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第2話 2日目と3日目

 翌日は遅刻の瀬戸際で、必死に自転車を漕いでいた。  今朝、目を開ければなぜだか樺島に腕枕をされていた。というより抱きしめられていた。驚いて後ずされば、起きていたのか、わりに真剣そうな表情の樺島の目が合った。 「おはよう、樹」 「……おはようございます」  自分の胸元を見下ろしても服は寝る前のままだ。乱れてはいない。特に何か変なことをされてたりはしないようだ。……俺は何を心配してるんだろう。樺島と俺はそんな関係じゃない。スキンシップは激しいけれど、そんな素振りはこれまでなかった。だからきっとなにかの違和感を感じているだけだ。……自殺しようとしたことの。 「体調は? 大丈夫ですか?」 「ああ、元気だよ」  そういって微笑む樺島の表情は、昨夜より随分明るかった。ここ何日かよりも。だから調子はいいのかもしれない。一人で家に置いていっても平気だろうか。 「俺は仕事行きますけど、今日はゆっくりしてください。体調悪かったらすぐ病院にいくこと」 「わかったよ」  神妙に頷く樺島にほっとした。何かを思い詰めたりもしていなさそうだ。 「帰ってきたとき、ちゃんと家にいてください。一緒に晩飯食べましょう」 「わかったってば。いってらっしゃい」  そう言って樺島は俺の頬にキスをした。 「あの、先生?」 「どうした?」  樺島の表情を見れば、自らの行動に疑問は感じていないようにみえる。 「……ゆっくりしててくださいね」  これまで樺島にキスをされたことはなくはない。というかちょっとしたパーティの時には樺島は割と誰とでもハグをして、頬に挨拶代わりのキスをしていた。けれどもベッドでされたことはない。それを言えば、そもそも樺島と同じベッドで寝たことはない。  だから樺島にとって同じベッドで寝れば朝はキスをするもの……なのだろうか。いや、樺島も昨日混乱していると言っていた。そんな様々なことを考えていると思いの外時間が過ぎていたらしい。その結果就業時間ギリギリに会社の駐輪場に自転車を放り込む。 「めずらしいな、浅井が遅刻ギリギリなんてさ」  隣の席の同僚はそう茶化すが、確かに俺はもともと時間に余裕を持って行動する方だなとは思う。 「遅刻じゃない。今日は10時に佐久間(さくま)先生のアトリエに取材にいけばいいからまだ平気だ」  俺が働くアモルファス文芸は出版社で、文化芸術に関連する雑誌や本を出版している。俺はFuturesというカルチャー誌の担当で、今日は新進気鋭の現代画家である佐久間先生に取材に行く予定だった。  そういえば俺が樺島と最初に会ったのも取材だった。  そのころFuturesでは現代の印象画家を毎月特集していて、樺島の担当に入った。俺はさほど美術に詳しくはないけれど、樺島の描く絵はミシェル・ゴンドリーの映画のようにふわふわとした地に足のつかない現実感があって、なんとなく好みだった。そうして会ってみて、樺島自身のキャラクター性に驚いた。樺島自身が目立つ。外国の血が入っていることがひと目で分かるハリウッドスターのような深い彫りと大柄な体格に、パリピ感溢れるフレンドリーさ。住んでる世界が違うなと思わせる何かがそこにあった。  妙に人懐っこい樺島は俺にも気安く、何度かの打ち合わせと写真撮影を重ねるうちに、なぜだか妙に気に入られた。スマホの番号を交換し、美術に関連する取材でわからないことを尋ねる程度の仲になった時、一緒に住まないかと言われた。当時一緒に住んでいた人間が出ていったらしい。よく行くバーで知り合った人間とルームシェアをしていたけれど、県外に転勤になったそうだ。  何度か訪れていた樺島の家には確かに誰かが住んでいるような気配があった。そして提示された家賃は、当時俺が住んでいたマンションの半額だった。 「何で俺なんですか?」 「浅井君はなんていうか、一緒に居て嫌な気分にならないからかな。一人で住んでるのもつまらないしね」  樺島は薄っすらと微笑んだ。  その頃には誰にでも気安いと思っていた樺島が存外繊細なことに気がついていた。誰にでも一定までは親しい。けれどもそこから先のプライベートに至るには高い壁がある。端から見ていると、そんな様子が見て取れた。  俺はといえば就職してから始めた一人暮らしのマンションは、まさに寝るためだけの部屋となっていた。だから別に、そこじゃなくてもいい。 「駄目かな? 浅井君は俺を好きになったりはしないだろう?」  そのさらりと耳に入る自信過剰にも思える言葉は、その美しい顔立ちを見れば当然とも思える。樺島は俺の事情を知って聞いているんだろうかと疑問に思うが、俺が樺島を好きにならないことは間違いない。  少し不安げに俺を見る樺島の瞳は、なぜだか大型犬のように思えた。もふもふと温かそうだ。俺より15は年上のはずなのに、そんなふうには感じなかった。 「……そうですね」 「俺もさ、何ていうか恋愛はあんまりしたくないんだ。なんか浅井君からは大丈夫な匂いがする」  言葉にすれば不明瞭になるものの、樺島の言いたいことはなんとなくわかった。近すぎず遠すぎず、人肌を感じる無関心。ちょうどよい心の距離感。人というものはどうやら、近すぎると2つのシャボン玉がくっつくようにその関係性が曖昧になりやすいものらしい。 「いいですよ。では恋愛無しということで」 「本当に?」  どうやら流石に、即答するとは思っていなかったらしい。 「よかった。じゃあいつでも引っ越してきて。俺はだいたい家にいるからさ」  その場で鍵を渡された。  