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chapter 1 Hey, Welcome To 白百利

 白百利(バイバイリ)は、大陸中央の巨大な都とまではいかないが、そこそこの大きさの街である。だが周りに大きい街がいくつかあるせいと、その街から少し距離があるせいで、白百利は田舎で、小さな街だと認知されていた。  大陸の多くの街がそうであるように、白百利の周囲にも点々と村や集落が存在する。  そういう村や集落では、人々は酪農や畑をし、のんびり生活を送っていた。たまに街へ繰り出して羽目を外し、また自分の居るべきところへ戻っていく。ただ街から出れば、魔物と遭遇する危険が高い。遊びにいくのも命懸けである。  街から街へ行き交う手段は、主に馬か馬車だ。遠くになればなるほど日数もかかるため、他の大きな街と距離のある白百利は田舎扱いなのである。  ずっと昔、利休梅(リシウメイ)の花木が街を囲うように植えられており、その数は数千から数万だったとも言われている。  その木々が、春になると一斉に白い花を咲かせた。それは街の住人はもちろん、旅人の足を止めさせるほどの風景だったらしい。そのおかげで、当時はもっと栄えた街だった。その縁あって、元々違う名前だった街の名は、後に白百利に変えられたと言われている。なにしろ昔のことなので、真相を知る人間はいなかったが。  今はもう、数千から数万と言われた利休梅の木の、街の外囲いはほぼ残っていない。度重なった天地海の争いや、自然災害などで、そのほとんどが失われてしまった。  北からの雪解け水を運んでいるのが、白百利の少し西に伸びた広大な河だ。その支流のひとつが街の西側にもあり、住人の貴重な水源になっている。  大地を遮る広大な河に、人々は長い年月をかけ、長く立派な橋をかけた。  だが河は広大過ぎた。  人々の台所や田畑を潤す貴重な水源であると同時に、その広大な河は過去に幾度も大雨で氾濫し、濁流は支流のある白百利の街をも襲った。  もちろん、人のかけた橋など、何度も破壊された。だが人々は、その度に新しい橋を掛けた。  利休梅の木の囲いが、白百利への水の侵入を防いだことが何度もあった。人々は、街の神木でもあったそんな木々を、大切に世話していたのだ。  利休梅は、悪霊や妖魔の類いを寄せつけないとも言われていた。  周囲にはなくなってしまったが、街の道や人家には、その木がなくなるのを惜しんだ人の手により、利休梅もまだ残っている。  土地の人柄、木や花など自然を愛する者が多かったからだろう。白百利には利休梅だけでなく、植物がたくさん植えられていた。  東市から西市へと抜ける道にあったのが、樹齢百年ほどの木である。この木は毎年春に花を咲かせて人々の目を楽しませ、夏には日影で憩いの場を提供した。 「阿辰(アーチェン)、阿辰、……どこなの?」  買い物に少し気を取られた隙に息子がいなくなったことに気づき、母親は慌てて探す。  六歳になる息子は好奇心旺盛で、毎日友だちとあちこち走り回っては、新しい傷を作って帰ってくる。いつか大きな傷を負って帰ってくるのではというのが、最近の母親の悩みであった。  息子はすぐに見つかった。木の側で上を見上げて、母親が呼ぶ声にも振り返らない。近寄り、叱ろうかというところで、息子はやっと母を振り返った。 「勝手にどっか行っちゃ駄目でしょう」  だが振り向いた息子の目いっぱいに溜まった涙が、母親を驚かせた。 「どこか怪我したの?」  慌てて体を確かめる。どこも怪我などしていないことが分かり、母親がほっと胸を撫で下ろす。 「一体どうしたの……」  息子は鼻を啜りながら木の上を指差した。 