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Chapter 2 This Is 影音 Who Is My Brother

 美館への道中も、柿木のことが頭から離れない。本当は今すぐにでも駆けつけ、「彼」と話がしたかった。  街の西には川が流れている。氾濫の絶えなかった大きい川から引かれた支流だ。  夏になるとこの川で、子どもたちが度胸試しの飛び込みをする光景が見られた。かく言う花も、子どもの頃に試し済みである。街の子どもなら一度は必ず飛んだことがあるほど、子どもの度胸試しには丁度いい高さの橋だった。  悲鳴を聴いたのは、考え事をしながらその川を跨ぐ橋にさしかかった時だった。  この辺りは裏通りにあたり、民家もまばら、人通りも少ない。北へ向かえば美館がある。実は美館へは、大通りを抜けて向かうのが早かいのだが、花はいつもここを抜けて行く。川沿いに植えられた植物の様子を見るためだった。  その悲鳴を聞いた時、最初は気のせいだと思った。考えごとに集中しすぎたせいで、自分が橋まで来たことにすら、花は気がついていなかった。  気のせいかと歩きかけたその時に、二回目の悲鳴が聞こえた。女のものだ。どうも橋下の、橋台の側からである。急いで欄干に身を寄せ、耳を澄ませる。  ……まただ。  確かに女の声がする。  しかし声がくぐもっているうえ、途切れ途切れで聞き取りにくい。穏やかとは言え川の流れがある中で、花が気づかなかったのも無理はなかった。  橋から覗き込んでみたものの影になって、上からは何も見えない。橋台には人が降りられる場所がある。どうも声はそこからである。  下へ降りる道がないか周囲を見渡す。川沿いに小さな階段を見つけ、花は急いだ。覗いて気のせいだったで済めばいいが、本当に人間の悲鳴ならことは違ってくる。  橋下は暗かった。だが近くなるにつれ、「暗い」というより、「黒い」が正しいことに驚く。  何だあれ……。  真っ昼間にも関わらず橋下の一角だけ、そこだけが、黒い影の塊で真っ黒なのだ。異常さを目の当たりにし、花の足が止まる。目を凝らしても、それが一体何なのか見当もつかない。  近づくべきがどうか迷っていると再び、あの声が聞こえた。 「だ、誰か……おねが……たす……」  花は側に落ちてあったものを拾った。普通なら何の役にも立たない、枯れた枝木である。そして自身の精神丹から力を引き出す。  温かい力が、腹から胸へと移動していく。胸から腕へ、腕から手のひらへ。そして枯れた枝木へ。  すると、たった今潤いの雨を貰ったかのように、枯れ木は元の元気な姿を取り戻した。  枝から生え伸びた新芽が、花の白い腕にしなやかに巻きつく。そうすることが大きな喜びであるかのように。  枝全体が淡い光に包まれた。木漏れ日色の優しい光だ。  感触を確かめるように、花が枝で一振りする。光に包まれた枝が宙を斬り、瑞々しくしなった。  見れば、黒い影の塊のようなものは、さっきとは形を変えていた。あれが何であれ、生きものらしい。そして中には、助けを求めた声の持ち主がいる。  蛾や蝙蝠の類いであってほしいという花の淡い希望は、すぐに崩れた。蛾や蝙蝠のような、よく知る動物の動きではない。じりじり迫る花を警戒し、威嚇するように形を変える。  ――街の陽の当たらないところには、悪霊や怨霊、妖魔の類いが潜んでいる。気をつけろ。  頭の中に浮かんだのは、義兄の言葉だった。  これもそういう類いなのか……?  まさか鬼……ってことはないよなまさか。  鬼は樹海から蓋海を越え、人間の住む泥海にやってくる。その道中で腹が空いた鬼は、着いた泥海で人を惑わし、攫い、そして食べてしまう。  これは泥海で伝わる、樹海の鬼の話だ。ただの作り話ではなく、事実から生まれた話である。  今でこそ鬼が泥海に来ることは滅多になくなったが、過去には天海もを巻き込んだ、鬼との大きな戦いがあった。  恐怖は鬼だけではない。過去の大戦で樹海や蓋海から来た多くの魔物の名残が、今でも大地を闊歩している。重なる大戦で深傷を負った天海には、それらを一掃する余裕もなかったらしい。花からすれば、他の人より上にいる者は皆同じである。そういう者たちは、自分の身が一番大事なのだ。  大きな街には、賢者と呼ばれる、院での修行を結実した者がいる。