改めてその空いたという部屋を見に行けば、今住んでいる6畳より少し広めの8畳程度のフローリングで、荷物はすっかり片付けられていた。リビングとキッチン、バス・トイレは共用だけれど、ルームシェアや寮とでも考えればさほど違和感はない。  共用部分の使い方について樺島から説明を受けた。  自分の物はきちんと管理することや賞味期限が切れた食材は廃棄することなど、特に違和感を覚えるものはなかった。むしろその手慣れた説明に、いつも誰かと住んでいたという樺島の言は本当で、プライベートが近寄りすぎないようにうまく線引されているのだろうと感じた。俺も恋愛に巻き込まれたくない。  一緒に住むようになって2年ほどたち、お互い尊重しながら暮らしていた気はする。朝食と夕食はたいてい樺島が作ったものを食べる。樺島は料理が好きらしい。でも。あんなふうにハグされることなんてこれまではなかった。  そうすると、この変質はやはり海に入った影響だろうか。それともスランプの影響かもしれない。  これまで一緒に住んでいる間も樺島の短いスランプは時折あった。その時はいつもよりリビングが散らかっていたり口数が少なかったりした。そんな時は夕食は作れないと言われるし、なるべく話しかけずにただの同居人としてそっとしていた。そんな距離感だ。  ここ数日、というか先週くらいから樺島はそんな状態に陥っていた。絵が上手く描けないらしい。いつもより深刻なのか、俺が家に帰った時には部屋に閉じこもり、出社する時も出てこないことが続いた。ここ5日ほどは同じ家に住んでいるのにほとんど姿を見ていなかった。だから、少し心配していた。  樺島がスランプの時に酔って自殺未遂をしたことがあると聞いたからだ。  だから昨日はとても心配して。樺島はひょっとしたらそんな時に備えて、つまり自殺を止めてもらうために同居人を住まわせているのかもしれない。ふとそう思った。自殺未遂をしたのは酔っ払って家に帰った時だと聞いたから。  思えば見ている限り、樺島が家にいる時に酒を飲むことはほとんど無い。樺島は寝る時以外はいつもリビングにいて、俺といる時は一緒にテレビを見たりしている。樺島がウロウロしていないリビングは、何故酷く空々しく感じた。  結局その日は気も漫ろで、あまり仕事に身が入らなかった。  いつもより早めに家に戻り、リビングに電気がついていてホッとした。キッチンからはバターの豊かな香りが漂ってくる。 「おかえり、樹」  樹。 「ただいま、先生。調子は?」 「悪くないね」  その言葉を表すように樺島は優しげに微笑み、フライパンの上のチキンが綺麗にひっくり返されてジュウと皮が焦げる香りがする。ローズマリーの香り。チキンソテーとコンソメスープ、付け合せにほうれん草と人参が皿に並ぶ。いつもの機嫌の良い樺島、に見える。 「ちょうど良く帰ってきてよかった。ご飯にしよう」 「はい。よく帰ってくる時間がわかりましたね。いつもより少し早かったのに」 「……なんとなく?」  部屋着に着替えてリビングに戻れば、アトリエのキャンバスにバツがついていないことに気がついた。淡くオレンジ色に塗られ、その中心に人の輪郭が描かれている。スランプを抜けたのかはまだわからないけれど、少しは回復している気がしてほっとした。  樺島は終始にこやかでディナーは美味く、一緒に映画を見ようといわれたからソファに並んでくだらない恋愛映画を見た。 「樹、今日も一緒に寝ていいかな」 「いいですけど」  まっすぐ俺を見つめる瞳は澄んでいたけれど、よく考えればそれは俺と樺島の距離感ではない気がする。 「どうしてですか?」 「どうしてって?」 「これまでそんなこと、言われたことなかったし」  そう呟けば、樺島は戸惑うように瞬いた。 「そう、だっけ?」  まるでそんなはずはないとでもいうかのような返答。やはりまだ本調子じゃないんだろうか。 「ええ、もともと部屋は別々ですし」 「そっか。そういえばそうだった。ごめん。でももし嫌でなければ」 「まあ、別に構わないですけれど」  嫌かどうかというと、違和感はあるけれど嫌というほどではなかった。昨日も。 「俺が前と違うこととか変なことしてたら教えてくれるかな」 「……いいですよ」  変なこと。  全体的に違和感があるけれど、それが何だかはよくわからない。距離は近いとは思う。  けど、樺島はもともと、わりと気分屋なところがある。だから時折、突飛な行動をする。そう考えれば、その範疇といえるのかもしれない。いつもより人寂しい、とか。あんな冷たい冬の海に入ったんだし。  絵のせいかもしれないけれど、絵のことはきっと、センシティブだから触れないほうがいい気はしていた。そこはきっと最もプライベートなところだし、俺にはよくわからない。  そうしてその翌日も樺島の腕の中で目覚め、仕事をして帰って海老グラタンを食べた。何も変わらないような、けれどもよく注目していればどこかに感じる違和感。ふとそこにある不確かさ。けれどもそれは、気づかないだけでいつもあったものなのかもしれない。  絵は昨日より進んでいた。スランプは順調に抜けたんだろうか。 「明日は休みですけど、病院行きますか?」 「病院? あんまり行きたくないな。それよりどこかにでかけない?」 「どこか?」 「海、とか」  思わずスプーンが止まる。何故。 「何か忘れ物をした気がして」  忘れ物。海に? けれども一緒にいれば自殺なんかしないだろう、きっと。 「まあ、いいですけど、中には入らないでくださいね。海」 「わかってる、寒いし」 「当然です」

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