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scene1-2
ある日小川は、四時間目の授業が終わると昼食を持ってダッシュで三組へ向かった。
「竹内!」
逃げられないよう、放たれたドアから竹内を確認するまでもなく大声で呼ぶ。
まだ教室に残ったままの生徒達が一斉に小川を見た。
それを気にも留めず、突然呼ばれ冷ややかな目を向ける竹内の元まで向かう。
ざわざわしていたはずの教室が静まり返り、一瞬シンと誰もが沈黙して小川の動向を見ていた。
「ちょい、つき合って」
「は?」
何事かと不穏な目をして竹内は小川を見上げたが、そのまま腕を掴んで引っ張った。
「おい小川、何の用だよ?」
「うっせえ、お前は誘ってねえよ」
杉田が心配気に寄って来たが、ピシャリと放ちシッシと邪険に振り払う。
正直邪魔されたくなかった。
明らかに嫌悪感丸出しの目をして動こうとしない竹内の腕を、更に強く引っ張って小川は即す。
「ほら、早くっ」
まるで喧嘩の呼び出し現場を彷彿させる雰囲気に周りの生徒が注目する中、竹内は嫌そうに立ち上がると小川に引っ張られるまま歩き出した。
初めて竹内が小川の行動に従っている、そう思うと内心嬉しくて、気が逸るまま教室のドアをぴしゃりと強く締めると、教室の中がどっと騒めきに溢れ返るのが聴こえた。
無理矢理連れ出したけれど、こうでもしないと竹内の心は動かない。
こんな自分に内心ウキウキしていた。
「これ。食おうぜ」
誰もいない美術室。竹内の目の前に差し出したのは長方形の箱の中にキッチリと詰まったドーナツ十個。
「は?」
連れて来られるまま何の用だと冷めた態度の竹内だったが、目の前のドーナツと小川を交互に見て短く声を上げた。
想像通りな反応に、ちょっとした悪戯心が満たされて小川は丸い目をくりくりさせた。
「だってこんなに食えねーもん、竹内も食ってよ」
「俺? 杉田にやれよ」
「お前と食いたいんだよ。ほら」
無理矢理箱を竹内に押し付ける。
「はあ? てか何で俺よ」
「いいじゃん」
「いらねーよ、戻る」
「待てよ! 竹内!」
食べてもらえない事に焦ってつい大声を上げると、竹内はサッと無表情になり口を閉ざす。
ああヤバイ、竹内の中にある最悪最低だった小川の印象が、地獄の底まで落ちて行く。自分のような奴は嫌ってんのにこれ以上嫌われたくない。
「わりい、待って。ごめん」
筋の張った腕を掴んで引き止め、自分よりも背の高い男に詫びると、嫌そうに背けていた目をぱしぱしと瞬き小川を見た。まるで珍しい物でも見るみたいに。
「あーえーと、ちょいダルくてさっき来たんだけど、来る途中知らんババアが自転車でぶつかってきてさ、お詫びにコレくれたんだよ」
「で?」
竹内は高圧的な態度で腕を組んだ。でも出て行く様子はなく小川はホッとする。
「たくさん入ってたからさドーナツ、お前と食いたいなと思って」
ハァーっと竹内は長い溜息を吐くと、首を左右に振った。
「俺と、ね」
諦めたように呟いた竹内は近くにあった教卓にひょいと座ると、長い脚を組んだ。
「お前今面倒クセェって思っただろ?」
「まあね」
「いいや、食ってよ。ババアがさ、これ食べてねーおほほほほってさ押し付けてきたの。見ろよ、ココ。めっちゃ腫れてんだぜ」
小川も教卓に飛び乗って腫れあがった脛を見せると、意外にも竹内はまじまじと患部を凝視した。
「コレ、痛てーヤツじゃん。冷やしなよ」
「冷やすモン持ってねーもん」
小川の言いに、竹内はもう一度大きく嘆息するとポケットから小さなハンドタオルを取り、教卓から降りる。
「え、マジ?」
小川が驚いていると、竹内は教室の後方にある流しでハンドタオルを濡らしてくる。
「俺も防具なしで蹴り入れられるとそうなる。熱持ってるから冷やしとけよ」
患部を圧迫するように濡らしたハンドタオルを押し付けられ、ひんやりとした感触が熱を持った脛に伝わる。
