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scene1-3
「小川、次体育だから着替え行くぞ」
新緑の眩しい四月。
小川は唐突に肩を揺さぶられて、机の上に伏せていた顔をのろのろと上げた。ざわめく教室内。男女の喧騒が一気に耳に吹き込まれて来る。
「なんでいつもそんな寝てんの? お前すげえ寝癖」
竹内が小川の右側に撫でつけられた髪を見てクスリと笑う。
寝起きでぼーっとする目を瞬かせて、目の前で微笑する竹内を見る。
相変わらずのイケメンだなあ。
サラサラな黒髪と、色の白さは清潔感があって男臭さの微塵も感じない。それでいて手足が長く高身長で、武道に長けて黒帯なんだからズルい。
自分は太陽の下で一年中ボールを蹴っているから日に焼けてるし髪もパサパサだ。朝練で校庭十周走ってから授業に出るのできっと身体も汗臭い。
「おーい、起きろ」
目を瞬かせる小川を面白がって、目の前で手を振られる。
小川とつるむようになった竹内は、以前のような冷たさが消え笑顔も頻繁に見せるようになった。
近寄りがたさも薄れたせいか、今まで声のかけられなかったクラスメイト達は、竹内が小川といると興味深気に会話に入って来るようになった。そうするとやはり竹内の顏は不愛想になって行き、口数は減るのだが。
「ねむ……」
「サッカー部全滅じゃん」
竹内が手にしていた小川の体操着の入った袋を机の上に押し付ける。
少しだけ開けた窓から心地の良い風がそよぎ、カーテンが大きく膨らんだ。四月の暖かな風が頬を撫で、また小川の眠りを誘う。
サッカー部は朝七時からの朝練の為に、六時半には登校するのだ。昼まで起きていられる部員はほぼ居ない。
ばふんと体操着の入った袋に顔を埋めた。
「あ、こら、寝るな」
髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる竹内の大きな手のひらに、これじゃあ寝てしまっても仕方ないと目を閉じる。
二年に進級し、小川は竹内と同じクラスになった。
杉田は一人だけ離れたクラスになり、今度は俺がお前らのクラスに入り浸ってやると宣言していた。
小川のめげないアタックに観念した竹内は、親友の一人として小川を受け入れ、どんな誘いも断る事はなくなった。
心を開いて見たら竹内の中は随分と寛容でおだやかな男だった。沸点が低く、怒る事も滅多にない。
また担任になってしまった山口をピンクちゃんと呼ぶ小川を咎め、子どもっぽい言動や行動を律してもくれる。
理不尽な事があっても自身の中で飲み込み消化できる。そのくせ、物の見方が捻くれており、人の優しさや気遣いを下心や裏があるのではと疑いをかけてみてしまう所があった。
中学時代、背が伸び空手の腕も上がると、その強さを利用しようとする奴らが寄って来るようになったそうだ。
チャラくて馴れ馴れしい、上辺だけの彼らに違和感しかなく、友人関係を築きたいとは到底思えなかったと言う。
そんな自己防衛から、武道を喧嘩と同等にみるタイプが寄って来ないよう、冷めた態度を取っていたようだ。
高校では空手部の奴らとだけ付き合っていればいい、そんな風に割り切っていたようだ。
杉田のいない今、竹内が気を許すのは空手部以外小川だけで、まるで生まれたての雛の刷り込みのように、竹内は小川に笑顔を見せている。
小川は毎日が満足だった。
竹内を手に入れた征服欲、小川の事が誰よりも優位で信頼の度合いは半端ではなかった。
竹内は諦めつつも、小川という存在を丸ごと受け入れてしまったのだ。
「体育遅れたら教官室呼ばれて正座させられるぜ?」
短い休み時間の間に着替えて運動場に出なければ、体育教師は授業には出させず教官室で授業の間正座をさせる。正直を言えば小川は一年の時にこれを数回経験している。もちろん真面目な竹内にはない事だ。
「遅れただけで正座とかあのジジイ絶対頭おかしいよな」
「おかしくねえよ、頭がおかしいのはお前だ。俺は時間守んねー奴大嫌いだからな、お前カウントダウン入ってんぞ」
「うっそ、ごめんなさい。急ぎます」
小川はシャキンと起き上がり袋をつかむ。机の上は出しっ放しのまま行こうとすると、竹内が教科書やノートを机の中にしまってくれる。いつもの光景だった。
