7 / 21

scene2-2

 始業式とホームルームだけの授業が終わり、みんなそわそわと帰り支度を始めた。  新学期初日は全校生徒部活動なしの貴重な日だ。  竹内が帰ろうと席を立った時にはもう小川の姿は教室にはなく、席だけがポツンと残っていた。  以前ならば真っ先に小川に呼ばれ、寄り道の算段なんかをしたものだが、今ではそんな事もない。  小川は教室にいることを嫌い、毎朝ギリギリに教室に入り、授業中は振り返ることもなく、休み時間には違う教室へ遊びに行ってしまう。帰りも終わると真っ先に教室を出て部活へ行ってしまう。  竹内と同じ教室内で同じ空気を吸う事を嫌っているようだった。  小川の居場所を奪ってしまったかのようで、竹内は苦い気分を何度も味わった。今では慣れた光景となってしまったが、それがまた一年間続くのだ。小川に居場所がない状態を続行させてしまうのかと思うとまた竹内の心に罪悪感が滲む。  空っぽになった小川の机を見れば見るほど埋めようのない喪失感に襲われ、何度もあの日の事を思い出している。  本当ならば、また同じクラスになれたことを喜ぶべきなのに、今はもう小川が何を考えているのかすらわからない、遠い存在になってしまった。 「竹内君、この後時間もらえない?」  疎らに戸から出て行くクラスメイトの後ろについて教室から出ようとすると、五人組の女子に取り囲まれた。 「ごめん、用事ある」  それだけ言って速足で行こうとすると制服の裾を掴まれ憚かれた。 「待って、この前村上と歩いてるのを見たって子がいるんだけど、本当? 教えて」  気の強そうな一人が人目も気にせず詰め寄るせいで、他の四人の女子の目が竹内の答えを期待して真っ直ぐ突き刺してくる。 「え、ちょ、なに」 「ねえどうなの、教えて!」  なおも詰め寄る女子に、他の子達もうんうんと同様に頷いていて、女子の集団パワーに苦い思い出が胸に湧き上がる。  聴き耳を立てていたクラスの女子達が「誰よ、抜け駆けした女」「村上って誰?」「彼女だったらショックなんだけど」と、口々に騒めく。  どう答えるのがこの場を最短で逃れられるか、逡巡しているとその声は竹内の耳にするりと入ってきた。 「小川が腑抜けになったせいで、使えない奴」 「は?」  聞き捨てならない声に、咄嗟竹内は振り返る。冷たい怒気を孕んだ声に、シンとクラスは静まり返った。 「コラコラ、女子こえーよ、竹内がビビってんじゃん」  振り返ったその顔を隠すように杉田が竹内の肩に腕を回し、頭をぐいと引き寄せた。 「マジんなんな」  顔を寄せた杉田が竹内に小声で咎める。 「───」  出掛かった言葉を飲み込み何とか顔を取り繕う。  自分は小川を貶した声を突き止めてどうしようと言うのだ。 「俺に惚れるなよ?」  ニヤついた杉田が女子に見せつけてわざと大きな声で言うので、竹内も乗るしかなかった。 「……惚れた」 「やべ、竹内今度は俺のンなったわ。女子達ごめんねー」  行こうぜ、と杉田に肩を組まれたまま誘導され教室を出ると、 「ええええ」  教室から溢れ出てきた女子の声に、杉田がケラケラ笑う。 「気持ちいー、ゴール決めた時よりきもちーわー」 「わりぃ……助かった」 「ウチのガッコの女子はつえーのばっかなんだからさ、睨むなって。モテ男クンなんだからさー」 「マジ勘弁……しんど……」  スポーツ推進校だけあって、女子も負けず嫌いの逞しい子が多い。  部活では女子部の活躍は男子同等で、生徒会長も女子、イベントの実行委員長も女子、応援団も女子が学ランを着てリーダーをやっている程だ。決して男子が弱いわけではないが、部活に没頭する男子に比べ女子の方が何事も器用にこなせるせいもある。  竹内は小学生の頃からなぜか気の強めな女子に好かれる。  班を組む時はいつも竹内の取り合いで女子は喧嘩をし、先生が宥めるのがクラスの風物詩だった。