まるで心臓が跳ねあがったかのように高揚するのがわかった。
「急に優しくされるとギャップでときめくんだけど」
ぷっと急に竹内は破顔して笑った。突然の事に小川はその笑顔に釘付けになり、ポーッと見惚れてしまった。
「何か色々と面倒になった。小川、嫌がってもグイグイ来るし、避けても意味ねーんだなって」
「俺の粘り勝ち?」
「かもな」
さっきまで嫌そうに冷めていた表情が柔らかくなる。正面からは決して目を合わせてくれなかった瞳が、小川を見て笑っていた。
思わずハッと自分の目を疑ってしまうほど、欲しかったその笑顔が鮮やかに映って見えた。
冷たさの欠片もない爽やかさ。ついつられて小川も笑顔になる。
竹内との距離を詰めても除けられない。これはチャンスかもしれない。
「パンツの後ろ凄えタイヤの跡ついてたんだぜ? 普通クリーニング代とか出さねえ?」
「そうか?」
「当たり前だろー。あのババアしくったわー。俺ちょいドーナツに騙されたわ」
「まあいいじゃん、その程度ならさ」
「まあねー。よぼよぼのババアはさぁ、自転車乗んなよなー。邪魔くさくてたまらんわ」
「ははっ、小川がヨタヨタ歩いてたからなんじゃねーの」
まるで友達のように親しく、柔らかく会話してくれる。
何この笑顔。
整った無表情が笑うとマジですげぇイケメンじゃん。破壊力が半端ない。笑うと目尻にくしゃっとした皺が寄って口角が上がんのか。
新たな発見をして小川はしばし見とれていた。
「笑うとすげえイケメンが増すのに何でいつも無愛想なん?」
「ヘラヘラしてるとお前みてーなのばっか寄って来るから」
「なんで嫌なん?」
「うるさいし、無神経だから」
「あ、俺やん」
「だからそう言ってんだろ」
「あ、そっか」
堂々巡りに気づいて笑うと竹内もつられて苦笑した。
凄え、俺に笑うじゃん。しかも小川がしゃべる時はしっかり目を見てくれている。
なにこれ急に。
まるで積もっていた雪が溶けたみたいだ。
いつも話しかけるなオーラを発し、近寄ると嫌そうな顔をしていた竹内が。
小川の中で、竹内の心の扉が開く音が聞こえたような気がした。
こんなにも急に。
何が原因で開くかなんて神様だってわからない。
竹内と言う人間は一体どんな男なのだろう? この開いた心の中には何があるのだろう?
竹内に対する興味はさらに増す。
「ホラ食って」
ハイと箱ごともう一度竹内の前に差し出すと、
「いや、いい。俺、弁当あるし」
スイと後ろに身体を反らされた。
しっかりと距離を取られ、扉が開いた音はやっぱり気のせいだったのかと高揚感が下がりかけるが、小川はそれでも差し出した腕をひっこめる気はなかった。
「んなもん後で食えよ。こっちが先」
「いらねー、甘いの苦手だし」
「甘くねーのだってあんだろ、ホラ」
砂糖やチョコがコーティングされたものの他に、ソーセージやミートが挟まれたパイのものも入っている。
それをつまみ出し、竹内に無理矢理渡した。手に持たされたサクサクとしたパイを見つめて竹内がぽそりと言った。
「見ず知らずの人から貰ったもんなんか毒入ってそーじゃん……」
ぷっと今度は小川が噴き出す。
なんちゅう神経質な言い。ガサツに生きてきた小川にはない機能だ。
小川は箱からひと際甘そうなチョココーティングされ中にクリームが見えているドーナツを選ぶと、パクリと大口でかぶりついた。ほろ苦さを感じるチョコとふわふわの生地に生クリームの甘さがベストマッチでやっぱり美味しい。
「入ってねーみたいだぜ?」
だから食えと口をモグモグさせながら指で合図する。
あっという間に平らげて指に着いたチョコを舐めている小川を竹内はジッと見たまま、それでも食べようとはしない。小川はムキになって竹内の手にあるパイを取ると強引に口に押し付けた。
「ちょっ、ちょっ、待て、待てって!」
口元に押さえつけられたパイの皮がポロポロと落ちて行き、慌てて竹内はパイを掴む。呆れたのかハァと盛大にため息を吐いた。