小川が寝こけて体育の授業に遅れてしまっても、きっと竹内は一人では行かず小川を待つだろう。お前のせいだと責めつつも、しょうがないかと諦めて初めての正座を受けるのだ。
無口で無愛想、目すら合わせようともしなかった竹内が、今では別人のように小川の目を覗き込んで紡ぎだす言葉を聞いている。
まるでずっと前から友達だったみたいだ。そんな風に錯覚してしまえる程、竹内は小川と一緒にいてくれる。
「竹内君、日曜試合なんだって? コレ、私達からの差し入れ。受け取って」
そんなやり取りを見ていた数人の女子が、竹内を取り囲むと、ペーパーバッグを差し出す。
中にはカードや飲料ゼリー、栄養補助食品が入っているのが見えた。
スーッと竹内の目が冷めて行くのが隣にいる小川にも分かる。
「部長に渡してくれる? 小川行くぞ」
顔すら見ずに背を向け、教室から出て行ってしまう。そんな後姿さえカッコいいと思えてしまうのは何故なんだろう。
「えーん、また受け取ってもらえなかったー。小川お願い、竹内君に渡して、ね?」
「無理」
クラスの中でもひと際目立つグループの彼女達と小川は仲もいい。サッカー部の男子は全体的に陽キャでノリのいいタイプが多いせいもある。
「いいじゃん、今度小川にも差し入れ持ってくから、一生のお願い!」
「無理無理、俺竹内のが大事だし、嫌われたくねーしー」
わりいな、と手を挙げて竹内を追うと、背後で「けちー」と声が投げかけられてくる。
「うっせえ」と笑いながら教室を出ると、竹内はドアの横に寄り掛かって小川を待っていた。
「遅い」
むっつりと不機嫌な声。ふはっとつい笑ってしまう。
「こんな冷てえのに女子は心臓強えーよなあ」
「お前だってそうだっただろ」
ポケットに手を突っ込んだまま、体操着の入った袋を小脇に挟んで竹内は歩き出す。
「まあね。でもさ、最近女子から告白されまくってんだろ? みんな振ってるみてーだけど」
「俺はチャラチャラした騒がしい奴が嫌いなの、お前のせいでまた寄りつかれて迷惑してんだからな」
「えー、俺のせいかよ」
「そ」
竹内はなぜかチャラくてうるさいタイプに好かれるらしい。それは男も女も関係なく。しかも女子は総じて気が強く、竹内にグイグイ行く。
そう言えば自他共に認めるうるさい自分も竹内に興味を持ち、毎日嫌がられてもしつこく絡んで行ったのだ。
「竹内が付き合う女子ってどんな子なんだろうな」
大人しくて清楚で頭がいい、しっかりとした女の子なんだろうか。
「さあね。うるせーのは一発アウトだけど。そーゆうの小川だけで充分だから」
「え、マジ? めっちゃ優越感じゃん」
「調子のんな」
頭を掴まれてわしゃわしゃと髪を掻き混ぜられる。滅多に見られない楽し気な竹内の姿に、廊下にいる女子達が羨ましそうに見ていた。
自分だけ。
その言葉がおまじないのように小川の心にとけない魔法をかける。
肩がトンと触れる。
近寄ると距離を保って身体を引いていた頃が嘘のような距離感だった。
今では、肩や手が触れようが避けられる事もなく、歩を同じにして並んで歩く。
竹内が距離を取らないなら自分も取る必要はない。そんな事は不必要に思う。だから小川も身体が触れていても離さずに歩く。
──だから、どこかが麻痺してしまったのかもしれない。
光の眩しい初夏、小川は竹内に対してどこか違和感を覚え始めていた。
それは具体的にどうという事でもなく、何となくそう感じる程度だった。
「コレとコレだったらどっちがいいと思う?」
それは休み時間の事だった。小川はいつもの通り、授業が終わると竹内の席に行く。
「違いが分かんねーんだけど」
小川の見せたスマホの画像に、竹内は気のない返事だった。
「何言ってんだよ、こっちは裾にスリットが入ってて、こっちは入ってねーけど背中にタグがついてんの、全然違げーだろ」
どっちを買うか悩んでいる、ファッションサイトのお気に入りに入れていたTシャツを、いっそのこと竹内に決めてもらおうと思っていた。
スマホ画面を顔面にかざすが、ふと竹内の黒い瞳が動く。
──あ、また。
小川がしゃべっている時は小川の顔を見ている竹内だが、視線が急に飛ぶことがあった。
小川も最初は気になって「どした?」と聞く事もあったが、返って反対に「何が?」と返される。説明するようなことでもないようだった。
