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 scene3    夏が来た。  忘れられない、あの夏休みがまたやって来る。  スポーツ推進校として名の通っているこの学校では、ほとんどの三年生に高校生活最後になる部活動の集大成、夏のインターハイが待っていた。  竹内は六月から始まった高等学校空手道選手権大会予選、いわゆる高校総体で全国の座をかけ、個人形、個人組手、団体組手全てに出場し、団体組手では大将を務め優勝、そして個人組手でも優勝し都内ナンバーワンの座を掴んだ。  中学時代に既に黒帯だった竹内は、高校一年で都内五位、二年では三位と着々と力をつけていた。  あと少しで手が届くインターハイというステージへ行く為だけに、毎日苦しい稽古に励んできたのだ。  中学生になったと同時に空手を始め、身長と体格に恵まれた竹内はめきめきと技を身に付け、一気に階級を駆け上がってきた。  いつからか空手は高校の部活まで、と竹内の中で決まっていて、今しかできない事なのだから後悔のないように全力で取り組みたいと思うようになっていた。  柔らかな春から初夏に移る頃には、八月から始まるインターハイに向けて、竹内はより一層練習に没頭して行った。  夏の日々は容赦なく気温を上げ、太陽は頭の上を照り、アスファルトは蜃気楼のように歪む。  夏の制服の白いポロシャツは、外に数分出ただけで汗でしっとりと湿った。  部活は朝練で始まり、放課後は夏の長くなった陽が沈んだ頃に終わる。  空手で始まって空手で終わる日々。  暗くなった道をへとへとになって歩き、家に帰ればドサリとベッドに沈み、勉強はそっちのけで朝まで記憶なく眠る。  筋肉で張りつめた皮膚の下は、無駄な肉などこれっぽちもなく、緊張感で覆われている。  目を閉じれば浮かぶのは空手の事。他に何かをする気力も体力も搾り取られていて、何もする気が起きない。  本当に気になる事があるはずなのに思考はそちらに動こうとしない、あえて疲れで蓋をしているかのようだった。  疲れたまま死んだように眠る、竹内は目を背けることで自分を守り傷つく事を避けている。  蛹のように丸まり、そんな繰り返しの毎日に毎夜安堵して眠っている。  一学期最終日、朝練はなくいつもより遅く竹内は家を出て、教室に入った。  席替えのないまま過ごしてしまった数か月だった。お調子者の杉田は相変わらず竹内の前の席で担任の注意ばかり受けていた。  数台のファンが天井から回る体育館の中で、効きの悪い空調のぬるい風がぐるぐると循環し、暑がりの額に汗を垂らしている、そんな空間に、全校生徒が並び終業式が執り行われていた。  生徒の誰もが生活指導と校長の長い話が終わるのを願っていたが、竹内は体育主任が読み上げた夏の総体連のスケジュールだけは熱心に聞いていた。  この高校の中で特に力を入れ注目度も高いサッカー部について、体育主任は流暢に読み上げた。  四月から始まったインターハイ予選に当高校は勝ち上げ優勝し、都代表、七月二十九日から始まる一回戦に教頭も校長も応援に赴くとかなんとか。  その他、女子サッカー部、バレー部、ラグビー部、陸上部、女子ソフトボール部、水泳部、柔道部。空手部の竹内も個人でもインターハイ出場を決めている為名前を読み上げられ、周りの生徒からチラチラと視線を向けられた。  一番後ろに並ぶ竹内の前方で、見慣れた背中が人の隙間をぬって見える。  杉田からサッカー部がインターハイ出場を決めた、と聞いた時はやったな、とハイタッチした。俺も、と伝えると杉田は知ってるわと当たり前のように答えた。  杉田が、竹内と小川の仲が壊れている事について直接聞いてきたのは新学期が始まってすぐだった。  その日、ホームルーム中、杉田の無駄口にキレた担任が罰としてトイレ掃除を命じていたのを竹内までとばっちりで受ける羽目になり、二人男子トイレにいた。  まるで他人になっている二人に、最初杉田は「お前ら喧嘩してんのか?」と軽く聞いてきたのだが、竹内が面倒臭気に「縁切られた」と言うと、杉田は随分と不可解な顔をして「はあ?!」と口を器用にひん曲げた。 「まじで? 小川に? お前何したよ?」 「何もしてねーよ……あいつが俺を切っただけ」 「嘘だろ? 小川がいっつもお前にちょっかい出してたじゃん。切るならお前の方だろ」 「知らんわ、小川に聞けよ」  用具入れからデッキブラシを二本取り出すと、一本を杉田に渡し竹内はバケツに水をくむ。デッキブラシの先をバケツの水で濡らし適当にタイルの上を擦る。その一連の作業を杉田はやるわけでもなく、ただブラシを持ったままそんな竹内をじっと見ていた。 「お前らいつも一緒だったろ? 気持ち悪りーくらい。そこまでこじれる理由ってなんだよ」 「……小川が終わらしたんだよ。