「何でそうグイグイ来るかな………」
「竹内がさっさと食ってくんねえからだろ」
そう言うと竹内は観念したのか無言のまま一口二口とかぶりついた。
食べてる様を怪訝に見ている小川を、竹内もなぜか小川を見たままもぐもぐと口を動かす。
最後の一口をポイと口の中に放り込むと、ほんのちょっと眉根を寄せて味わうように口の中のものを飲み込んでから真面目な顔をして呟いた。
「……うまいな」
そう言ってまた箱の中を覗いて次のものを物色し始める。
「だろ?」
どれにしようか悩んだ指がシンプルなプレーンタイプの物を掴むとまたパクリ。昼を食べる前に連れ出したので空腹なのもあるのだろう。パクパクと苦手とは思えない食べっぷりだった。
「お前甘いのダメじゃねーんかよ?」
「和菓子とかの甘さがね。餡子とか。どっちかっていうと洋菓子のがいける。小川は?」
「俺? 甘いのめっちゃ好きだぜ? パフェとか大好きだもん」
「ガキくせ」
「うっせえ。じゃあ俺四個食うからあとは竹内な」
「六個? むちゃぶりすんな」
「だってこれ洋菓子じゃん、いけるっつったろ」
「マジかよ」
でも決して嫌そうではなく、ふわふわのドーナツを一つ取ってパクリと三個目を口に入れる。
黒板の前にある教卓の上に二人して腰かけて、次はどれ食べようかと箱の中を覗き込んで悩んでいるとコンコンと音がした。
ハッとしてドアを振り返る。擦りガラスの向こうに人影があった。
「ヤバくね?」
竹内が言うと同時にドアが開けられる。そこにいたのは小川のクラス担任の山口だった。
びっくりしたのは山口も同様だったらしく、「え?」と驚きの声を零すのと同時に手にしていた美術本らしき冊子類をバサバサと落とした。
アラフォーの女性教師は、どこか昭和レトロな趣味を醸し出しており服装は常に淡いピンク色を好んで着ていた。
小川はついピンクちゃんと生徒の間で呼ばれている愛称で山口を呼んでしまう為、その度にヒステリックに説教されていた。
そういえば、以前最近の趣味は油絵だと言っていたっけ。山口の担当教科は現代文だが、絵画教室に通い出した事をなぜかホームルームで喋り出し、生徒をうんざりさせた。
なんてタイミングの悪さ。
「あなた達どこに座ってるの、下りなさい!」
「さーせーん」
ヒステリックに発する山口に、小川は焦る事もなくのんびりと教卓から降りた。
「はいあげる」
三個ドーナツが残った箱を山口に手渡すと、え?! と反射的に受け取った山口の反応を見るまでもなく、そのまま美術室を出て行く。
竹内が律儀に失礼しますと頭を下げて小川に付いてくるのがわかった。廊下に出たところで小川が竹内を振り返った。
「走れ!」
小川の声に、二人で同時に駆け出す。バタバタと足音を響かせながら竹内がクスクスと笑っていた。
「怒られるかな? 小川んとこの担任だろ?」
「何で? 俺らなんも悪りぃ事してねーじゃん、ドーナツ食ってただけだし別にあそこで食っちゃいけねえって規則もないぜ?」
至極当前のように言うと、
「だよな」
走りながらもどこかホッとした声音だった。
どうせ体育教師でもないし追って来るわけなどないのだから、すぐに歩きに変えて教室まで肩を並べて歩く。
すでに昼食時間も終わった昼休みは、行き交う生徒達でざわざわとざわめいていた。
行きは無理矢理竹内の腕を引っ張って歩いたのに、帰りは天と地の差だ。
「あのババア俺ら見た時の顔、笑かすわー」
「担任までババア扱いかよ……」
呆れる竹内がポケットに手を突っ込んで、小川の歩に合わせる。
うん、たぶん。
もう竹内は小川に冷めた態度はしないだろう。
「ドーナツ…全部食えなかったな」
手ぶらの小川を見て残念そうにつぶやいた竹内に「やっぱり食いたかったんかい!」と漫才のように盛大に突っ込んでバシンと肩を叩く。
竹内の心が小川に全開になった瞬間だった。
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