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第3話 4日目
また、目が覚めたら樺島の腕の中だった。温かい。そう思うのは今日が一段と冷え込んでいたからだろうか。冬は順調に忍び寄っている。
「おはよう、樹。もうちょっと寝る?」
上半身を起こして時計を見れば、まだ7時前だ。いつもと同じ時間に目を覚ます。いつもの休日は二度寝したり、起きたりとその日の気分による。けれども布団の外はまだ少し寒い。
「二度寝します。腕、痛くないですか? 部屋から枕をとってきますけど」
「このままがいい、嫌じゃなければ」
嫌かといわれれば嫌じゃない。そう思っていると抱き寄せられ、頬にキスされる。
「あの、キスとか前はされてません」
「え、そうだっけ」
まただ。何故意外そうな顔をする。記憶が曖昧なんだろうか。
「やっぱり検査はしといたほうが」
「……これはきっと検査で何とかなるやつじゃないから」
これ? 精神的なものということ?
「ちょっと記憶が混乱してるんだ。しばらくしたら問題なくなると思う。俺ももう少し寝るよ」
抱きしめられれば、樺島の顔は見えなくなった。接した体温が温かい。あの海から出てきたときとは大違いだ。そのことにホッとした。
記憶が混乱してるのは間違いなさそうだ。本当に大丈夫だろうか。日常的なことなんて、忘れるものなのかな。
樺島の温かさを感じながら、ひょっとしたら樺島はゲイなんだろうかと思う。あるいは前にいた同居人ともこんなふうに一緒に寝ていたんだろうか。
それはなんだか、イメージが違った。樺島は男女問わずに親しげだ。けれども2年も一緒に住んでプライベートで親しい人というのは見たことがない。間近で見る樺島はまるで彫刻のように美しい。こんなふうに一緒に寝るなら、きっと恋に落ちても不思議ではない。俺はそんなことにはならないけれど。だからこそ、俺は樺島と住んでいる。恋愛はしない約束。絶妙に確保される距離感。互いに踏み込まないこと。それが俺たちの関係だ。
そう考えれば、あまり樺島のことを知らないことに気がついた。俺たちは会話はするけれど、お互いのことを話したりはしない。それが俺と樺島との距離だと思っていた。
それからしばらくして、甘く香ばしい匂いで目が覚めた。リビングに向かえば樺島がパンケーキを焼いていた。
「おはよう、樹。2枚でいい?」
「はい。今日もタイミングがいいですね」
「なんとなく、そろそろ起きる気がして」
やはりその顔色は明るい。パンケーキがふわりと宙を舞うの視界におさめつつ、戸棚からメープルシロップと、冷蔵庫からジャムを出す。
「そういえば、一緒にどこかにいくのも珍しいですよ」
「……そうだっけ」
「そう。半年ぶりかな。前は掃除機が壊れたからホームセンターに買い物に行って、その前は……多分1年少し前に海に行ったときですね。先生が突然サーフィン行きたいって言い出して」
「遊園地とか映画とかは」
「俺とは行ったことはないですよ」
そうだったかなという小さな呟きが聞こえた。
樺島は個展を開いているときやなにかの企画があって外出する時以外は、だいたい家に引きこもって絵を描いている。日常の買い物もほとんどが宅配ですましている。
「そういや樹は前から俺のことを先生って呼んでたっけ」
「はい。それを言うなら先生は俺を浅井君って呼んでましたよ」
テーブルに綺麗に焼かれたホットケーキが乗った皿が置かれる。焼き加減もいつもの樺島と変わらない。
「そう……だったかな。浅井君に戻したほうが良い?」
「どちらでも。先生は先生って呼ばれたくなかったりしました?」
そう指摘されたことはないけれど。
「いや、もともと先生ならそれでも。成彰 でもいいよ」
「それは流石に不遜すぎる気がします」
「何で?」
何でって。家主だし、年上だし、画家の先生だし。でも特にそれが理由だと決めたことはない。
「なんとなく」
車の助手席に樺島が座る。シートを少し倒して外を眺める姿は気だるくどこか退廃的で、なんだか絵になるなと思う。
白い薄曇りの空。日が高く昇ってもさほど暖かくはならなかった。夏の日差しの温かさはきっともう過ぎ去った。
エアコンをつけて暖を取り、ラジオをつけて空気の密度を上げてようやく、車は滑らかに進みだす。すべての物事には温かさが必要だ。