その者たちや、賢者にはなれなかったが修行を続ける修行僧により、頑丈な結界が敷かれ、魔物から人々の生活を守っていた。物の流通の道を守ったり、運ぶ商人の護衛もする。  しかし白百利のような辺境の街には修行僧さえ来ず、魔物はおろか、悪霊の類いさえもほったらかしだ。出来ることは、自分たちでやるしかないのが現状だった。今まさにそうであるように。 「動くなよ……」  花が、つま先で地面を二度叩いた。苔で湿った地面の感触を確かめる。  女の声はあれから聞こえない。早く助けなければ。手遅れになる前に。  これが悪霊の類いであるならば、自分にも分がある。 「は!」  花の長い足が地面を蹴る。枝と同じ淡い光が、地面と衝突した彼の足から咲く。  一瞬の間の移動だった。  彼の手で光る枝が、黒い塊に突き刺さる。だがまるで手応えがない。暖簾を押しているかのようだ。  思いついた花は、とっさに黒い塊の中で枝を振った。それが功を奏した。破れた黒い布から漏れるようにして、枝の光が溢れ出た。  今だ!  花は黒い塊の中に、体半分を突っ込んだ。 「この……っ!」  何も見えない。手探りで、腕らしきもの掴み、そのまま思いきり体を後ろに引く。勢いよく飛んだ花が、地面でひっくり返った。その体の上には、誰かが乗っかっている。  意識のない人間は重いものだ。その重さ敷かれ、もがくものの起き上がれない。そうこうしているうちに、散ったはずの黒い塊は再度集結に成功したようだった。  ……何だこの音。  橋に反響する水音で気づかなかったが、低く響く音がする。大きな蜂が近くに大量にいるような感じだ。  苦労して、ようやく女の下から這い出た花は、酷く肩で息をしていた。女に上に乗られて苦労するのは、地面でも寝台でも御免だ。  握った手に枝がない。周囲を探すが、倒れた時に飛んでしまったらしい。遠く離れた地面で、枝は元の見窄らしい枯れ木に戻っていた。  花は舌打ちした。女の意思もない中で、得体の知れない敵から彼女を守りきるのはとても難しい。何か思いつく時間が欲しい。しかし黒い塊は、彼を待ってくれそうもない。  黒い塊は大きく畝った。同じような光景を見たことがある。椋鳥の群れだ。鳥は一糸乱れぬ隊列を組んで、畝りながら空を飛ぶ。だが鳥はこんなふうに橋下に潜み、人間を襲ったりしない。  意識のない女に目をやる。死んだようにピクリともしない。もし花が彼女と距離を置けば、あの黒いものが狙うのはきっと彼女の方だ。  花は女の前に立ち塞がった。黒い塊が怒りに畝る。  向かってくる黒いものから女を庇った、その時だ。  ――ダッッ!  重く鈍い音と共に、地面に剣が突き刺さった。それを確認する間もなく、辺りには旋風が舞う。  巻き起こった風は強く、とても目は開けられない。竜巻と同じだ。油断すれば体ごと宙に持っていかれる。  黒い塊は風の中、少しの間耐えていた。だがほどなくして風に負け、一糸乱れなかった群れが散り散りになる。  蹴散らした風は徐々にその強さを薄め、やがて完全に止んだ。  辺り一帯、土煙が酷い。  咳き込みながら目を眇める。土煙の合間から、地面に突き刺さる短剣が見えた。やはり彼の剣だ。予想はついていたので驚かない。  剣は、花の肘から指先くらいまでの長さしかない。街で見かける普通の剣より短く、だが短剣と呼ぶには長いという、少々癖のある代物である。  刃の部分は切先に向かって緩く弧を描く。おそらくこの大陸のどこでも、こんな変な剣に出会うことはそうないだろう。剣の持ち主は鼻で笑ってそれを否定するが、花はそう思っている。  こんなふうに奇妙な剣だが、先ほどのような重い音を立て、凄まじい旋風を起こす。初めてこの剣を見る者には、俄かには信じがたい話だろう。  しかし花は、この奇妙な剣の持ち主を誰よりもよく知っていた。少し擽ったい言い方だが、おそらく彼がこの街で一番強い。  突如、階段上から誰かが飛び降りた。紺と紺碧の裾が風に翻る。長い足が地面に降り立つと、それは予想した通りの男だった。 「影音」  花とはまるで反対の雰囲気を持つ彼の名は、影音(インイン)。花の義兄である。  例えば花が、凡丹(ボンタン)の淡い薄紅のような雰囲気を醸し出すなら影音は、彼の衣と同じ、鋭く強い紺碧のような空気を持つ。陰と陽、北と南、右と左、正反対の二人である。  影音の長い髪は、低い位置で束ねてあった。高い位置で結い、活発にそれを揺らす花とは、髪ですら対照的だ。  