もう俺と一緒にはいらんねえって」 「何それ、告白でもされたとか?」 「………」  ゴシゴシとデッキブラシでタイルを擦り続ける音が沈黙の中鳴り響く。 「俺、今冗談で言ったつもりなんだけど」  何て答えるべきか杉田の真意を計り損ね黙ったままの竹内に、杉田が呆れた態で言う。 「マジか」  やってらんねえと言わんばかりに杉田はブラシを用具入れに突っ込む。蛇口にぐるぐると巻かれていたホースを手に取ると栓を捻った。じょろじょろと緩やかに水がホースの先から流れ、タイルの床がみるみる濡れて行く。  口にするなんてできなかった。こんな事誰にも言えない、相談できる友達もいない。  杉田は竹内の友達でもあり小川の友達でもあるのだ。  機械のように同じ場所だけを擦り続け、デッキブラシが水を弾いて行くのをむきになって繰り返す。  何だかやけくそな気分だった。こんなにも悩んでいるのに解決の糸口はまるで見えない。  もう解決する事などないのなら──今更杉田に黙っているのも馬鹿らしくなる。 「嫌われた、思っくそ」  自嘲気味に呟いて、ブラシを力任せに押し付けてゴシゴシとタイルを擦る。自分の中の悪い染をこそげ落としたい。何でもいいから綺麗さっぱり失くしてしまいたい。 「女子みてーにすっぱり振ったのか?」 「……どう答えていいかなんてわかんねえよ、そんなの……」 「ま、仕方ねーよなこればかりはさ。お前彼女いるし」  友達が友達を好きになる。友情と恋愛感情。  これといって食いついてくるわけでもなく、杉田はまた水を四方に撒く。校内用の上履きなのに飛び跳ねた水がかかるのも気にしないおおざっぱな杉田は、掃除をするというよりはただ適当に流しているだけだった。  なぜ目の前の友人は否定しないのだろう。 「杉田は知ってた? 小川の事」 「んー……今思えば結構バレバレだったかもな、お前と居る時の小川は全然違ったよ、マジで」  ホースの先を握ったまま杉田は流れ出す流水を見ていた。  竹内よりもずっとずっと長い付き合いをしている杉田と小川は、まだランドセルを背負っていた頃からサッカーボールを蹴って来たのだ。竹内よりもずっと小川を見て知っている。  竹内とはたかだか一年にも満たなかった友情だ。信頼し合いお互いが全てだったあの友情関係は、どんなに短くても竹内の人生の中で初めての経験だった。なのに小川は容易く竹内を切った。杉田と自分の違いを見せつけられたようで、尚更自分の小ささを実感する。 「そんなの俺知らなかったわ、ははっ、情けねっ……」  ブラシを強く握ったまま竹内は顔を伏せる。全く気づけなかった。それでもまだあの関係を望んでいる未練がましい自分に嫌気がする。  縁を切られてもそれでも小川を望んでいる自分は何なんだろうか。  杉田が蛇口を締めてホースを戻すと、手洗い台の上に腰掛けた。掃除をする気は杉田にはほとんどないようだった。 「何だろ、特別感はあったよお前だけには。あいつ人見知りしねえし垣根がないから誰とでもダチみてーになるけどさ、それって表面だけで結構本質繕ってて出さないの」 「小川が?」 「そ、竹内といる時ってさ、小川はずっとお前に話しかけてんじゃん」  竹内、なあなあ聞いてくれる? と人懐っこく寄って来て、部活の事やゲームをクリアした事、風邪ひいた事、家族の些細な天然話から、時には「今日の俺何か違うと思わね?」と突然言い出すことも日常茶飯事だった。  そんな時はいつも瞬き多く目をパチパチさせて竹内を見ていた。肩と肩が触れ合う程の近い距離感に最初は戸惑ったが、いつしか慣れてしまいそれに違和も感じなくなっていた。 「俺があんましゃべんねーからかな」 「全然心開かねえから、お前の距離感ブチ壊して侵入しないとダメだと思ったんだろうな」  そう言って杉田は腰かけていた洗面台から降りるとわざとらしく竹内の前にすっと寄る。不可解な行動に反射して上体を反らし、一定の距離を作ると、杉田は「ほらな?」と苦笑いした。 「俺には心開いてくれてないし?」 「そんな事ねえよ」 「小川より俺のが付き合い長いのにさぁ、寂しいよね」 「お前キモイ」 「竹内君は自分から心開いて挑まねえとゲットできないデリケートな男なんだよな」  茶化すように言われて「やめろよ」と杉田の腕を軽く押す。ほら見ろ、と悪戯に笑われて少し分が悪くなる。  杉田にだってちゃんと心は開いている。小川ほどではないけれど。 「お前だってダチだよ」   そう言うと杉田は「それは光栄ですわ」とおどけて笑った。  そう、今竹内にダチと呼べる人間は杉田しかいない。空手部の連中だっているけれど、彼らは同じ志を持つ同志であって、親友とはまた違う。空手という繋がりを持った仲間でしかないのだ。  小学生時代から、性格は素っ気ない不愛想と言われるのになぜか女子に好かれ、周りは常に騒がしかった。