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第4話 5日目(1)

 翌日曜。  起きればトーストとハムエッグが用意されていた。 「今日は何か違う絵を描くことにするよ」 「そうですか。俺は出かけるんで、何か必要なものがあれば買ってきますけど」 「今のところ、特にないかな。何かあったらメールする」 「わかりました」  食器を食洗機にセットして振り向けば、樺島は一昨日まで描いていた絵を窓際に置き、新しい白いキャンバスに向かっていた。なんとなく、前向きに思える。やはりスランプは脱したのだろうか。  思い返せば先週の樺島の様子はおかしかった。たくさんのバツのつけられた絵が乱雑に床に散らばっていた。いつもはそれなりに整えているのに、食器や服、何もかもが雑然とリビングに放り投げられていた。それに比べれば随分良い。  けれどもやはり違和感はある。  樺島は俺を樹と呼び、夜一緒に寝る。そして出かける時に額にキスをする。今日は違うことに少しホッとする。きっとそのうち落ち着けば、あるべき運行に戻るのだろう。俺より絵が気にかかるなら、きっとそれは良い兆候だ。  俺と樺島はどんな関係なのだろう。一緒に住んで、毎朝と毎晩一緒に食事をとる。その他の時間は寝る時以外、一緒にいる。たいていは隣か、正面に座っている。客観的に見れば恋人のように見えるのかもしれない。けれどもそれは、そう見える行為をしているだけだ。スキンシップの延長にすぎない。一緒に寝ている今も。  キャンバスを見つめる樺島の後ろ姿に区切りをつけて玄関を開けて見上げた空は、久しぶりに晴れ渡っていた。同時に乾燥した空気が鼻に触れる。気温は低い。もうすぐ冬が来る。  いつもは土曜日はゆっくり自室で休んで、日曜日は取材半分にどこかに出かけることにしている。昨日レンガ倉庫に行ったし棚沢画伯の個展にもいったからそれでも十分かと思ったけれど、樺島が絵を描くなら一人にした方が良いと思った。  絵を描くというのは特殊な作業だ。多分、すごく集中力がいる。俺は樺島が絵を描いているところを見たことがない。樺島はいつも俺がいない日中に絵を描いて、俺が帰る頃には片付けている。だからきっと、俺、というよりは誰かがいると上手く描けないかもしれないと思っていた。  以前に樺島にどうやって絵を描いているのか聞いたことがある。あれはちょうど良くテレビが途切れてそろそろ寝ようかという話をして、寝る前の紅茶を淹れたときだ。 「どうやって? そうだな。こういうのを描かないとってのが頭に浮かぶんだ」 「描きたいものを描いてるんじゃないんですか?」 「たいていは描きたいものが浮かぶんだけどさ、たまに描かないといけないものがある」  素人考えで場は嫌なら描かなければいいだろうと思うけれど、そう割り切れるものではないのかもしれない。昨日の樺島の言葉を考えれば、それが樺島にとってのスランプなのだろうかと思えた。一昨日描いていたオレンジ色の柔らかい絵。樺島のように、少しだけ心が温まるカラーリング。あの絵は、描かないといけないものなんだろうか。  足取りは軽い。なんとなく、車ではなく歩きたい気分だ。  最寄り駅までは20分ほど。どこに行こうか。そういえばツインタワーで面白い催事をやっていたような。部内の誰も訪れていない新しい企画や店に関しては、領収書を持っていけば会社から3割の補助が出る。面白ければ企画にして、提出する。アモルファスは文芸誌の会社だからか、その辺はゆるい。  そんなふうに色々とうろついて、不意に見上げたツインタワーの窓ガラスがオレンジ味を帯びているのに気がつく。このツインタワーはこの辻切のシンボルで、何はなくともよく見上げる。そしてもうすぐ夜が訪れるのを知る。いつのまにか時間が過ぎていた。最近とみに日が落ちるのが早くなった。  スマホを開いてメールがないのを確認して、途中でデリを少しだけ買って家に戻れば、樺島は朝出かけた時と全く同じ様子で座っていた。いつもなら俺が帰る頃には筆を置いて片付けているはずなのに。 「先生?」 「描けない」  朝出かけた時と同じく、キャンパスは白いままだった。 「……まだ本調子じゃないんですよ」 「違うんだ。多分、失敗した」  その声は些か深刻さを帯びていた。樺島がこんな声を出すのは珍しい。やっぱりスランプは続いているのか。でも、俺にできることはない。掛ける言葉も思い浮かばなかった。  