束ねた髪に飾り紐などはなく、簡素な衣服の腰元にも、玉佩すら帯びていない。  印象的なのは、彼の刃のような、剣眉の下の鋭い眼差しだ。花とそう変わらない年齢にしては、目が合った者をたじろがせるほど、その眼光は鋭い。  まるでその年齢で、この世のありとあらゆる修羅場を潜り抜けてきたかのような瞳が、ちらりと花の後ろに視線を送った。 「いつの間に女ができたんだ」  影音が花の腕を掴んで引き起こす。そして全く興味なさそうな視線が、倒れている女を一瞥した。 「そうだ、彼女は……」  慌てて女を確認する。  女の顔は血の気がなく、頬を叩いてみても起きる気配はない。恐る恐る鼻に耳を寄せた。ゆっくりだが、とりあえず息はある。花はほっと胸を撫でおろす。  怪我で血を流してないかなど、ひと通り確認した。少なくとも服の上から見る限り、それもなさそうだった。  安心し、花はその場に座り込んだ。突き刺さっていた剣を回収した影音が、面白くなさそうに後ろで鼻を鳴らした。 「これは一体どういう面倒ごとだ」 「何で俺が起こしたと思うんだよ」  酷い言いがかりだ。花は口を尖らせた。言ってみれば、花はその場に居合わせただけで、面倒ごとに自ら足を突っ込んだことを決めつける彼の言い方は不公平である。 「通りかかったら、声が聞こえたんだ。助けてくれって」 「で、助けにきたのか。武器も持ってないくせに」 「武器なら、……あれ?どこ行った?」  先ほど遠くに飛んで行った枯れ木が見当たらない。影音の攻撃で吹き飛び、とうとう川に落ちたらしかった。誇らしく、戦った自分の武器を見せたかった花は肩を落とす。あの枯れ木一本で彼女の身を守ったのだ。もう少し褒めてもらっても、ばちは当たらない。 「どうせそこらにあった枝でも掴んだんだろう」  さすがは影音、花がどう戦うかなどお見通しだ。 「だから剣を持てと言ってるだろいつも」 「あー……」  愛想笑いで誤魔化す花に、影音が嘆息する。  剣を常にその腰元に携える影音と違い、花は剣を持ち歩かない。  そもそもが、花は人間相手の喧嘩に武器を使わない。喧嘩に関しては、どんなに自分より大きな男でも、拳と脚で地面に叩き伏せる自信があった。 「人間相手の喧嘩の心配はしてない。今みたいなとこに出くわした時の話だ」  言われるだろうと予想していた花が肩を竦める。 「お前の踊跃(ヨンユエ)を貸してくれんなら、持ち歩いてもいいぞ」 「お前に使いこなせるならな」  確かにそれは、影音でなければ無理だ。  踊跃は昔、まだ影音が十五にも満たない頃、花と行った闇市で出会った剣だ。  一見変わった見た目だが、あくまでも剣である。飾り剣ではなく、戦うために作られた。しかし剣先に向かい緩く描く曲線の刃のせいで、剣は使い手を選ぶ。持ち主を剣が選ぶ、好き嫌いの激しい一面を持っている。  もう少し短かく他の短剣と同じ長さなら、女の護身用にでもなれたかもしれないが、装飾と言えば鐔に嵌め込まれた黒琥珀のみで、全体的に地味だ。それが影音の気に入っているところでもあった。  踊跃という名は、持ち主の影音ではなく、花がつけたものだ。  その名の如く、剣風で一旦巻き上げられれば、まるで風に踊るように敵は宙を舞う。その剣の舞台から、逃れることはできない。  しかしそれは、影音の力があればこそである。 「それはそうと、……見たか?」 「ああ」 「あの黒い塊みたいなの、一体何だったと思う。怨霊の一種か」 「お前の枝の光を嫌ったか」 「ああ、たぶん……。この()を中から引っ張り出すのに必死で、あんまりよく見なかったけど、嫌がってたと思う」 「引っ張り出した?」 「この娘、あの黒い中に居たんだ。閉じ込められて、中で苦しんでた。息が出来なかったのかも」  腕を組んで聞いていた影音は、それに盛大なため息を零す。 「突っ込んだのか。得体の知れない敵の中に」  その声は明らかな怒りを含んでおり、花を狼狽えさせた。 「う、腕だけだって。腕だけ。すぐに出たし」  話の雲行きが怪しくなりそうだったため、慌ててそう付け足す。  義兄である影音は、向こう見ずな花のせいで、いつも心配が絶えない。花が赤子の時、影音の母に拾われ、影音の弟として家に来て以来、それはずっと変わらなかった。 「花、見ろ。絞められたような痕がある」  影音が娘の首元を指差す。  