誰が隣をキープするかで常に揉め、誰が好きなのか女子に囲まれて詰問されることもしょっちゅうで、とにかく皆竹内の周りでギャーギャー騒ぎパワフルだった。  中学に上がり、身長もぐいぐい伸び始め、空手部で頭角を表すと、竹内を強くて頼れる彼氏自慢したい派手な女子達が取り囲むようになった。また彼女達もパワフルで、付き合わないと意思表示してもめげずアタックしてきた。  彼女にするならおっとりとした品のある子がいい──こんな風に自分を取り囲んで来たりしない。  押し付けられる気持ちが重く、彼女達の言葉は心を振り回す。一人一人に向き合っていると、自分を消耗する。  いつからかグイグイ来られると、気持ちはどんどん冷めて行き、虚無感を覚えるようになった。自分に寄って来る人に心を開きたくない。  だから高校では同じ志を持つ空手部の連中とだけ付き合っていればいいと思っていた。  ──それなのに。 「んじゃな、俺も急いでっから!」 「おう」  久々の部活オフに嬉々として、杉田は手を振って大股に階段を下りて行く。サッカー部はこの学校の中で一二を争う厳しい部で、平日は練習、土日はほぼどこかと練習試合をしている。  竹内はこの高校の空手部の師範に中学時代からラブコールされ続け、入学を決めた。この空手部なら全国に行けるからだ。  自分を振り回すうるさい奴らは嫌いだ、今は空手に没頭していたい──けれど一人くらい空手部以外の友達がいた方が何かと便利──そんな打算的な理由で杉田とは仲良くなった。  入学式の後入った教室で、初めて声を掛けて来た前の席の杉田と、格闘技の話題で盛り上がったのもあるが、別に誰でもよかった。単純にクラスで孤立しなければいい程度でしかなかった。  案の定新学期早々、気の強めな子にガツガツ来られ、派手で目立つグループの男女に馴れ馴れしく誘われるようになり、前の席の杉田はいい門番になってくれた。  話し掛けるなオーラを放ち、冷めた態度を取っているうちにそれらは竹内と距離を取るようになってくれた。  けれど、そんな竹内を無視してぶち破って来る奴がいるとは思わなかった──  制服のポケットに入れていた携帯が振動し竹内はそっと確認する。速足で校門を出て待ち合わせている駅へと向かった。  彼女――村上千夏の姿を改札前で見つけ、竹内は歩を速めた。 「遅いー、竹内君、忘れてるのかと思った」 「わり、担任の話が長くて俺んとこのクラス終わんの他よりおっせーんだよ」 「何となくそんな気はしてたけど」  拗ねたような素振りをしつつも笑顔を向ける。  村上とつき合い始めて半年経った。  特進クラスの村上とはコースが違う為、校舎も離れており、学校内でしゃべったり会ったりする事はほとんどない。  そのせいか、つき合っている事を知っている人は殆どいない。こうやってお互い都合のいい時に待ち合わせして、違う街でデートするのが常だった。  村上は竹内に告白して来る女子達とは違い、大人びた眼差しを持つ、何処か肝の座ったタイプだと思った。  長い髪は染めているわけでもなく自然な黒色で、きゅっと後ろでまとめていた。制服にはいつも張りがあって、存在自体に品があった。  きりっとした涼しげな目元に、スラリとした姿勢の立ち姿は、女子の中では背が高い方だ。おっとりしているのかと思えばそうでもなく、竹内よりかは行動的だった。  高二になったある日、空手部の道場から見える弓道場の射場から、弓を射る村上を見たのが最初だった。姿勢正しく、大きな弓を力強く引く姿に目が吸い寄せられ、いつからかふとした瞬間に射場を見るようになっていた。  白い弓道着姿の村上が弓を引く時の緊張感は道場にいる竹内にまで伝わり、射た矢が的に刺さるその音に快走感を感じるようになっていた。  竹内が見ている事に気づかれてしまったのか、二年になってからなぜかお互いに目が合うようになった。  不思議なくらい、学校のどこにいても、姿があると引きつけられるように目が合った。それから段々と意識するようになり、気づいた時にはお互い気まずさがあった。