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第1話 1日目
「先生?」
玄関を開けた時、家の中が暗かった。酷く嫌な予感がした。あの人は夜に出歩くことなんてほとんどない。
動揺しながらリビングのおおよそを占領したアトリエに飛び込み電気を点ければ、大きなバツが乱暴に刻まれたキャンバスが目に入る。益々胸騒ぎがしてスマホをコールすれば、すぐ近くのサイドテーブルから聞き慣れた着信音が聞こえた。スマホの隣の小さな書き置きが目に入る。
『気晴らしに海を見てくる』
そしてその後に淡々と続いた文字に動揺する。
海。
こんな時間にスマホを置いて?
家を出たのはどのくらい前だ。ここから海まで電車でおよそ30分程。樺島 は免許を持っていない。この家の駐車場に置きっぱなしの車に飛び込み、一路海を目指す。
柔らかな振動が鼓動の速さと同期し、ますます不安が煽られた。手におかしな汗をかいている。ここのところ樺島の様子は特におかしかった。毎日のように描きかけの絵にバツが入れられていた。描けないと苛ついた声でつぶやく姿はいつもよりさらに不安定に感じた。
日は既にすっかり落ち、夜の闇に次々と現れては消え去る街灯の光の連続にスピードを出しすぎていることに気づく。頭は冷静になろうと努めても、気は焦るばかりだ。
樺島が自殺する。
樺島がいなくなる。そんな嫌な想像ばかりが湧き上がる。ずっと予兆はあった。車外の闇が一層冷たく感じられる。湾岸道路に差し入り、左手に昏い海が現れる。この道は神津 湾の長い海岸線に沿って続いている。
樺島なら、どこにいるだろう。頭を必死に働かせた。
海。樺島が行きたいと行っていた海。
「また来ようよ」
記憶の中の樺島がそう言ったのは確か去年の夏だ。暑い夏だった。サーフィンに行こうと言われてついていった。あれからもう1年と少しが過ぎた。記憶を辿って駐車場に車を停め、砂浜をザリザリと踏みながら樺島の名を呼ぶ。その声は冷たい波が寄せる音に打ち消される。焦りをつのらせながら左右を見渡す。暗い。ひょっとしたら違う場所かと考えた矢先、波間に何かの影が目に入る。
「先生!?」
思わず叫んだ。慌ててスマホのライトを向ければ闇の中に淡く浮かぶシルエットは樺島のようで、大柄な体の腰丈まで海に浸かりながらぼんやりとその先に広がる黒い海を眺めていた。その姿は何故だか妙に綺麗で儚く、そのまま夜に飲まれて今にも消えてしまいそうな恐怖に襲われる。だからザブリと冷たい波間に足を差し入れるのに躊躇はなかった。
「樺島先生! 何やってるんです! 戻ってきて!」
波の音で聞こえないのか。更に大きな声で怒鳴るように呼べば、ようやくその影は振り返る。ばちゃばちゃと重たい水に足を絡め取られながら息を切らしてようやく樺島の前までたどり着いた時、身長差で俺は胸下まで水に浸かっていた。寒い。心臓の近くにまで至るその水の冷たさに身震いする。樺島の手を取れば、氷のように冷たい。その表情は闇でよく見えないが、心ここにあらずといった様子だ。
「とりあえず出ましょう、ほら。風邪引くから」
「……樹 ?」
「え? ……ええそうですよ、浅井 樹です」
樺島の問いかけに混乱する。樺島は俺をいつも浅井君と呼ぶ。これまで名で呼ばれたことはない。