「僕の凧……」  見ればなるほど、先ほど吹いた風で飛んでしまったのだろう。来る途中寄った家で叔父に貰った凧が、木の枝に引っかかっている。凧も、それを繋ぐ紐を巻いた持ち手も枝からぶら下がり、子どもを揶揄うように風で揺れていた。 「うーん……。これは母さんじゃ無理かも……」  母親は背が高くない。つま先立ちになっても、枝に引っかかった紐にすら届かない。何があったか気づいた商店の老板が、見かねて助太刀に来るも、いかんせん背が足らない。  絶望を察したらしい子どもは既に涙を零し始めていた。そんな子どもに追い討ちをかけたのは、母親の言葉だった。 「また叔父さんに作ってもらいましょう」  聞いた息子はこの世の終わりとばかりに、豪快に泣いた。欲しいのは、あの凧である。次に作ってもらう凧は、あの凧とは違う。幼い子どもの、心の叫びである。  泣き声は、通りの端まで聞こえそうなほど大きかった。絶望の涙なのだ。それも仕方がない。  何だ何だと、周りに人も集まり始めた。母親がどうしたものかと、困っていた時だった。 「任せろ」  高くもなく低くもない、その心地良い声は、母と子の後ろからかけられた。声と同時に、持ち主の青年が地面を軽く蹴る。 「よっ」  蹴った次の瞬間にはもう、青年は枝の上だった。まるで羽があるような軽さである。  引っかかっている凧を取り、慣れた様子で紐と凧を切り離す。そして上がった時と同じく、青年は、しなやかに地面へ降りた。長い漆黒の髪がふわりと舞う。陽の元の青年は、驚くほど端正な顔立ちだった。 「ほら。紐を付けたら、また遊べる」  木漏れ日に揺れる風のような笑顔を見せ、子どもの頭を撫でる。 「なんだ。誰かと思えば、やっぱり(ホア)か」  (ホア)と呼ばれた男は、美しい形の唇の端を引き上げ、やんちゃに笑う。美しく整った顔が、まるで子どものように途端幼くなる。彼の若干釣り上がり気味の目尻は、笑顔を咲かすと柔らかく変化した。  だがこの花、その一見すると清楚な青年な見た目を裏切る、乱暴な口を持っていた。 「よぉ老板。なんだ、相変わらず悪品売ってんのか、ここで」  飛び出した花の軽口で、周囲に笑いの華が咲く。 「お前も黙ってりゃ、良家の若旦那に見えねぇこともないってのにな」 「髭爺んとこで、口を縫ってもらったらどうだ」 「そんなことしたら、街の活気がなくなって、毎日静まりかえるぞ。いいのか」 「違いねぇ」  彼は現れてものの数秒で、華やいだ雰囲気を作った。  年の頃は二十五くらいだろうか。笑うと子どもに戻るくらい童顔である。  長い睫毛に縁取られた漆黒の目は、木漏れ日を受けて反射している。まるで朝日を浴びて夜から生き返る、湖畔の水面のように美しい。  近く強く、印象的な眼差し。高い鼻梁。赤く色づく薄い唇。すれ違う誰もが、二度は振り返る美人。  背が高く、骨格も良い。だがこの時代の「逞しい男」と評されるには、肩や腕の筋肉が少々物足りなかった。この顔なので、「多少肩幅の広い女」でも通ってしまいそうである。  くびれた腰を締める腰紐が、片方だけ垂れていた。その紐が、長い脚がしなやかに動くたび揺れる。これは洒落っ気などではなく、単にきちんと仕舞い忘れただけであろう。  全体的に着崩れているのが、艶っぽい。だがそれも、じっとしていない彼だから、偶然そうなっただけだ。 「相変わらず身が軽いな。そのまま飛んでっちまうかと思ったぞ。ちゃんと飯食ってんのか」 「美人館で“花”の世話し過ぎて、食う暇もねぇんじゃねえか」 「違いねぇ」  どっと起こった下品な笑いに顔を顰め、花はそこにあった売り台に勢いよく片足を乗せた。  白く、引き締まった足首が露わになる。