微かな恋心が芽生えていたから目が合うと気まずいのだと、竹内自身わかっていなかったのだ。  夏の試合後、小川を探していた時他の部員に後押しされ、村上がいる二階席に行きラインの交換をした。  多分村上が行動に出さなければこのつき合いは始まる事などなかっただろう。部活で毎日がハードな上勉強もしなければならなかったし、小川と遊んでいるのも楽しかったせいもあった。  夏休み最後の日に、村上との事を小川に相談するつもりだった。  付き合うべきか、断るべきか。  いつもならすぐ断るのに、そう思い悩む時点で、自分が村上に惹かれている事をやっと自覚出来ていた。  親友の小川に背中を押してもらいたかった。村上と付き合っても、親友である小川との距離は変わらないのだと。  考えてみれば、お互いに彼女が欲しいだとか女の子と遊びたいという会話をした事がなかった。  今思えば不自然なのかもしれないが、二人でいればファミレスのドリンクバーだけで何時間も居座っていても会話は尽きなかったし、駅のホームで喋っているだけでも楽しかった。  竹内がいつ言おうかタイミングをみていた時、竹内の事が好きなのだと小川は言った。好きだったのだと、友達としてではない、完全なる恋愛感情を、自分に小川は持っていたのだと。  竹内が村上に抱いているものと同じ感情を小川は自分に持っていた?  竹内は何度も混乱した。小川の事は大好きだ。けれど自分たちは同性だ。この好きと言う感情は村上に向けるものとは違う。恋愛感情が成り立つのは、竹内の常識では男と女の間だけだ。だから友達としてなら大声で何度だって好きだと言える。だけど小川と村上は違う。違うのだ。  くだらない話をして笑って呆れて怒って共有して、そんな毎日を思い出す度に混乱する。恋愛感情。なんて不可解で難解なのだろう。  二人でいる事が当たり前に思える程、小川は竹内にとって大切な親友だった。あの日までの二人は強い友情で結ばれた親友だと思っていた。  なのに、あんな小川を竹内は知らない。悲しげに俯き、見た事のない顔で告白した小川を知らない――  混乱に混乱を重ね、気づいた時にはもう小川は他人同然の存在になっていた。  話しかける事もできず、行動を共にすることもできない。電話やラインも全てブロックされていた。  高校に入ってから深い付き合いをする友人を作らなかった竹内に、小川の存在は大きすぎた。  あんなにも密接していたものが突然失われた竹内の心の穴は思った以上に大きく、村上と付き合っても埋める事は出来ない。  わからなかった。  浜辺で一人残されたあの時、全てを振り捨てて歩いて行く小川の背中を、呆然と見ているしかできなかった。  引き止めたとしても、あの背中は完全に竹内を拒絶していた。  あの時に全てが終わってしまったのだ。  小川は竹内に何も望んではいなかった。  ただ好きだったのだと気丈に声を絞り出して言った。  告白のようで告白ではない、まるで報告のように言ってスッキリしたのだと、作った顔をして笑った。  あれは竹内と縁を切る為に言ったのだろうか。小川は竹内と一緒にいる事を止めたかったから、そう理由をつけたのだろうか。  小川の中であの夏休み最後の日が、竹内との終わりの日だと最初から決まっていたのなら――自分は何か重大な失敗をしてしまったのだろうか。  今となっては、好かれていたのか嫌われていたのかそれすら知る事もできない。  唯一無二だった親友を失くした喪失感はとても大きく、一緒にいられなくなって初めて小川の存在感を知る。  小川以上の親友など今更出来るはずがない、小川以外はみんな同じ──そうしてまた竹内は、小川と知り合う前に戻ってクラスの中で杉田以外遮断し冷めた態度を取る。  小川のいなくなった狭い集団世界の中で、竹内はぼんやりと学校生活を送っている。  華奢な背中を見る度に思うのは、あの日のように小川と元に戻りたい、そればかりだった。

ともだちにシェアしよう!