8 / 17

scene2-3

 街に出てケーキが食べたいと言う村上の希望でカフェに入り、窓側の席に着いた。  街頭は所々に桜の木が植えられていて、風が吹く度にはらはらとピンク色の吹雪が舞った。 「あ、付いてる」  いつの間にか竹内の髪に絡んでいた一枚の花びらを、村上は楽しそうに笑って指で摘まんだ。薄ピンク色のそれを壊さないように、水を張るガラスのコップの中へそっと落とし、村上は悪戯な顔をした。 「サンキュ。どうすんの、それ飲むの?」 「飲まない、見てる。可愛いから」 「なんだそれ」  まだがくから離れたばかりだったのだろう花びらは、傷一つなく綺麗で、村上が優しく取ったのがうかがえた。花びらは水面でゆらゆらと揺れ、二人はしばし見つめていた。 「空手部はいつから部活開始?」 「明日から普通にある」 「そっか、うちも。新入生の部活体験が始まるから、当分私はそっちの指導に付きっきりだよ」  弓道は高校から始める子も多く、部長の村上は自分の練習よりもそっちにしばらく比重を取られるらしい。ほぼ経験者しか入らない竹内の部とは違うようだった。 「そう言えば誰かに村上と歩いてるとこ見られたらしくて女子に今日詰め寄られたわ」 「あー、だからか。始業式の時、知らない女子がなーんか私に対してヒソヒソしてたんだよ。で、何て答えたの?」 「みんな見てたから答えなかった。杉田が気ィ回してくれてうやむやになったけど」 「そっか、そーなんだ。何で竹内君の周りの女子ってあんな怖いんだろ、バレたら私吊し上げの刑かなあ」  運ばれてきたベリーのタルトをパクリと食べ、村上はそう言いつつもどこか楽しげだった。  付き合いを秘密にしたいと言ったのは村上からだった。女子の告白を断りまくる竹内との付き合いをオープンにするのはまだ時期じゃない、それが村上の持論だった。  村上も特進クラスで進学も期待され、弓道部の部長として責任もある、そんな強さがあって竹内も村上の姿勢を尊重している。  竹内との付き合いがオープンになる事で受けるであろうアレコレで、精神的に振り回されたくないのだ。それは、一方的な好意で多感な時期に振り回されてきた過去を持つ竹内にはよく理解できた。だから村上の付き合いを伏せたい思いを汲み取った。 「はは、怖すぎ。大丈夫なの? そのうち村上に突撃して来るかもよ」 「その時はその時よ、毅然として立ち向かうから」 「俺は隠さなくたって別にいいんだし、いざとなったらばしっと言うよ」 「いいって、余計に面倒な事になりそうだし、竹内君に迷惑かけたくないから」  涼し気な目元をキリリと向けられて、竹内は目の前に置かれたレモネードを無意味にストローでかき回す。  告白して付き合って欲しいと言ったのは自分からだから、と村上は頑なだ。  告白にどちらが先かで優劣をつけるのは違う、恋人ならば頼って欲しいと思う。  竹内に好意を寄せる女子達は強いと言うけれど、村上だって充分強い。竹内の守りなどいらないと暗に言っているのと同じだ。  村上を好きだと思う感情は、付き合いが始まってから大きく意識するようになった。  優しくしてあげたい、喜ばせてあげたい、守ってやりたい。でもそれを村上は望まない。竹内と付き合えていることこそが喜びだからと言う。  ならば小川は竹内にどんな感情を持っていたのだろうか。  小川と一緒にいたい、しゃべって笑い合いたい、全てを共有していたい。小川に対して竹内は今だってそう思っている。それとどこが違うのだろう。  村上を想うたびに相対するように沸き起こる疑問は堂々巡りだ。  答えの出ない問題を竹内はあれからずっと抱えている。  できるものなら毎日一緒にいたあの夏休みに戻りたい。  一年の時、突然小川が竹内の教室に現れた。それから何度無視しても毎日毎日小川は竹内の所にやってきて、持ち前の馴れ馴れしさでズケズケと竹内の心に入り込み、受け入れざるを得なかった。  二年になって同じクラスになった時には、二人でハイタッチした。  高校を卒業しても、社会人になっても、年寄りになっても、あの日々が永遠に続くのだと思っていた。永遠に小川と友達でいるのだと思っていた。  