国道をずっと東に向かえばやがて海が見えてくる。淡い灰色の雲が白い空に棚引いている。
何故海に入ったのか。
それは聞きたかったけれど、聞いて良いことかはわからなかった。
「同じところでいいですか?」
「うん」
3日前と同じ駐車場に駐めて外に出る。寒くてジャケットの前を閉める。海から吹く風が冷たい。白くくすんだ空に接続する暗い紺色の海はなんだか冷たく空々しい。
「どんなものを落としたんです?」
「メモかな」
「メモ……海に落としたのなら絶望的だと思います」
「やっぱりそうだよな」
樺島は海に向かって足を進める。足取りはしっかりとしている。波打ち際にしゃがみ込み、水に触れた。
「入りたい?」
「ちょっとね。……ああ、冗談だよ。少しだけ前の気持ちが残ってただけ」
「入らないでくださいね」
「うん。心配かけたいわけじゃないから」
ちゃぷちゃぷと引いては寄せる波が樺島の指先に触れているのをしばらく眺める。この人は一体今、何を考えているのだろう。よくわからない。潮風が樺島の少し巻いた髪をふわふわと揺らす。
「靴下の代えを持ってくればよかった」
10分もそうしていれば、緩急をつけて寄せてくる波が黒のスニーカーの内側まで染みたらしい。
「後でコンビニに寄りましょう」
「ありがとう。見つからなさそうだ。靴下を買って、倉庫街の方にでもいこうか」
樺島は立ち上がって伸びをする。4日前と違ってしっかりと立っている。
「買いたいものでも?」
「特に無いけど、まあいいじゃん」
湾岸道路をしばらく南下すれば、明治大正のころのレンガ倉庫を改造したショッピングモールがある。予定は特にない。向かった倉庫街は休日のせいか人混みでごった返していた。所々に大道芸や屋台が出ている休日感に、樺島は目を瞬かせる。
「すごく混んでるんだね」
「まあデートスポットですから」
「そっか」
樺島は無造作に袖をまくり、腕時計を眺めた。その様子が耳目を集める。何をしても絵になる人だ。
「ランチ、には少し早い気がする」
「朝食べたの遅かったし。そういえば美術展やってますよ」
「行ってみるか」
そこは倉庫を改造したギャラリーで、今は棚沢 画伯が個展をやっていると同僚の誰かが言っていた。棚沢画伯も抽象的な人物画を描く。樺島と違ってあんまりふわふわしてなくてカッチリした印象の抽象画。その画廊は倉庫街の外れにあるためか、他の場所に比べて空いていた。
樺島は並べられた絵を興味深そうに見入っている。
「棚沢先生の絵、好きなんですか?」
「好き? よくわかんないな」
俺も抽象画はよくわからない。なんとなく好き、なんとなく好みじゃない、そんなものだと思う。抽象画自体は嫌いじゃない。
「俺がさ、何で描けなかったのかよくわかんなくて」
「え?」
「ここしばらく描けなかっただろ? それが何でかよくわからなくてさ」
スランプの、理由。
「それは先生にしかわかりませんよ」
「そういうもの?」
「多分。描けるようになったのなら良かったのでは」
少なくとも、画家が描けるようになるためにはどうしたらいいかだなんて、俺にはわからない。苦しんでいる姿を見て助けられるものなら助けたいとは思った。けれども俺にはどうしようもなかった。そっとしておいて欲しそうだったから、そうした。踏み込まれたくないだろうとも思ったし。
「この人は描けなくて困ったりするのかな」
「どうでしょうか」
棚沢画伯はコンスタントに新作を発表している。モデルを使って描いていると聞く。何も見ずに頭の中に浮かぶものを描く樺島とは勝手が違うのかもしれない。けれど、どっちみち画家の頭の中なんてやっぱりわからない。
ぐるりと回ってみたけれど、さほど大きくない画廊だ。何枚か気に入ったポストカードだけ買って外に出ると、空が少しだけ明るくなっていた。きっと雲が薄くなった。カモメの鳴き声が耳に、風に乗った潮が鼻に届く。海というものが空気の中にもずっと薄く広がっているような気がする。
海、だな。
そう思っていると、そっと左手が繋がれた。思わず見上げれば、わずかに戸惑うような視線が絡まる。
「これも、違ってた?」
「そうですね。手を繋いだことはありません」
「そっか。……駄目?」
駄目? 手が大きいなと感じた。丁度冷たい海風に冷えた手が温まる。嫌な気分にはならなかった。