そこには茜色の薄紐が巻かれていた。白い肌と、それとは対照的な鮮やかさ。露な足首が見る者を魅了することに、彼が気づく様子はない。  だかそこは花。堅苦しいことは、向こうから避けて通るくらいの存在である。足首くらいで涎を垂らす者など、お呼びではない。  ここに来るまでも動き回っていたらしく、下穿きの裾には土がついていた。長鞋(ながぐつ)なら裾は中に仕舞うため汚れにくい。だが若者が好むそれではなく、どちらかと言うと店番などが好んで穿く刺繍鞋(ししゅうぐつ)を選ぶ理由も、鞋が汚れた時に面倒が少ないからである。なので彼の裾に関しては、外に出れば大体いつも汚れていた。 「何度も言ってるだろ。いやらしい想像すんなって。俺は植物の世話をしてんだ。美人館で。お前たちの考える“花”の世話じゃない」  心外もいいとこだ。  もう一度台の上で足踏みすると、簡易な作りの台は悲鳴を上げる。壊されては敵わないと焦った老板が、花を宥めた。 「分かった分かった。こら、踏むな踏むな。壊れちゃ商売上がったりだ」  にっと笑って足を引く姿は、まるで不良である。しかし整った顔とその笑顔のおかげで、多少の粗相ではその美しさも崩れない。  ひとしきり、店の者や知り合いと話をした後、去ろうとした花の前で、男の子が道を遮った。先ほど泣いていた子どもである。 「哥哥(ガガ)」  男の子がおずおずと手を差し出す。何だろうと思いながら手を出すと、花の手のひらに飴がひとつ載っていた。 「くれんのか?」  花はしゃがんで視線を合わせる。  長平屋育ちの花には、兄弟姉妹がたくさんいる。その見た目と、見た目とは正反対の豪快な性格から、誰からも頼りにされ、好かれていた。大抵の子どもとは、すぐに打ち解ける花である。 「ありがとな」  その笑顔の前には、誰しも頬を染めた。  子どもの顔も例外なく、茹でられたように真っ赤になった。    西市へ続く通りは、昼ということもあり、人が多かった。多いといっても、人でごった返すほどではない。歩くには差し支えなく、しかし人で賑わう通りは活気があり、花はこの通りが好きだった。ただひとつ、屋台から流れる香ばしい食べ物の匂いを除いて――。 「お、花。新作だ。食べてけよ」  かけられたその言葉に、花は苦笑いだ。 「俺が食べないの、知ってるだろ」  店主も分かっていて言うのだ。これは二人の「元気か」の、挨拶と同じようなものだった。 「美味いって評判なんだ。お前だってこの匂いを嗅げば、自然と手が動くぞきっと」 「……いや、ここでもう十分嗅げる」  鼻を手で覆い、煙から三歩ほど後退る。  花には生まれつき、何かを食べる習慣がない。食べなくともこの通り、健康に生きていくことができるのだ。水や茶、酒も飲む。しかし魚や肉、野菜を口に入れることはない。  街の周知の事実と言うわけではないが、平長屋の住人のほとんどはそれを知っている。何しにろ赤子の時分からなので、自然と近所には浸透した。声をかけてきた屋台の店主も、同じ長屋の住人だ。彼ら長屋の住人は、そんな花の体質にも、気味悪がらないで接してくれた。 「花、どこ行くんだい?亜蘭亭かい?」 「いや、美館(メイグアン)の方」 「美館?こんな時間にかい?」  隣の屋台の女が怪訝そうに首を捻った。先ほどの男たちと同様、何やら良からぬ想像をしているのが分かる。おかしさに花は笑う。女が、疑問に思ったことさえ忘れてしまうほど、魅力的な笑顔だ。 「この間持ってった鉢植えに何かあったらしい。営業前に来てくれってさ」 「美館の女将っていやぁ、貪欲な女狐だろ」  隣で聞いていた女の知り合いが会話に入ってきた。 「何でも、本物の妖狐も逃げ出すって」 「そうさね。