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 八月下旬の日曜日。  竹内の試合が都の総合体育館で行われた。  眩しい太陽は相変わらず空の上からジリジリと熱波を発していた。  まだ午前中だというのにこれからの灼熱を予想だにしない茹る暑さの中、小川は電車に乗って会場まで来た。  サッカー部はインターハイこそ逃したものの有終の美を飾り、厳しくも憎たらしくもあった三年生達は引退した。  天下となった小川達二年生は、自分たちこそ全国へ行くのだとチームみんなで団結し意思を固めた。  次は竹内の番だ。  総合体育館の中は空調がきいており、汗で濡れたTシャツがべたりと貼り付いて気持ちが悪かった。  自校にあてがわれている応援席スタンドには選手の家族の姿が多く、小川のように生徒が一人プラリと応援に来ている姿は珍しい。  知り合いもおらず、自校の応援席に座って辺りを見回す。もしかしたらあの中に竹内の家族がいるかもしれない。  事前に聞いていた階級の試合時間に合わせて来たので、選手はすでにスタンバイしているようだった。  目に焼き付いた姿を探すと、会場の隅でウォーミングアップしている竹内を見つけた。  道着の凛々しい姿。色が白く黒髪の竹内に、白い道着と黒い帯はいやにストイックで似合うと思った。  いつだったかユニフォーム姿の小川を見て竹内は、ニヤニヤと悪戯な目をして「カッコイイじゃん」と一言言った。  小川もお返しに「お前の道着姿のがカッコイイぜ?」とマジになってみると、竹内も「いやお前のがカッコイイよ」と褒めの応酬になり、妙に照れてしまった。  小川は心の底から竹内の道着姿をカッコイイと思っているが、本人には伝わっていない。有段者、黒帯。見かけだけでなく秀でた強さ。  竹内は芯が強くてカッコイイ。  その姿だけを目で追っていると、竹内が観覧席を見上げて誰かを探した。 「竹内!」  小川はさっと手を挙げて声を上げる。 「小川! マジで来たんだ、サンキュー」  観覧席の真下に来ると竹内はそう声を上げた。 「当たりめーだろ、頑張れよ!」  そう叫ぶと、あまり感情を表さない竹内が照れくさそうに破顔し笑みを見せた。 「絶対勝つ」  緊張しているはずなのに、自分を見て笑顔になった。それだけで小川の心が満ち足りる。  竹内も、小川が応援に来ている事で、力をいつも以上に発揮できればいい。あの時の自分がそうだったように。応援する小川の肩にも力が籠る。  試合開始のブザーが鳴り、選手が出てくる。勝ち抜き戦。竹内は初段、黒帯だ。  試合が始まると、竹内は順調に勝ち進んだ。  が、思わぬ伏兵に準決勝で敗れた。勝てば決勝だった。  三位決定戦となり、小川は観覧席から体を乗り出して息を飲み、試合を見守った。  見事な上段が入り一本。審判の旗が上がる。 「やった、勝った!」  小川は片手を振り上げガッツポーズし、立ち上がって勝利を掴んだ竹内に大きな拍手を送る。  一礼をして下がる竹内が観覧席を見上げた、その瞬間だった。  スッと竹内の表情が止まった。  吸い込まれて行くかのように、小川を通り越えその向こうに竹内の視線は固まる。  小川の心臓がドクリと脈打つ。  嫌な予感がした。見た事のある、この瞳。  はじかれたように振り返ると、観覧席の一番上には小川をあれほど焦燥させた──長い髪をトップでまとめ上げて、小花柄のノースリーブのワンピースを着た女の子──村上千夏の姿があった。 「嘘……」  竹内と村上の視線は、真っ直ぐ互いの引力のように合わされて結び合う。  小川が村上を睨んでいる事すら二人は気づかない。  今、この場所に、小川の存在は皆無に等しかった。  あんなに楽しかった夏休みが、今、この一瞬だけで全てが崩れた。空調で冷えた汗と皮膚がパリパリに乾いて落ちていく。  竹内の中の一番は確かに小川だった。  この夏休みの間に竹内の心を取り戻したと思っていた。竹内の中から村上の存在は消えたと思っていた。  しばし驚きから目を見開き、立ち尽くしていた竹内だったが、ふっと瞳を伏せて照れたように微笑した。  汗で結束した髪がぱらりと揺れる、どこか惹かれ見逃したくないワンシーンだった。  恋をした美しい横顔だと思った。  捌けて行く部員にからかい交じりに背を突かれ、照れ臭さをその顔から隠して部員の手を押し返す。首筋を紅く染め、緩む口元。  小川は眩暈がしそうだった。  嫉妬で気が触れてしまいそうだった。大声を上げて俺はここだと叫び、竹内の視線を自分に固定してしまいたかった。 