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chapter 5 That Man Is 蘭

 約束した時間は正午だ。先に美人館へ行ったことには、植物の一大事という立派な言い訳がある。しかしこんなに送れたことは、もちろん予定外だった。  正直に言えば実は、美人館へ先に寄り道しても、まぁ間に合うだろうと高を括っていた。  家を出るときは、橋で娘を助けることになるとは思わなかったし、植物があんな状態だと思わなかった。ただ土を調合して、南へ向かう馬車にでも便乗しようという計画だったのだ。  花が着いた時、亜蘭亭(アランテイ)の店の前には、いつもの如く人が集まっていた。そのほとんどが女である。若い娘から年寄りまで、年齢層は幅広い。店の入り口を見ては、何やら囁き合っている。彼らは一様に、熱に浮かされたような目をしていた。熱狂的な熱い目で店を見ている。 「……飽きねぇのな」  彼らの熱心さときたら、呆れを通り越し、むしろ尊敬の念さえ覚えるくらいである。毎日毎日よくもまぁ、一人の男の顔を見るためだけにお洒落をし、店の前に何時間も立っていられるものだ。女というのは、こういうところが恐ろしい。  花は裏門へ続く閂を開け、路地を入った。路地を少し行くと門扉がある。昼間は開いていて、その向こうは賑やかな雰囲気だ。  裏手では、この季節にほぼ上半身裸で、屈強な男たちが忙しなく荷を担ぎ、行き交っていた。花を見た男たちが軽く挨拶をする。  亜蘭亭は骨董品を扱う店だ。骨董品だけでなく、街から街への荷の輸送、そして荷の輸送の護衛なども請け負う。それだけで終わらず、貸し家の管理、店の用心棒、白百利にはないが別の街では、闇市に店も出しているらしい。一体何の店なのか、花も気になっている。  方々に手を広げて商いをし、今のところ全てに成功していた。店は他の街にも支店があり、その支店も売上は好調だ。  それら全ては、亜蘭亭の主人、蘭の手腕であった。 「ああ、来たね」  裏口から店内に入ると、蘭はすぐに花に気づき、元から下がっている目尻を更に下げた。左目の片眼鏡を取り、花を見る。彼は普段から、鑑定など、細かいものを見る際に使っている。  そんな蘭に頷き返し、壁にかけてあった仕事用の服を羽織った。従業員に指示を出し、蘭は花ところにやって来た。 「今日はもう、顔を見せないかと思ったよ」 「ほんとに悪い。すぐかかるよ。まだ仕事残ってるといいけど」 「待って。髪が……」  急いで羽織った衣で乱れた花の髪を、蘭が微笑みながら直す。 「こんなに急がなくても大丈夫だよ」  乱れた服は、見た目もだらしない。だが手のかかる従業員に怒ることもなく微笑んで、蘭が花の服を正した。 「この前買った作業着は着ないのか」 「あんな高いの、作業着で着れるわけない」 「頑張ってるみんなに買ったんだよ。気にしなくていいって、何回も言ってるのに」  服の皺を伸ばす顔を盗み見る。彼は垂れ目で、笑った時、その目尻はもっと下がる。そして大抵この顔には、笑顔が浮かんでいた。  なぜ女たちがこぞって彼に夢中になるのか、この顔を見れば誰でも納得するだろう。  柔らかい物言いに、端正な顔立ち。何よりその佇まいには、品のいい色気がある。  長身の蘭は、おそらく影音よりも少し背が高い。二人が隣り合って並んでいるところを見たことがないが、もしそんな絵面になったら、街中の女が卒倒そうである。  蘭はいつも、色合いを考えた衣服を身に纏い、品の良い装飾品を少しだけ身につけている。派手すぎない、服に合うものだけだ。  艶のある髪は、大抵肩へ垂らしたままだった。正装などで結う必要が時は、その紐でさえ、着ている服に合わせて選ぶ。そこにあるなら、影音の物でも頓着なく使う花には、絶対に真似出来ない芸当である。  蘭の顔で印象的なのが、その、左の目尻下にある黒子だった。それが品の良い彼の顔を、色気のある雰囲気にしている。 「……走ったの?」  花の汗を見たからではなく、蘭は漂うその香りの強さで気づいた。だが美人館でしつこかった男のように、不躾に鼻をひくつかせたりはしない。  花の額に張り付く髪を、長い指がそっとかき分ける。美人館で男に触られそうになった時とは違い、花も彼には抵抗しなかった。まるで飼い主に甘える飼い猫のように、目を細めただけだ。 「中、着替えたら?風邪をひいてしまう」 「そんなことしてる場合かよ。ただでさえ遅れたんだ。さっさと取りかからないと」 「さっきも言ったけど、そんなに急いでしなくても構わない。荷解きはしてある。それにすぐには店に出さないものばかりだから」  亜蘭亭での花の仕事は、店に入って来る商品の仕分けだった。後で見た時にもきちんと分かるように、品物の見た目を絵で描き、詳細を記録する。目録を作って、初めて仕分けが出来る。  字の苦手な花でも出来るよう、分類はきちんと決まっていた。どうしても先の商品の分類に当てはまらない、つまり新しい種類の物があれば、その時は蘭に相談し、新しい分類を設ければいい。 「すぐ取りかかる。あんたの言うことばっかり聞いてたら、年が明けて春が来ても、商品は埃被って寝ることになる」 「雇い主が怠けることを勧めてるのに、働けと、従業員がその雇い主の尻を叩くんだね」 「そうだ。