海岸まで戻って改めて眺めれば、樺島の髪から雫が滴っていた。潜った。海に。こんな時間に。こんなに冷たい海に。ふいに目の前の樺島の存在感が夜に紛れるように薄くなる。思わず体に触れれば体の芯まで冷え切っていた。まるで死人みたいだ。
明かりを求めて辺りを見渡しても何もない。この海岸は夏は人が溢れるけれど、今は泳ぐ時期じゃない。そうして秋の冷たい風が傍を吹き抜けるたびに体温を奪っていく。
「早く帰りましょう。風邪を引いてしまう」
震える手でエアコンを全開にする。車が水浸しになることを少しだけ気にしつつ、樺島が大人しく車に乗ったことに安堵する。家について一番に風呂に湯を貯め、リビングに戻れば樺島は帰った時とかわらず、静かに立ちすくんでいた。
「先生、どうしました? 着替えないと」
「着替え?」
いつもと違う平板な声。いつもはもっと。
「本当にどうしたんですか?」
樺島の腕を取れば、ようやくふらふらと視線を左右に動かした。まるで初めて見る場所のように。
「まさか記憶喪失とか言い出すんじゃないでしょうね?」
「記憶は問題ありませんが……うまく繋がりません」
「何で丁寧語?」
見上げれば、いつも綺麗にカールしていた髪が海水でごわついている。いつもは大げさな表情が溢れるその顔からは感情が抜け落ち、少し青くなった表面はやっぱり死人のようだ。そう思うと急に、どうしていいかわからなくなった。本当に海に潜った。きっと、本当に、死のうとした。
口の中が苦い。
「とりあえずお風呂に入ってください。体を温めないと」
「……はい」
それでもなかなか動こうとしない樺島の手を風呂場まで引く。樺島の服を風呂に置きに戻ればどうやら風呂には入っているようで、安心した。自分の体も酷く冷たいことに気がつく。
「お湯は残しといてください」
「……一緒に入りますか?」
「はい? ……いえ、先生が入ったあとに」
一緒に? 何の冗談だ?
とりあえず急いで服を洗濯機に放り投げ、干してあったタオルで全身を手早く拭いて自室で着替えてようやく落ち着く。そうしてどうしたらいいか、考えた。
樺島は多分、自殺しようとした。それは多分、絵がうまく描けなくなっていたからだ。
そう思って慌ててリビングで大きなバツのついた絵を片付ける。お湯を沸かす。紅茶の棚からジンジャーティの缶を取り出し、カップを2つ温める。ジンジャーティは体を温めるはずだ。他に何か簡単に食べるものでも作ったほうが良いだろうか。不意に背後から声がかかる。
「お風呂、ありがとうございました。入ってください」
「え? はい」
何故、余所余所しい。
丁度湧いたお湯をカップの1つに注ぎ、樺島の前に差し出す。その額にふれる。特に熱はなさそうだ。その様子をやはり、樺島はぼんやりと眺めていた。すぐに自殺をする様子も、なさそうだ。けど、それ以前の問題な気はする。何故だか酷く落ち着かない。目の前のその存在がとても不安定に思えた。
急いでシャワーを浴びてリビングに戻れば甘い香りがした。樺島がキッチンに立って、フレンチトーストを焼いている。
「あの?」
「ご飯を作っています」
「なんでフレンチトースト?」
「朝ご飯にフレンチトーストはおかしいでしょうか?」
朝?
