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 八月十日。朝一番、師範を先頭に空手部一同駅に集まり試合会場へ向かう。  サッカー部はマイクロバスも出て、チアや応援団、校長含め教師陣や一般生徒までも応援に行ったが、空手部にはバスも出ず応援も来ないので、新幹線に乗って部員達は会場へ向かう。  母親が昨夜から仕込みをした豪華二段弁当は、竹内の担ぐスポーツバッグの中で幅を取りなかなかの重さだった。  数日前から応援に行くのを張り切る両親に、いいからと何度も諌めたのにこんなに気合の入った弁当を持たされる羽目になった。  試合はトーナメント戦三分一本勝負。竹内は組手個人戦の他に、組手団体戦では大将を務める。  優勝するまでには一回戦から始め六回勝たなければならない。午前中に団体戦、午後には個人戦だ。自校からは団体戦に、今年最後となる三年生五人の出場だったが三回戦で悔しい結果となり、嫌でも部全体の空気はこの後出場する個人戦に期待が高まった。  個人戦が始まる前にいつの間にか来ていた村上がロビーにいて、冷たいスポーツドリンクを差し入れにもらった。  空手の大会は関係者以外学校のチェックが入るからと、応援に来たがった女子達には適当な嘘で断ったので、生徒の応援は来ていない。  弓道部の村上は、予選の初戦で敗退していた為五月には引退し、この夏休みは塾の夏期講習に入ったと聞いていた。インターハイで頭がいっぱいだった為、デートの約束すらしていなかった。 「頑張ってね」 「うん、サンキュ」 「勝ったら花火大会行こ?」 「ははっ負けたら?」 「負けないでしょ、絶対」  珍しくうっすらと化粧をした村上は、笑みを浮かべてVサインをした。涼しげな水色のミニのワンピースに長い髪を編み込んで、学校とは違ってお洒落をしていた。  二人が恋人になったきっかけは去年の試合だという事を忘れていたわけではないけれど、空手に集中している今はそれどころではなかった。 「じゃ、二階から応援してるね、絶対に勝って」 「おう」  ガッツポーズをして村上が階段を上って行く。試合に来るとは言っていなかった。わざわざ応援しに来てくれたのかと思うとやはり純粋に嬉しいと思う。  彼女に好かれていると実感しても、小川に感じる事は一度だってなかった。  村上と小川は違う。比べるものじゃないことくらい分かっているけれど。  個人戦に出場する選手達がフロアーに集まり始め、竹内は改めて腰に巻かれた黒帯を強く締め直す。今自分がやるべき事は試合に勝つことだ。  個人組手開始のアナウンスが流れ、嫌でも緊張感が高まる。師範が「強気で行けよ」と肩を揉んでリラックスさせようとしてくれる。  竹内はシード選手の為二回戦からの出場だ。  二回戦、上段突で有効を取り、その後技ありを二本、上段蹴で一本を取り、八対二での勝利。ここで竹内のベスト十六入りが決まった。  三回戦。さすがにここからは対戦相手の威圧感が断とつに違った。体格も竹内よりもよい選手が多くなり緊張感も今まで以上になる。苦戦を強いられながらもポイントを取って取られての一進一退の攻防が続き、ポイントリードを取られていたが間合いを取り残り十二秒、一瞬のスキをついた上段蹴りが入り審判の「やめ!」「一本!」の声が会場に響いた。ベストエイト入りだ。力の入った師範の叱咤激励が竹内に飛ぶ。  四回戦、向かい合った対戦相手は竹内よりも大きく、十キロは体重差のある選手だった。最初様子を見つつ、下段で一ポイント先取。それがきっかけとなり相手の攻撃が始まる。有効、技あり、一ポイント取って取り返される、三分間という時間が果てしなく長く感じた。何度も場外に押し出され、師範の「前へ! 前へ!」と言う声が聞こえる。体力の消耗が激しく、汗が噴出する。竹内も相手も肩で息をし始め疲れているのは明確だった。 「足! 足!」  部員達が竹内に怒鳴っている。ハッと気づいた時には相手がくるりと回っていた。ガツンと防具の上から受けた衝撃に、何が起きたのかわからなかった。 「上段後方回し蹴り、一本!」  審判の旗が揚がる。負けた。一本、取られてしまった──   一気に身体から力が抜けて行き、膝から崩れ落ちそうなのを気丈に耐えて、対戦相手と一礼し握手をした。ギュッと握られた勝者の力強さに、悔しくて悔しくて涙がぶわっと溢れ出た。防具を脱ぎ捨て溢れた涙を道着で拭う。師範に「よくやった」と肩を抱かれ、余計に涙が出た。部員皆が竹内を取り囲み健闘を称えてくれる。  三年の夏、試合に負けた時点で全てが終わる。  あんなに苦しかった稽古にもう参加しなくてもいいのだ。家に帰るとバタンキューだった生活が終わるのだ。  部活はこれで引退──こんなにもあっけなく終わってしまった──  感情を表す事が苦手な自分が、こんなにも不可抗力に涙が溢れ出てしまう。  竹内よりも一足先、球技場で試合終了の笛の音を聴いた小川は一体何を思ったのだろう。  荷物を持ち選手控室に向かおうとした時、何となく視線を感じて竹内は二階の観覧席を見上げた。  村上は自校の席にはおらず、一般席に座っている。そこは試合にエントリーされていない空手部の後輩達と、選手の両親たちが占める座席のずっと奥――  見上げた先は、会場を照らすライトで少し眩しかった。