「まあ、いいですよ」
「ありがとう。また暇になったな」
樺島が覗く腕時計は12時半過ぎを表示していた。きっとまだ飯屋は混んでいるだろう。
樺島の家からレンガ倉庫あたりまでは1時間弱はかかる。出かけるのには少し遠く、俺もあまり詳しくはない。第一俺と樺島はデートをする仲じゃない。他に何があったかなと思って目の前の海をぼんやりと眺めれば遠くに船の影が見え、大桟橋からクルーズ船が出ていたことを思い出す。
「じゃあそこで」
桟橋に至る辺りには遮るものがなく海風が吹き渡り、樺島の手がより暖かく感じた。ところどころで音楽を奏でる連中は寒くないのかな。楽器を掴むむき出しの手を見て、ふとそう思う。
休日だから多少は混むと思っていたけれど、昼時だからか空いていた。天気があまりよくないからかもしれない。樺島は甲板の上でずっと海を眺めていてる。そのどこか遠くを見つめる瞳は、やっぱりなんだか絵になるなと思う。まるで絵の中にいるみたいだ。
その後割と有名なイタリアンに行く。その結果、何故だか夕食もパスタになった。
「昼のお店のほうが美味しいな」
「純粋な美味さとしてはそうかもしれませんが、あっちは高すぎます」
なにせサラダとドリンクをつけたセットにすればどれも2500円を超える。場所代だ。
「値段か……」
「俺は先生の作ったパスタのほうが合理的で好きです」
「合理的?」
イタリアンの後に倉庫街をひとまわりして、スーパーで色々食材を、思いの外様々なスパイスやソースを買った。だから樺島の料理が結構手が込んでいることを知った。夕食はだいたい樺島が作る。以前食費を払うと伝えたけれど、趣味だし味見してほしいからいらないと言われたことを思い出す。
「あのイタリアンのパスタは先生のより少し美味いけど、値段が不満です。でも先生のは美味くて何も悪いところがないのでとても満足感があります」
樺島はまた薄く微笑んだ。
「喜んでもらえて嬉しいよ。いつも気にしてたからな」
「何を?」
「いつも美味しいって言ってくれてたけど、他の店と比べてどうかはわからなかったし」
「あの、本当にすごく美味いですよ」
それは本心だ。人間関係を維持するために無理に嘘を付くような関係でもない。それに他と比べる意味もない。
「嬉しいよ」
そうして樺山は不意に顔を上げ、キャンバスを見つめた。今日は一緒に出かけていたから、当然ながら昨日のままだ。淡いオレンジ色に塗られたキャンパスの中に淡いピンク色の輪郭。
「どうして描けなかったんだろう」
「そんな時もありますよ」
「描けたはずなんだよ。今描けるんだから」
「まあ、そうなんでしょうね」
画家がどうやって絵をかいているかなんて俺にはわからない。けれども描けないからスランプになり、今はそれを脱したのだろう。その切欠は……やはりあの海か。海が何を樺島にもたらしたのかはわからないけれど、最悪な結末を逃れて良い方向に傾いた。それなら心配した甲斐はあっただろうか。
「きっと描けますよ」
「そうだろうね。描き方はわかる。けれど、描いちゃだめな気がするんだ」
「描いちゃ、駄目?」
「ああ。この絵を俺が描いてはいけない、と感じた」
不思議なことを言うものだ。
描けるけど、描いてはいけない。何故?
「よくはわからないですが、それなら違う絵を描いてはどうですか?」
「……そうだな。そうしようか」
それからカモミールティーを淹れて、隣りに座ってダラダラと一緒にテレビを見た。そして一緒に寝た。ただ、寝るだけだ。こんなふうにただ誰かと一緒に寝るなんて、随分久しぶりな気がする。何時ぐらいぶりかな。多分子供のころ以来だ。
「何で急に一緒に寝たいなんて言い始めたんです?」
「そうしたかったんだ。駄目なら断ってくれていいんだよ」
樺島の瞳は相変わらず、妙に澄んでいた。きっと本当に断ってもいいんだろう。そのことにほっとした。
「そう、ですか。別に嫌じゃないですよ」
「よかった」
樺島は体温が高いなと思った。
なんとなく、ドラマならこんなイケメンに抱きしめられたら恋に落ちるものなのかなと思う。俺には整った彫刻くらいにしか思えないのだけど。
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