空手を武器としてみる喧嘩自慢の男たちに誘われる事も多く、そんな馴れ馴れしいタイプが大嫌いで更に人と距離を作るようになった。  だから竹内には、初めて自分の中に飛び込んできた小川という人間に対して麻痺してしまったのかもしれない。  杉田のような近しい者から見て気づくほどの態度の違いなんて分からない。  感情の違いに気づけない程、小川という人間全てを竹内は受け入れていたのだ。 「試合に負けたらさ悔しいじゃん。納得できなくて泣く時もあんじゃん」 「ああ」 「なのに小川はさ、そういうの隠すんだよ。絶対に皆の前じゃ泣かねえの。理不尽で怒る時は盛大に怒るし、ワールドカップの試合テレビで観て感動して泣いたりするクセに、悔しいとか悲しいなんて時はさ、顏作って歯ぁ食いしばってぜってーに崩さねえの」 「………」  竹内の胸に鉛が沈んだような嫌な鈍さを覚え目を伏せる。杉田は足をぶらつかせてそんな竹内に気づかない。 「竹内の前じゃさ、そんな事もなかったろ?」  そんな事はない、そんな事はないんだ、杉田。声にならず竹内は首を振る。  小川のその顔を知っているんだよ。その顔を自分はさせてしまっているんだ。  夏の日、人工の砂浜で、唇を引き結んで繕っていたあの表情。  桜の花びらが舞う街のカフェで、ウィンドウ越しに見た一瞬の表情。  見た事のない顔をして、一心に何かを堪えて。  小川があの日初めて竹内に見せたその顔は、他人への第一歩だったのだ。  ああ、そんな事知らなきゃよかった。知らないままでいたかった。  掻きむしられる感情、心が痛いと言うのはこういう事なのか、今、自分はなぜこんなにも罪悪感に覆われているんだ── 「小川もさ、お前に告るくれーなんだから真剣だったんだろ……もうふっ切ったのかはわかんねえけどさ」  桜の花びらの向こうに見えた小川の顔が忘れられない。  一体どんな想いで小川は竹内と村上を見たのだろう。あの身体の中にどれ程の哀しみを押し込めていたのだろう。  もう二度と小川にあんな顔をさせたくなかった。  竹内の胸に残るあの苦い罪悪感があの日から染みついて取れない。  どんなにこそげ落とそうとしても絶対に取れない、一生竹内の胸に後悔として残るのだ。 「俺も小川が好きだよ。どうすればあいつ戻って来てくれんの?」 「そんな簡単な事じゃねえだろ、お前彼女いんだろ? 好きってそういう事だろが」 「わかんねえよ、知るかよ、友達とどう違うよ。村上と別れればいいんか? そしたら小川は戻ってくんのかよ」 「違げーだろ。小川の気持ちに応えられんのかって言ってんだよ」 「応えるとか小川はそんな事俺に一言も言ってねえわ、ただ好きだったってそれだけだったんだよ。どうすりゃよかったんだよ……」  あの頃みたいに毎日一緒にふざけて笑って、同じ物を見て聴いて共感していたい。小川の隣を歩くのは自分でいたい、バカをするのも自分でいて欲しい。  そればかりを願い欲っする気持ちは日に日に増している。 「もうそうっとしといてやれよ。あいつはお前を忘れたいから口も聞かねんだろ? お前を好きなままじゃあ報われねえだろ、忘れさしてやれや」  珍しく感情的になる竹内の肩を杉田は強く制すと、言い聞かすように言う。  小川が竹内の事を忘れてしまう──小川の中で竹内が消えてしまう。  忘れて欲しくない。小川に忘れられたくない。  ストンと杉田は身軽に手洗い台から降りると、蛇口を捻り手を洗う。  「いやだ」と小さく呟いた竹内の声は水音にかき消された。  いやだ、忘れて欲しくない、あの時の二人に戻りたい。ずっと友達でいたい。  望むのはただそれだけ。だけどそれだけがこんなにも難しい。  手を洗い、濡れた手を適当に振る杉田は「終わりな」と言ってさっさとトイレを出て行く。  すれ違いざまポンと肩を弾かれたが、竹内は何もないタイルの一点だけをただ無心にゴシゴシと擦っていた。消えない染み。どんなに擦っても竹内の中にこびりつく後悔の染みは消えない。  杉田はこの日から竹内に対して小川の話を振ってこなくなった。  それでも小川とも竹内とも分け隔てなく友達でいる。杉田は案外器用な人間だ。  小川の中で自分の存在が消されようとしている──そう考えただけでどうにもならない焦燥や不安が襲い、徐々に竹内は現実から顔を背けるようになり、より一層部活だけに打ち込む毎日となった。  何も考えられないくらいクタクタに疲れて、夢も見ずに眠ってしまいたい。目と耳を塞いで、何も見ずにいたい。  学校と家を往復するだけの日々。  村上とはラインだけで二人で会っていない。気遣ったトーク画面に返信しない日が数回続き、気づけばゴメンと謝るばかりのスタンプになっていた。まだ夏が始まる前──新緑の眩しい季節だった。

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