湯を沸かし、ローズヒップティーを淹れれば華やかな香りが広がる。 「晩飯は俺が作りましょうか?」 「いや、それは俺が作るよ。料理は好きだから」  その言葉は少しだけ調子が持ち直したように聞こえた。荒れてはいないようだ。そのことに少しだけ安堵する。不穏な気配もない。例えばすぐにも自殺をしそうな様子は、ない。  部屋で着替えてリビングに戻れば、樺島はキッチンに立っていた。その姿を視界におさめながらタブレットを広げて今日見たものを簡単にメモにまとめていれば、ケチャップの香りが漂った。ケチャップライス。フライパンには油が敷かれ、溶いた卵が投下される。  次第にオムライスが出来ていくことに少しの違和感を覚える。樺島がオムライスを作る時は、調子がいいときが多い。何故なら最後にケチャップで絵を描くから。 「いつもと同じかな」 「どうでしょう。可愛いです」  俺のオムライスの上にはハートマークをバックに両手を広げた棒人間が、樺島のオムライスの上には幾何学的な何かが描かれていた。いつもはもっとふわふわしたものが描かれることが多い。入道雲とかフラミンゴとか。 「先生、無理されてます?」 「いや。でも後で樹に聞いてほしいことがあるんだ」  そうして食事が終わり、アールグレイのカップがテーブルに並べられ、席についた樺島は俺をじっと見つめた。 「樹、5日前から俺は変だろ? どのくらい変かな。正直に教えてほしい」  5日前。海に入った時。 「そうですね、名前とか、細かいところはたくさんあります。一緒に寝ようっていわれたのは変かもしれません。キスも」 「嫌だった?」 「……最初は驚きましたけど、嫌なわけじゃないですよ」 「違和感とか変化はあるかな。俺たちの関係に」  違和感。一緒に寝る生活。5日前と大きく変わったのはそのことだ。それは通常は大きな変化だろう。 「どうでしょう。特に変化は感じません。最初は驚いたけどもうあんまり。それに嫌なら嫌って言いますよ」  我ながら順応性は高いなと思ったが、嫌じゃなかった。だから特になんとも思わない。樺島は一体何が聞きたいのだろう。今更あの挙動に反省でもしているんだろうか。 「俺は樺島成彰じゃないんだ」 「はい?」 「けど、あと5日もすれば以前と変わらなくなるはずだ。以前と同じ樺島成彰に」  今は違うけど5日後にもとに戻る? 意味がよくわからない。 「それはあと5日くらいで復調するってことですか?」  樺島は僅かに目を閉じた。 「話すかどうか、悩んでいる」 「……言いづらいことなら無理に話さなくてもいいですよ」  樺島は迷うように視線を彷徨わせた。その探るような視線は、俺を観察しているように感じる。なんとなく、その視線にお互いのちょうどいい距離感というものが侵食されている気がする。初めて不快に思った。 「俺はいままでの関係が良いんです。重い話ならパスさせてください」  樺島の俺を見る視線は、やはりいつもの樺島のものとは違うように感じる。けれどもこの話を聞かなければ、きっと樺島の言うように、この話はいつもの日常に紛れてしまうのだろうとも思う。きっと、樺島と寝ることのない毎日に戻って。自分の手を見つめる。誰かの手を握ることができたのなんで、いつぶりだろう。  樺島の手は嫌じゃなかった。  俺はあまり他人に触れられたくはない。それが面倒な自体を齎すことが多いからだ。話をする分には何も問題ない。それは普通のことだから。けれども他人に触れることは気が引けた。  人間関係というものを発展させることがとても苦手だ。だからそれに関わりそうなだいたいの出来事を忌避していた。例えば一緒に何処かに出かけたり、手を繋いだり、キスをしたり、それから深い話をすること。俺はどう転んでもその話を受け止められない。だから結局、それらは俺の経験上、良い結果を産まないことだ。だからあまり、聞きたくない。  けれども樺島の手のひらは温かかった。人間の手って温かいんだなとふと思って、これまでその温かさというもの自体を気持ち悪く感じていたのを思い出す。  樺島と手を繋ぐことがなくなる。それならそれで別にいい。でも多分、樺島が何かを話したとしてもこれまでのように俺に何も求めないのなら、きっと平気かもしれない。思い返しても樺島から何かを求められたことはなかった。 「わかった。じゃあ」 「でももし、先生が話したいなら聞きますよ」

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