさだけが積み重なった。
「じゃあ今度の土曜日」
「土曜だって部活あんだろが」
「夕方には終わるじゃん、その後行こうぜ?」
「竹内も部活だろ? 時間あんの?」
小川のしつこい誘いに杉田は仕方なさそうに聞く。竹内はスマホから目だけを上げると、面倒臭そうに杉田を見る。
「……遠慮しとく」
抑揚なく、興味なさ気な言い方。
体育館で名を呼ばれ「はい」と上げた声の持ち主とは思えない。まるで存在していないみたいに小川をチラリと見ようともしない。
あまりにも無関心、悔しさだけが小川の心に残った。
それから三ヵ月後、月初めの朝礼でまた空手部が表彰された。
竹内個人での表彰ではなかったが、都内で開催された小さな大会で団体優勝したらしく、上級生の中に一人竹内が混じって舞台の上に立っていた。
百人はいるサッカー部の中で、一年がレギュラー入りするのは難しい。
いくら部員数の少ない空手部でも一年のうちから大会に出て経験を積める、そんな竹内を小川は心底羨ましいと思った。
その日の放課後、小川は部室からグラウンドに出る途中ふと道場が気になり、空手部の稽古を覗いた。
そこには冷めた顔をしてスマホを弄っているような男はいなかった。
張りのある真っ白な道着に黒い帯、真っ直ぐに正面を向く漆黒の瞳。
指の先からつま先までも緊張感に満たせた完璧な型。
構えを取って相手を射る姿は威圧感の塊だった。
雑念などそこにはない精神の世界──
強いのだという事が、あの道着姿からでもわかる。
武道に準じていると言うだけでどうしてこうも一人の人間の格が上がったように見えるのだろう。
小川はしばし道場で組み合う竹内から目が離せなかった。
この三ヵ月で知った竹内と言う人間はこんな男だった。
無口で不愛想で、人と群れない。いつも冷めた態度を取り、馴れ馴れしく来る奴を嫌う。気を許しているのは杉田と空手部のメンツだけ。
竹内に対してちゃんとした態度で接すれば、相手の目を見てキチンと受け答えし協力もする。誰も彼もを拒絶しているわけではなく、上っ面だけの付き合いを面倒と思い、避けているのだと知った。
そんな竹内だったが、入学当時席が前だった杉田とはなぜか打ち解けており、二人では会話も弾んでいるように見えた。
教室の中でスマホのゲームで対戦していたり、移動の時には二人で歩いているのも見た。
小川が話しかけても冷たい目を向けるのになぜ杉田はいいのか。
どんなにちょっかいをかけても小川を見てくれない。
最初のうちは小川が陽キャオーラ全開で馴れ馴れしくしていたせいもあり、完全無視されていたが、回を重ねるごとに迷惑そうな顔をするようになった。時にはむっつりと内心イラついているかのような顔を見せた。
いつの間にかムキになっていた小川は、休み時間の度に三組へ出向き竹内に声をかけた。
体育のある日は体操着を貸して欲しいとお願いしてみたり(断られる)、昼食を一緒に食べようと教室に行ってみたり(逃げられる)、机の中にお気に入りのスナック菓子を入れてみたり(杉田にあげていた)。
なぜ杉田はよくて、自分は駄目なのか。
一定の友人にしか心を開かない、男の奥底が知りたかった。
この男の心の中に入り込んだら何があるというのだろう。
最初から全てを拒絶された経験がなく、意地になっていたのかもしれない。
今まで友達は、作るものではなく自然となるものだと思っていた。気が合えば自然と距離は近くなり親友となる。
人との垣根が低い小川と仲良くなるのに時間を要するものではなく、努力などしなくても得られるものだった。
それが、竹内には通用しない。どうしてうまくいかないのだろうか。
そこまでして竹内と仲良くなりたかった自分を、小川はまだわかっていなかった。
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