「なんて顏、してんだよ……」  小川はぐっと拳を作り、耐えた。  竹内のそんな顔を見たくなかった。  一本を取り竹内と叫んだ時までは、竹内の中には確かに小川がいたはずだったのに──  気づいた時小川は、足を引きずり総合体育館を後にしていた。  まだ太陽は頭の上で強い熱波を放出していた。小川の意思もなく汗は額を伝い滑り落ちて行く。  あの後二人がどうなったのかはわからない。  見ていられるはずもなく、竹内に一言も伝える事もなく体育館を出てきた。  惨めだった。  今自分は世界一惨めな男でしかない。  友達に恋するなんて、同性同士、どだい無理に決まっていた。 「馬鹿じゃん、俺」  勝手に好きになって勝手に失恋して。  報われる事なんてないのに。  男であり友達である小川は、竹内の中で一番には一生なれない。ましてや恋した男になど。  なぜ、どうして竹内を好きになってしまったんだろう。  こんな行く先がわかっていたのなら、ずっと蓋をしたままこの胸の奥にしまい込んでおいたのに、なぜ噴出させてしまったのだろう。 「あー……めっちゃ、痛てえ……」  どうして竹内は男で、自分も男なのだろう。  ──惹かれあう男女に咎めるものなどないのに。  離れようと思った。  竹内が好きだ。  でも女に勝つ事はできない。  男である自分は友達以上にはなれないのだ。  好きという気持ちのまま、友達として恋した竹内を見続けて行く事ほど惨めな事は無い。  竹内の恋愛感情が小川に向くことなど一生ないのだから。  何て惨めなんだろう。  このまま友達でいられる自信はなかった。  一緒にいたらきっと竹内を傷つける事を言ってしまう、醜い嫉妬心を露わにして、村上を憎み続けてしまう。  だったら竹内にこの想いを告げて離れてしまおう。  意味もなく離れることは出来ない。  決定的な理由をつけて嫌われてしまえば、竹内だって小川が離れて行く事に納得するだろう。  嫌われた方がいい、親友関係などもう無理だ。  彼女と幸せそうにする竹内と一緒にいるなんて考えられない。  想像しただけで気が狂いそうだった。  徹底的に嫌われてしまおう、そうして自分は破滅するのだ。  気持ち悪いだろう? 自分に恋愛感情を持っている友達がいるんだぜ? 決して恋愛対象にはならない同性が。  全てを夏休みで封印し、新学期から竹内とは友達でもなんでもない、単なるクラスメイトになろう、小川が竹内にちょっかいをかける前に戻るのだ。  理不尽だけどもうそれでいい。  自分勝手だと嫌ってくれ。 「うっ……」  乾いたアスファルトにポタリポタリと水滴が落ちた。  ジリジリと焼かれた道路に水分はすぐに蒸発して跡形もなく消えた。 「うっ、ぅっ──……」  涙はボロボロと小川の頬を滑り、次から次へと落ちて行った。  どうせすぐ乾いて消えてしまうのなら。  証拠が残らないのなら徹底的に流してしまえばいい。  涙と一緒に竹内への気持ちも消えてしまえばいい。 「クソっ……なん、でっ……こんなっ……苦しいんっ……」  胸を掴み、アスファルトの上にしゃがみ込んだ。  喉を引き絞り、嗚咽をかみ殺して、声もなく泣いた。  青く広がる空には、白く盛り上がり躍動に満ちた積雲が見えていた。  総合体育館からメッセージも送らず突然いなくなった小川に、その夜竹内は電話をして来た。  これが最後だと思った。  竹内とする最後の電話。 『何で黙って勝手に帰ってんだよ、酷くね?』  竹内は低い声で小川を責めたが、 「お前より大切な用事が入ったんだよ、わりいな」  抑揚もなく言うと、竹内はムッツリと押し黙った。 『表彰式まで見てけよ』 「急いでたんだよ」  小さく拗ねたように呟く竹内は、いつもと何ら変わらなかった。そんな些細な竹内の友情が、小川の心を暗く落とし込む。  あの女さえ現れなければ、表彰式まで見て今頃祝杯していただろう。  一つの夏の思い出を分かち合っていたはずだった。  なのに全てが台無しになった。  全てが終わってしまった。  竹内は勝った瞬間あの女を見つけたのだ、観覧席の一番前にいる小川を一度も見る事もなく。  友達よりも自分達はもっと特別なものだと思っていた。  でもそれは自分の叶わない恋心から来ている自惚れだった。  堪えていた小川の心の箍が外れそうになり、ギュッと唇を噛んだ。  これが失恋なのか──心が壊れてしまいそうで、ボロボロになりそうで、できるものなら消えてしまいたい。  もう誰も好きになんてなれそうにない。違う人を好きになれる日がくるのか自信すらない。 