この間も、金を払おうとしない客を素っ裸にして、柳の木に逆さまに吊るしたって話だよ。そのうえそいつの女房を、逆さまの旦那を引き取りに来いと呼びに行ったらしい」 「で、どうなったのさ。その逆さ亭主は」 「それが女房は良家の出でね、元から尻に敷かれっぱなしだった亭主は、もう二度と行かないからと、三日三晩妻に土下座したって話だ」 「三日三晩で済めば良い方さ。うちだったら、タダじゃおかないよ」 「それはそうと、そんなとこで働いて大丈夫なのかい、花」 「そうだよあんた。その見た目だろ。うっかり客の相手でもさせられるんじゃないよ。気をつけなきゃ」 「化粧して黙って座らせたら、そこいらの高級娼妓よりよっぽど金を取れそうな顔だからねぇ」  どうも思わぬ方向へ行き始めた話に、花が顔を引きつらせて苦笑いする。  事実に尾ひれも背びれもつくのが噂である。だがその噂が花の知る事実と、まったくのかけ離れた話でもないことが、苦笑いの理由でもあった。 「芽依(ヤァイー)姐姐(ジェジェ)は、……ちょっと変わってるだけだ」  ちょっと変わってるがいい人だ……とは言えないのが痛いところだ。「少なくともこれまでよくしてもらってるから、人柄には確かに少し問題があるけど、まぁ全体的にはいい人だ」そう言いたいのを堪えて吞み込む。自分でも、それが彼女を貶しているのか褒めているのか分からなかった。 「――花!……こっちこっち」  少し先の屋台で、来ていた客らしき年配の女が花に向けて手を振っていた。近づくとそれは平長屋の近所に住む女だった。よく惣菜や手作りの菓子を分けたりと、長屋の子どもたちの世話をしてくれる。恰幅がよく、豪快に笑う女で、花は彼女の笑い声が好きだった。 「こんな時間にここにいるなんて珍しい。何かあったのかい?」 「美館に行くんだ。ついこの間持ってった鉢植えが枯れたらしい」 「揉め事かい?うちのを連れてくかい?」  これには花も笑ってしまった。 「大丈夫だ。……姐姐、俺はもう十代のガキじゃないよ」 「嫌だねぇ、分かってるよ。お前さんが、こーんなに小さい時から知ってるんだ。あの小さかった花が、今じゃ立派に城主の手伝いしてるんだもんね……。こんなに大きくなるなんてねぇ……」  感慨深げに年月を振り返り始めたのを見て、慌てて遮った。 「姐姐、何か用があったんじゃないのか」 「ああ、そうだった。いやね、大したことじゃないんだけど、時間あるときでいいから、ちょっとうちに寄ってくれないかい」 「いいよ。どうしたんだ」 「うちの後ろにある、柿木なんだけどね」  その柿木なら、花もよく知っている。毎年秋に実をつけ、花も何度も食べたことがある。  聞けばその柿木が、花が咲いたのに今年はなぜか実がならない。実がなるどころか、それまで何ら問題なかった木の一部に、腐ったような痕さえみられるらしい。 「腐った?病気か?でも元気だったぞ」  樹齢五十年ほどの柿木だ。二週間ほど前に花が見た時は、まだまだ根も枝も元気な木だった。 「そうなんだよ。おかしな病気でも流行ってるのかね。昨日は、前の家の大根の葉っぱが、一晩で全部枯れちまったらしい」 「葉っぱが?葉っぱだけなのか?」  女性が頷くのを見て、形良い顎に指を当て、花は考え込んだ。柿木と大根の葉に共通する病気など、これまで聞いたことがなかった。それに一晩で枯れるとなると、新種の病気の可能性もある。 「花、あんた急ぐんじゃないかい。芽依の女将に小言くらっちまうよ」  確かに早く行かなければならない。  明日にでも家によると告げ、花は女性と別れた。

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