女の頭を持ち上げると、黒くくすんだ線が、女の襟から覗く細い首を一周している。意識がない理由はこれらしい。 「もう少し早く助けてやれてたら……」  見れば、こんなことが降りかかるのが気の毒なほど、まだまだ若い娘である。 「絞めたのが怨霊なら、一人で相手するのは無理だ」  花の肩に影音の手が触れた。 「何にせよ相当な怨みの類いだ」 「どう見ても、どっかの金持ちの娘だよな……」  女の衣服は、比較的上流のものだった。宝玉の入った簪と、高そうな帯飾り。身につけているものは、下町娘のそれとは異なる。  影音と、何か身元の分かるものはないかと探った。何の頓着もない様子で服を脱がそうとする影音を必死で止めていたら、帯から何かがはみ出してきた。玉佩だ。 「……梦华(ムンファ)?自分の名前かな」  街では最近、玉佩に誰かの名前を彫るというものが流行っていた。自分のものだったり、家族、あるいは想い人の名だ。なので名前があると言っても、本人のものとは限らない。 「良いとこのお嬢で、関連する名が梦华。まぁそこまで分かりゃ、きっと大丈夫だな」  まるで全てが解決したかのような声音で言う。それは大抵影音を呆れさせた。しかし素直で前向きなのが、小さい頃から変わらぬ花の特徴である。  そして実際に影音も、その時は花と同じように、これなら彼女の家族も簡単に探せるはずだと思ったのだ。 「そういや影音、何でこんなとこにいたんだ?」  ふと気になり、影音を見上げる。子どもの頃からこの義兄の背を抜けないまま、花は大人になった。彼の方が、拳三つ分ほど花より高い。悔しくも成長期にも追い抜けず、今に至る。 「西の空に妙な影を見た奴がいてな。川の向こうに向かったと聞いたんで、様子を見に行く途中だった」 「影?」 「ああ。どうせ椋鳥の類いだろうと、見た本人は言っていた。俺は手も空いてたんで、ついでに貧民街を周るつもりで来た」  影音が腕を組んで土壁にもたれ、長い足を交差させる。  彼はその強さから、住人だけでなく城主からも頼りにされていた。相棒の踊跃がなくとも、腕一本でどんな猛者も伸す。悪霊や怨霊にも臆すことなく、凶暴な魔物の前に立ち塞がり、後方の人間を守る。  無口で口下手、だが例え口では悪態をついたとしても、異変があれば必ず駆けつける。それが影音という人間である。  決して自ら言うことはないが、そんな彼の傍にいる花も同じく、皆に頼りにされるひとりである。 「おそらく見たのは、さっきの妙なものだろう」 「あんな怨霊の類い、見たことあるか今まで」  影音は首を振った。彼もまたさっきの妙なものに、思い当たる節がないようだった。 「だがあれは本体じゃない。……怨霊と言うより、力の一部か、何かしろの妖術だと思う」 「妖術……。そんなものを使う魔物が?」  この街の付近に出る魔物と言えば、花でも蹴散らせるくらいの強さのものばかりだ。あんな訳のわからない術を使うような魔物には、これまで出会ったことがない。 「ここから少し西の村の結界が、弱くなったらしい。村を通りかかった商人から、つい先日聞いたばかりだ」 「西か……。賢者は来ないって?」 「再三頼んで、来るには来るだろうが、どうせ後回しだ。半年は待つことになる」  修行者も賢者も、大きな街に集まる傾向がある。より金になり、より豊かな暮らしが出来るからだ。  花も影音も、他の賢者のように、院で修行を積んだわけではない。精神丹の鍛錬をするきっかけになったのは、捨てられていた「精神丹開花」という冗談のような娯楽本を、昔拾ったことだった。  院というのは修行のための学院のような場で、その学院は必ず山の天辺にあった。修行者と俗世を断ち、欲を捨てるためだ。麓から院までは目も眩むような階段があり、入門者はそれを上がらなければ門をくぐることさえ出来ないと聞く。  院では、開花した精神丹を鍛錬し、その使い方を学ぶ。開花していることが前提なので、開花させる才能さえないものは、院へ上がる資格もない。  娯楽本を、見よう見真似で鍛錬してみれば、花も影音もそれなりに素質があったわけである。二人の精神丹は見事開花した。  人より少し素質はあった。ただそれだけだ。子供の好奇心の延長上のようなもの。花は自身の力のことをいつもそう思う。  だが彼は違う。  影音を盗み見る。腕組みで何かを思案中の彼は、すぐ花の視線に気づき顔を上げる。  影音は今でも毎日鍛錬を欠かさない。