『小川、夏休みの最終日、部活ねーんなら遊びに行かね? 総体が終わったら、映画観に行こうって言ってたろ』 「ああ約束してたよな。いいよ、行こう」  そんな約束すら頭から消えていた。  いつものように誘う竹内に胸の痛みが限界値に達し、最後だと自分に言い聞かせて小川は意識して明るく答えた。 『宿題終わってるよな?』 「今から寝ずにやれば終わるって」 『ちゃんとやれよ?』 「わーったって」  電話で良かった。涙が零れているのを知られなくて本当に良かった。  約束の日はいつも通りの二人だった。そう小川は努めたからだ。  竹内が村上とつき合い始めたのか、告白をしたのか、されたのか、小川から聞く事はしなかった。  竹内も話はしなかった。  映画の後にブラリと立ち寄った人工の浜辺は風が強く、竹内の着ている黒いTシャツの裾をはためかせていた。  二人で買いに行ったTシャツは、小川が白で竹内は黒を買った。  あれから見られずクローゼットの奥深くに封印したのに、まさか竹内が着てくるとは思わなかった。  自分以上に似合っている姿を見るだけで、心臓が締め付けられたように痛くて直視出来ない。  ファミリーで来ている子どもたちが、楽しそうに波打ち際で遊んでいる。一緒になってはしゃぎ素足で走るその家族。寄り添いたたずむ恋人たち。幸せな夏休み。幸せだった夏休み。  竹内は両手を目の上にかざし、眩しそうに地平線を眺めていた。  その鍛えられた筋の通った背中を目に焼き付けるように小川は見ていた。  ずっと好きだった。  竹内の存在全てが欲しくなるほど、お前の事がとても好きだった。  今日で夏休みは終わり、明日から二学期がスタートする。  大切だった友達。  理不尽に逃げる自分を嫌って欲しい。  こんな想いを持ったまま卒業まで過ごすのは耐えられそうもないから、小川にとってそれは地獄でしかないから。  口を聞くのを止めて、目すら合わせることもなくなれば、きっと竹内を忘れられる。  あの感情は一時の気の迷いだったんだと、大人になって笑う時がきっと来る。 「じゃ、俺先帰るわ」  小川からの告白を聞いて、戸惑い悩む竹内はどう接していいのかわからない風だった。  だから小川はそのまま立ち去る事にした。 「ちょっ、待てよ、おい、小川!」 「なに?」  光線でキラキラと光る砂の粒を踏み込んで、竹内は背を向ける小川の肩をグイと掴んで引き止めた。  答えはいらなかった。  答えなど望んではいなかった。  すでに結末は見えているのだから。  友達になどもう二度とは戻れない。  信頼関係など、いともあっさり壊すことが出来るのだ。 「なに、ってお前、説明しろよッ」 「さっき言っただろ、俺はお前の事を恋愛感情で好きだったって」 「恋愛感情って、お前……」 「わかってるわ、なにもお前に強要したりしねえよ、お前に吐き出してスッキリしたし」 「そんな突然言われても、どうしたらいいか……お前は友達だから」 「だからいいって言ってんだろ、バーカ」  無理やり笑って竹内の二の腕をパンチした。  動じずにそんな小川を見る竹内の瞳の色は、戸惑いと困惑で今まで見た事のないものだった。  いつも小川と気軽に呼んでいた親友はそこにはおらず、一歩距離を取った以前の竹内の姿だった。  今更こんなのを見て傷つくなんて。  まだ傷ける感情があったなんて。  気まずさがバレないように必死に繕うその姿を見て、もう限界だった。  もう笑う事なんてできない。  もうどうでもいい、どうでもよくなってしまった。 「バイバイ」  心の中で竹内に手を振って背を向けた。  バイバイ、竹内。  竹内の中で小川は友達なのだ。  友達以上にはなれない。  もう嫌って欲しい。嫌ってくれて構わない。もう二度と声を掛けたりしないから。  好きだよ、竹内。  焼けた砂がザクザクと小川のスニーカーの跡を刻む。  好きだったよ──竹内。  追ってくる気配はなかった。波の音がだんだんと遠ざかる。  踏み込む砂の中へこのまま沈み込んで行けたらどんなによかったか。  今小川の全身を満たしているのは惨めな思いだけ。  わかっている。わかっていたけれどどうしようもないこの虚無感。  いつか忘れられるだろうか。  忘れる日が来てくれるだろうか。  潮の香りに包まれて、一瞬だけ、竹内の声が聞こえた気がした。  小川は両手で耳を塞ぐ。  ──竹内。  お前の事が本当に好きだったんだ。

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