吸い寄せられるように一人の人影が視界に入る。  竹内は目を数回瞬きあるはずのない顔を見た。  ――小川。 「嘘だろ」  竹内は荷物を後ろにいた部員に押し付けるとダッシュでロビーに出て階段を駆け上った。一瞬の迷いもなかった。  人の合間を通り抜け、扇状になった観覧席を走る。  そこにいたはずの小川の姿はどこにもなくて、竹内ははっと後方の開放されている非常口を見つけ飛び出した。  螺旋階段の前方で人の影が見える。  息を乱したまま二段抜かしで駆け下り、前方を走って行く見えるはずのなかった後姿を見つけた。 「小川!」  信じられなかった。まさか、小川がこんな所へ来るとは思いもしなかった。  試合を終えたばかりの竹内に、サッカーで鍛えた小川のダッシュに追いつけるはずもなく、背中はどんどん遠ざかる。 「小川ッ!」  竹内は腹の底から出る限りの大声で小川を呼んだ。声は割れて潰れた叫びしか出なかった。  竹内は両膝に手をついて身体全体で呼吸し立ち止まる。  ──もういい。試合を見に来てくれた、それだけでいい。  足は裸足のままだった。今頃になってそんな事に気づく。膝は試合の緊張感と急激なダッシュでがくがくと震えていた。  呼吸が整わないまま頭を上げると、もうすでに走り去って行ったはずの小川はそこにいて、竹内はなぜだか知らないが、気が一気に緩んでしまってその場にへたり込んでしまった。 「試合観に来てくれてただろ、だからそのお返し」  小川はそう言って白いスニーカーでコンコンとコンクリートの地面を蹴った。Tシャツにカーキ色のハーフパンツ。洋服から出ている腕も脚も真っ黒に陽に焼けていて、ああ小川なんだな、となんだか不思議な気分で竹内は小川を見上げた。  作った顔。よそよそしく、どこか壁を作っている。でもそれでもよかった。 「小川、全国べスト四おめでとう」  小川に今一番伝えたかった言葉だ。心の中で伝えるだけだった言葉を直接言えて、今はそれだけで満足だった。  ほんの少しだけ小川の顏に柔らかさが出る。小川もどこか緊張していたのかもしれない。 「竹内も全国でベストエイトだろ? おめでとう、凄げえな」  小川が目を三日月に細めて一年ぶりに竹内と言った。一年ぶりに声を掛けてくれた。一年ぶりにこんなに近くにいる。  それだけで胸がいっぱいだった。この瞬間を竹内はどんなに待ち望んでいただろうか。 「うん、悔しいけどもういいわ」 「綺麗に蹴り入れられてたな、お前。顏ボロボロだし」  多分上段が入った時防具が顔面に当たり腫れているのだろう。泣いたせいできっと目も赤く充血している。  試合をちゃんと見てくれたのかと知っただけでまた涙が出そうになる。もう情緒面もぐちゃぐちゃだった。  潤んだ目を隠したくて俯くと裸足のつま先が目に入った。小川は何て思っているんだろう。道着のまま小川を追ってなりふり構わず追いかけて、きっと部員も今頃心配している。  それでもここに来てくれた小川に感謝の気持ちを伝えたかったが、これ以上何を言ったらいいのか言葉に出せず、ただ小川の顏を見上げていた。 「ほれ」  へたり込む竹内に小川は左手を差し出す。手首に巻かれた腕時計の上にレザーのバングル。そう言えば小川は左利きだったか。  竹内は右手を差し出し、小川の手を握った。グイと引き上げられ竹内は立ち上がる。そっと離される左手と右手。 「ありがとな」  これが小川の気まぐれでもいい。  夏休みが明けたらまた小川は去年と同じように他人になってしまうのかもしれない。  今日一日この瞬間だけでも小川は竹内と正面から瞳を合わせてくれた。竹内と呼んでくれた。話をしてくれた。  ──竹内の試合を見に来てくれた。  忘れないで欲しい。  小川の中から竹内を消さないで欲しい。  友達でいたあの日々を忘れないで欲しい。  竹内がただひたすら小川の顔を見ていた為か、小川は作った顔をぐしゃりと歪ませ、目を泳がせた。剥がれる仮面。もう小川のあの顔を見たくない。  竹内の胸にずっと焼き付いて離れない、小川のおし込んだ哀しみの顏。あの顔をさせてはいけないのだと心が咎める。ぐっと唇を噛む仕草。小川ももう限界なのかもしれない。 「じゃな」  小川はそう言ってくるりと背を向けた。後ろ手にバイバイと手を振り、一年前のあの日のように歩いて行く。  それでも遠ざかる後姿に、あの時ほどの拒絶を感じなかった事が唯一の救いだった。  竹内は小川の姿が見えなくなるまで、いつまでもずっとその場に立ち尽くしていた。  八月十日、いつも通りの暑い暑い日差し、透き通るくらいの青い空、青々と生い茂る緑、うるさいくらいの蝉の鳴き声、去年の夏とそんなに変わらない夏の日。  そろそろ足の裏が焼けたコンクリートでじりじりと痛くなってきた。  会場の中で決勝が始まったのだろうひと際大きな声援が外まで聴こえて来た。  竹内は「またな」と声を出して、小川が消えた総合体育館の門に言う。  忘れられない夏休みがまた一つ竹内の中に残る。  永遠ではなかったもう一つの夏が終わった。

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