この感情は、村上に向けるものとどう違うんだろう。 「あれ、友達じゃない?」 「ん? 誰?」  ふと村上がガラス越し、遠くを歩いている同じ制服を見つけ合図した。  ネクタイを外し、リュックを背負った制服姿。遠目からでもわかる、いつだって竹内の目が追っている小さい頭、バランスの良い痩身な身体。  小川、と喉まで出かかった言葉を噛み殺す。  なぜ言えないんだろう、親友でなくなってしまっても声に出して言ったっていいのに。  誰か後輩なのだろうか、同じ制服だが竹内の知らない体格のいい男と小川は楽しそうに歩いていた。  小川の友達すらもう竹内には把握できない、そんな隔たりが胸の奥をじくじくと蝕んで行く。  ほんの二十メートル先離れた場所からでも、楽しそうな小川の笑顔に懐かしさすら覚え、それはもう自分には向けられない手の届かない物なんだと食い入るように見つめる。 「私隠れた方がいいかな」  村上の声が耳に入らないほど全神経を小川に向けていた。  笑うと少し垂れる目じり、ぽってりとした唇、シャープな顎のライン、健康的に焼けた肌。  なぜ自分はもう小川とはああやって歩けないのだろう。  どうしたらあの知らない誰かのように、小川と笑いながら歩けるのだろう。  ──あの時なんて答えたらよかったんだろう。 「あ、気づいたみたい」  無意識に向けてしまったのだろう、いつもの小川だったら絶対にあり得ない。  ふいに向けてしまった先に竹内と村上が座っているのに小川が気づく。  人懐っこい笑顔が一瞬で固まった。  最後に小川と視線を合わせたのが夏休み最後の日。あれから一度も合う事のなかった瞳。  本当に久しぶりに合った小川の瞳は、竹内と認識すると直ぐに暗く影を落とした。  笑顔だったはずの瞳から光が消え、きゅっと唇をかみしめて何かを堪えるように顔を背けた。  最後に見せたあの時の知らない顔だった。  人工の砂浜で、波がさざめく風の強い日だった。  押し寄せた波が足元の砂をじりじりと崩し、さらわれるかのように小川は強く踏ん張って立っていた。  あの時の小川の顔だった。  竹内の心臓がギリギリとゆっくり絞られように苦痛を伴って痛む。  春風がさららとそよぎ、沿道に植えられた桜の花びらが舞う。  はらはらと流れていく花びらの後ろで、小川が泣いているような気がした。顔を歪ませて歯を食いしばって堪えて。  小川を囲む満開の桜が一瞬にして散り、小川の身体を花びらが包んでさらって行くんじゃないかと錯覚を覚えるほどだった。  哀しい。こんなにも哀しいのはなぜなんだろう。  全身に感じる痛嘆。  竹内の中に宿す大きな樹が一本萎えて朽ちて行く感覚だった。まるで死んで行くように、支えを失い崩れ落ちて行くみたいに――  胸が破裂しそうだ、喉が苦しく唇が震える。この痛みは一体誰のものなんだろう。  自分? それとも小川?  散る花びらが、まるで小川の流した涙のようにはらはらといつまでも舞い続ける。 「竹内君?! どうしたの?!」 「え?」 「涙」  村上が驚いた声を出して目を見開いていた。何だと思って手のひらで自分の頬に触れると濡れていた。  ――ああ、俺は泣いているのか。   自分の頬を伝う生ぬるいものがなんだったのか、指摘されるまで気づかなかった。  意思もなく溢れるこの涙は何だろう。  流れるまま拭う事も出来ず、濡れた自分の手を見ていると、ガラスの向こうで小川が友達を即しくるりと背を向け、雑踏へ消えて行くのがわかった。  あの日から脳裏に焼き付いて離れない、小川の唇をかみしめ堪えていた顔。  必死に隠していた小川の見てはいけない一瞬の弱さを垣間見てしまった罪悪感。  あの日から心はずっと重く沈み込んだまま、酷い後悔が小川を見る度に竹内を支配する。  小川は竹内を忘れたんじゃない、忘れてしまいたいのだ。  ぼたぼたとテーブルの上に頬を伝った涙が落ち、村上が水色のハンカチを竹内に差し出した。  なぜ涙が出るのだろう。  泣きたいわけじゃないのに、なぜ涙は勝手に溢れて止まらないんだろう。  あんなに大切だったのに。  ずっと親友だと思っていたのに。

ともだちにシェアしよう!