鼻に漂う香りに、そういえば樺島がジンジャーティーを飲むのは大抵は朝だと思い出す。
「今は夜ですよ」
「そう……ですか。作ってしまいました」
「えっと、じゃあ食べましょう。俺も晩飯はまだなんで」
「そう。よかった」
やはり頭が混乱で占められる。何故、丁寧語? でもその微笑みは、先程よりいつもの樺島に近づいた。
皿を出せばその上に少し焦げ目のついた甘ったるいトーストが乗せられ、その脇にカットされたトマトが加わる。包丁を隠していなかったことを思い出し、けれども頭から振り払って皿をテーブルに運ぶ。
「頂きます」
慌てて俺も同じように呟き、フォークとナイフを取る。食事前に頂きますと言うのはいつもの樺島と変わらない。食べる姿も。そして甘ったるいはちみつたっぷりのこの味も。では何が、違う。
「あの、なんで丁寧語なんですか?」
「丁寧語? ……ああ、まだ少し混乱して」
急に晦い冬の海と冷たさが浮かぶ。そうして嫌な想像も。自殺をしようとしたあとなら、例えばあの海で溺れたら、寒さや酸欠とかで脳をやられてしまったりするんだろうか。
「先生、病院にいきましょう。今からでも」
「病院?」
「ええ。なんか変です。先生に何かあったら困りますから」
「変……」
樺島はそっと目を閉じる。そうして数秒経過する。
「……ごめん、ちょっとぼーっとしてただけだ」
「先生?」
「心配かけたかな、大丈夫だよ」
急に、目の前の樺島が記憶と一致する。話し方はいつもと同じ。けれども表情はまだ少しぎこちない。
「先生って病院嫌いな人でしたっけ?」
「……そうじゃないけど、大丈夫。多分ちょっと疲れてるだけ」
「そう……ですか」
疲れている。樺島はあの冷たい海にどのくらい浸かっていたのだろう。
「じゃあ今日は早く寝ましょう。明日の朝、どこか変だったら病院にいきましょう」
「わかった」
食べ終わった食器をシンクでさっと洗って食洗機にかけていると、樺島に背後から抱きしめられて硬直した。
「あの、先生?」
「樹」
なぜ、名前? そうして首筋に息がかかり、ぞわりとした感覚に肩が震えた。気持ち悪い。慌てて振り返れば額にキスをされ、酷く動揺する。
「先生、いったい何を?」
「え? あ……ごめん、なんだかまだ頭が働かないな。寝よっか」
その表情が上手く読み取れない。
そういえばこれまでこの人はやたら距離が近いと思うことはあった。でもキスをされたことなんてなかった。彫りが深い顔を眺めれば、そういえばこの人はクオーターなんだなと思い出す。生まれつきの大げさなスキンシップの一貫、なんだろうか。ふと眺めた時計の時刻は午前3時8分。寝ないと明日の仕事に差し支える。
「そうですね、もう遅いですし」
そう思って部屋に戻ろうと思った時、また呼び止められた。
「一緒に寝ないの?」
「え、一緒に、ですか?」
妙に読めない表情と先ほどの行動に異常を感じる。けれども何より、ふと、下手に断ればまた死のうとしないだろうかという思いがよぎる。別々の部屋で寝るよりは? そうして左手首が握られた。無意識に手を振りほどこうとしたけれど、今はあまり刺激したくない。
スキンシップが過剰じゃないか? でも樺島が珍しく酔っ払ったときはこんな感じだった気も、する。様子がおかしいのは自殺しようとしたからかもしれない。
「あの、何もしません?」
「何も? ……ああ。一緒に寝るだけ」
樺島はそう呟いて自室に入り、香のスティックに火をつけて振り返る。
「駄目?」
白檀の香りが広がる。部屋に入った後の行動はいつもどおりに見える。大きめのベッドに向かう樺島の姿を目で負う。一緒に、寝る? なんで?
ベッドのサイズ的には2人で寝ても問題ない広さだ。
「本当に変なことしません?」
「しないよ。樹と一緒にいたいだけ」
一緒に……。樺島は寂しがり屋といえば寂しがり屋なのだろう。だから俺たちは一緒に住むことにした。
一緒にいたがるのはわりにいつものことで、いつも一緒にテレビ見ようとか言われる。食事もなるべく、というか朝と夜は樺島が作るから、用事がない限り一緒に食べている。あまり干渉はしてほしくはないけれど、誰かと一緒にいたい。樺島はそんな矛盾を抱えた人だ。
恐る恐る隣に寝転がる。布団がかけられれば、樺島の匂いがした。つまりいつも部屋で焚いている香の残り香だろう。
「おやすみ、樹」
「……おやすみなさい」
一旦目を閉じれば体はぐったりと重い。よく考えれば大変な夜だった。海に飛び込んだりして。そんなことを思い浮かべれば、いつのまにか微睡みに落ちていた。
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