それからは飛ぶ度にあ、また。と思いつつもその先を追う事はしなかった。
「見た目は全然一緒じゃん。でもコレ、小川にはサイズでけーんじゃねえの?」
モデルが着ている白いTシャツは、ダボっとした流行りのオーバーサイズのものだ。
「Sでもでけーんかな。このモデル身長百八十センチでМ着てるって事はかなりでけえよな」
「お前百七十三だっけ? ほっせーしなあ、だからってXSは冒険だよな」
「やっべえ、デザインよりサイズでめっちゃ悩むじゃん」
何枚もの着用画像をスライドして悩む小川の正面で、竹内は頬杖をついて廊下を見ていた。
開けられたままの戸や窓から、教室を移動する生徒達が通り過ぎて行くのが見える。
小川は手を止めて、そんな竹内を見ていた。
違和感は日増しに現実を帯び、その度に小川は気のせいだと打ち消していた。
ひとりの女子が廊下を歩いて行くのが見えると、竹内は時が止まったかのように彼女を見ていた。
それは熱心に、見えなくなるまでずっと──
もう気のせいだと目を逸らすことはできなかった。
竹内の目はいつからか小川の向こう側を見るようになっていた。
竹内は恋をしていた。
小川の知らない女の子に。
何の接点もない竹内とその子に、いつ接触があったのか小川は知らない。
気づいた時にはすでに竹内の目は彼女を追っていたのだ。
告白されても断り続けていた竹内に、いつか彼女が出来る日が来るのだろうと漠然と思っていた。
それがどんな子なのか、何度も想像した。
竹内が見つめる女の子は、背が高く、目がぱっちりとして髪の長い弓道部の──村上千夏 と言った。
その姿を認めると、小川としゃべっていてもどこか上の空になり、終いにはぷつりと会話が途切れてしまう。
貼り付いたようにその姿を目で追っている。
姿が見えなくなるまで竹内の中に小川の存在はなくなり、心の中は彼女一色になるのだ。
そのたびに小川は喉が詰まったかのようなジリジリとした焦燥感を覚えた。
あの子のどこが竹内の心を惹いたのか。
長い黒髪を後ろできっちりとまとめた華奢な首筋。姿勢の良い立ち姿。
今どきの高校生らしい化粧はしていないのに、目鼻立ちがくっきりとしている素顔。長身の二人が並べば誰もが美男美女でお似合いだと言える──
惹かれている事に気づいていないのか、ただ目で追うだけの竹内に、村上は気づいているのだろうか。
言葉を忘れた竹内を小川はじっと見つめる。
けれどその視線に竹内は気づかない。竹内の心は、今、ここにはないのだ。
胸の中に広がる焦燥感がじわりじわりと面積を増して行く。
なぜこんなにも小川の心がざわつくのか。なぜこんなにも、心が焦るのか。
親友が離れて行く、竹内の心が小川から離れて行く、そんなどうしようもない不安が小川の心臓をギュッと締め上げる。
小川がどれだけ毎日苦労して竹内の隣を得たのか、ただ目で追われているだけの彼女は知らない。
「直接店に行く?」
「へ?」
いつの間にか戻っていた竹内の瞳が小川を覗き込んでいた。
「店、新宿にあるって書いてあるじゃん。買うんなら試着して決めればいいんじゃね?」
「マジ? 付き合ってくれんの?」
「いいよ、近えし」
新宿は二人とも乗り換えて使う駅だ。思わぬ竹内の提案に、胸に広がっていたモヤモヤが、一気に吹っ飛ぶ。
「やった、いっそお揃いでお前も買っちゃう? こっちの黒いの竹内に似合いそーじゃん」
色違いのTシャツ画像を見せると、竹内は満更でもなさそうにスマホを見る。
「買ってくれんの? 金持ちじゃん」
「誰が買ってやるかよ、それは自分で買って下さい」
「ま、俺は悩まなくてもLサイズで決まりだけどな」
「偉そうでムカつくなあ」
ドヤり顔の竹内にぷっと吹き出すが、安心している自分がいた。
まだ大丈夫。
竹内の中で小川の優先順位はまだまだ一番だ。
夏休みに入り、姿を見なくなれば竹内の意識も奪われず、きっと気持ちも薄れる。
恋をする竹内をどうしても認められなかった。
女ってだけで、あっさりと心を持って行こうとする村上の存在が邪魔でしかない。
竹内を独占できるのは自分だけだ。
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