叩かれたくなかったら、ほら、邪魔すんな。行った行った。」  花の台詞に、蘭が声を立てて笑う。  花はそれを冗談で終わらせず、すぐ仕事に取りかかった。  店の仕事では、働いた時間分しか金は貰えない。それは花から申し出た。でないと、どこまでも優しく花を甘やかす傾向のある蘭に、自分自身もどこまでも甘えてしまいそうな気がしたのだ。実際彼は何度も、給与以上の金をくれたことがある。気づいた時に差額は全部返したが、それからも何回か同じことがあった。彼のおかげで、花は給与の計算が随分と得意になったのだ。  蘭との出会いは、花がまだ十代半ば、樂樂がこの世を去って間もない頃だった。  美人館で植物の世話をしていた時、突如現れた蘭に声をかけられた。  その時のことはよく覚えている。何せ、あんな印象的な男前が突然隣に現れ、植物の世話をするしがない少年に話しかけたのだ。覚えていない方がおかしい。 「いつもここの花木の世話してるのは、君?」  後から館で働いく知り合いに聞いた話だが、蘭は他でもない花を待っていたらしい。  花が世話するようになるまで、館の庭も店内の植物も、いまいち印象に残らない、あってもなくてもいいと言われるようなものばかりだった。  季節感もまるでなく、枯れかけのものもほったらかし。木も花も手入れもせず、庭には雑草が茂っていた。雑草の花が咲いても、花であれば、雑草かどうかなどきっと気にも留めないのだろうが。  まぁ、それも無理はない。  花や木など、どうせ客の方も気にも留めやしない。彼らは娼妓という花に会いに来るのだ。  花が雇われるようになってから、館の植物は一変した。庭の木も、店内の植木や花も、彼が手入れしただけで、見違えるほどその雰囲気を変えた。  華やかに視界を彩るそれにまず喜んでくれたのは、娼妓だった。  それまで住居棟と言えば、壁に囲まれているせいで窓を開けても殺風景だった。手入れされた庭が荒んだ心を癒してくれることに、いち早く気づいたのが彼女たちだ。  そうして娼妓の皆は喜んでくれたものの、店内の花木の変化に気がつく客は皆無だった。まぁ仕事は仕事だ。あるだけでありがたいと思え。そう自分に言い聞かせながら、仕事をしていた。  そして、店内の花木の変化に気づいたのが、他でもない蘭である。  そんな蘭だが、彼は館の客ではなかった。亜蘭亭からたまたま納品に来て、目を楽しませる植物のことが気に入ったらしい。そしてその植物を世話するのは誰なのか、好奇心が湧いた。数日後、花が来る時を狙って、彼は再び館へ納品に来た。  それ以来、花だけに留まらず、飢えたり路上で寝たりしないで済むよう、花の知り合いにも仕事を与えてくれている。言ってみれば、もう一人の義兄のような存在である。    忙しく仕事に没頭していた頭を上げると、いつの間にか外はすっかり茜色だった。  蘭を見るために待っていた女性たちの集団も、もう解散の時刻だ。  筆を横に置き、一息つく。花は立ち上がり、凝った体を伸ばした。そろそろ明かりをつけた方がいいだろう。戸棚から燭台を取り、蝋燭に火をつけようとしたところで、後ろから声がした。 「つける必要はないよ」  蘭は少し前からそこにいて、没頭する花を見ていたらしい。いつの間に着替えたのか、昼とは違う服だった。自室に引きこもる際に着るような、気軽なものだ。 「あ……、そっか。もう、閉める時間か」  あまりに集中していたので、閉店時間のことなど頭から飛んでいた。  亜蘭亭はいつも、陽が傾く頃には店を閉めている。残るのは店の二階に自室を構える、店主の蘭だけだ。  窓の向こうから差し込む茜色が、花の横顔を染める。  蘭は、燭台と蝋燭を花の手から奪った。 「下はもうほとんど帰した。残ってる者も、もう少しで作業が終わる」 「今日はやけに早いな。何かあるのか」 「明日、朝一で届ける荷があるから」 「最近街の周囲で、魔物が活発だって聞いた。護衛は大丈夫なのか」 「よく知ってるね。そうなんだ。最近、うちの荷馬車も被害にあった」  それは初耳だったので驚いた。 「幸い誰も怪我することなく、無事だった。護衛に聞けば、魔物はいつもより凶暴になっていたらしい。何か影響を受けるようなことやものが、最近あったのかもしれないね」 「影響を受ける何か……。何だろ。天気がころころ変わりやすいとか?」  素朴なその考えに一瞬目を丸くした後、蘭は口元を押さえて笑いを嚙み殺す。気づいた花が視線を送ったため、彼はすぐにそれを止めた。 「……馬鹿にしただろ、今」 「まさか」  恨みがましい目を受け止める、その柔らかな笑顔が憎らしい。 「今日は始めるのが遅かったし、俺はもうちょっと仕事してく」  いじけてしまった花がそう言って燭台を奪おうとするが、そのおっとりした性格からは意外なほど素早く、腕を逃がす。蘭は長身を生かし、花の手が届かない棚の上へそれらを置いてしまった。 「今日はもう、君の仕事はおしまい」  明かりも取り上げられ、店の主人にそう言われては、もう従うしかない。  不満顔の花の肩には、さりげなく蘭の腕が回った。 「珍しい砂糖菓子が手に入ったんだ。おいで。一緒に食べよう」

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