伸びしろのない花とは違い、一日一日、彼は強くなっている。 「修繕に行くのか」 「申し出たが断られた。最近外で、魔物の動きが活発になっている。万が一を考えて、街を離れるなと言われた」  それを聞いて合点がいく。当初影音はおそらく、もやもやと蟠る気持ちを沈めるため、貧民街に向かっていたのだ。結界が弱まった村がどんな不幸に見舞われるか考えて、居ても立っても居られなかったのだろう。 「魔物なら、俺が行くのに」  だが影音は無言でその提案を却下した。  彼は常にたくさんのことを考えている。そのたくさんの中で、花の安全は常に優先すべき事柄だ。 「……それで、家族を探すにしても、このままにしておくのか」  影音はそう言うと、顎で地面の娘を差した。 「で、どうするんだ。これは」 「どうって……」  どうするんだと聞かれても困る。情けなく娘を見下ろす。影音に「これ」扱いされた娘は、意識ないので怒ることも出来ない。もちろん、自分で立ち上がることも……。 「どうって……俺に聞くかそれ……」 「お前が助けたんだろう」 「そりゃそうだど……」 「最後まで責任を持てないなら最初から助けたりするなと、樂樂も俺も、口を酸っぱくして言ったはずだ」 「お前なぁ……、この娘は犬猫じゃないぞ、影音」  影音の目が笑っていることに気づく。彼がこの状況を面白がっているのは明らかだ。  花が心底り果て、何も知らず横たわる娘を見た。  それもそのはずだった。  もしも仮に、花がこの娘を背負って歩くとする。そうでなくても、その見た目と賑やかな性格のせいで目立つ花だ。その申し分ない見た目にも関わらず、今まで浮いた話のひとつもない。そのことが余計に、花からすれば余計な世話好きな人間の魂に、火をつけるのである。  彼が娘を背負って歩けば、そういう余計な世話好きな人間の、噂の種になるに違いない。そのうえ、屋台や店の者に見られれば、その日の晩時は、花の噂で店は持ちきりになるだろう。どう転んでも明日には街中に知れ渡ることになる。 「……それに俺、美館に行く途中なんだよ」  言い訳だと分かっていたが、花は食い下がる。 「早く行かないと、芽依に怒られる」 「こんな時間にか」 「この間の鉢植えに何か問題があったらしいんだ」 「芽依には俺が言っておいてやる」 「お前が美館に行ったら、街中の女が抗議に来るぞ。……とにかく」  咳払いした花は、階段の位置を確認する。もちろん、この場から逃走するために。 「このままだと遅刻なんだ。……悪い!」  言うやいなや駆け出す。階段を駆け上がったところで、ただ呆れ顔で見ている影音を振り返った。 「頼む!」  やれやれといった様子で溜め息を吐く影音に、花が上から叫ぶ。 「髭爺の茶館に連れてってやってくれ。爺さんなら、きっと身元も知ってる。……頼んだぞ」  最後の方は走り去りながら放たれたせいで、大声を通り越し、もはや怒鳴り声である。  立ち去った場所を暫く見ていた影音だったが、花の足音が完全に遠ざかったのを確認し、視線を落とした。見上げていた時とはまるで違う、冷たい眼差しが横たわる娘を射抜く。その表情は、彼が心の底から、目の前の面倒事を嫌悪してることを示している。  影音は無言で、腰元の剣の位置を正した。意識のない娘の両腕を掴んで、その体に背を向ける。  意識のない人間は、それがあるときよりも重い。だが彼の足はふらつくこともなく、軽々と娘をその広い背負う。  思いついたように、先ほど黒い塊のいた場所を振り返る。そこは薄暗い、湿った場所だった。  夏であればまだ昼寝をする者もいるかもしれない。しかしこの季節に、わざわざそんな寒いところを好んで休憩する者はいない。物乞いも、寒い場所は避ける。なぜこの娘がこんな場所にいたのか、疑問だった。それともあの黒いものが、女をここへ運んだのだろうか。  もしや人目につかない場所を選んだのか?  であるなら、あれを操ったものが、近くにいた可能性もある。 「結界を確認する必要があるな……」  街に敷かれたそれは随分と古い。修繕を繰り返してきたが、彼独自のやり方に何か不備があり、綻びが生じたのかもしれない。  冷えた風が影音の足元を掠める。  どうも、得体の知れない悪い予感がする。  眉を顰め険しい顔で、影音はその場を立ち去った。

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