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第6話 6日目

 朝、クィは淡く人が描かれたキャンバスをイーゼルに立てかけた。その後姿はどう見ても樺島だった。  朝起きた時に感じた温度も額に触れた唇の柔らかさも樺島のものだ。  クィの言う通りであれば、樺島はあの海で死んだ。そして今、生き返っている途中なのだろうか。そんな馬鹿なことと理性は違和感を感じるものの、俺の感情は半ばそれを受け入れていたのかもしれない。 「浅井さん、何かあった?」 「え?」  同僚の声に顔を上げれば、随分手が止まっていたことに気がついた。 「集中力なさげだから」 「ああ。樺島先生がいまスランプなんだよ」 「……そうなんだ。大変だね。やっぱスランプの画家っていつもと違うの?」  いつもと違うかという意味ではだいぶん違う。けれどもそれは、同僚の言ういつもの、とはまた意味が異なるだろう。 「あのさ、前に樺島先生が自殺未遂しようとしたって聞いたんだけど」 「えっ、そんな深刻?」  同僚の眉が心配そうに下がる。 「……そうなったら困るなって思ったから。ほら、スランプの治し方なんてわかんないじゃないか」 「まあな……。そうだなぁ。高浜(たかはま)先生はスランプのとき自棄食いするって聞いたけど、あんまり参考にならないよな」   同僚は首を傾げながらそう呟く。  ケーキをたくさん皿に乗せた女性の姿が思い浮かんだ。確かに高浜先生はそんなタイプに思える。そもそも一口に画家と言っても中身は随分違うだろう。ただ、絵を描くという行為が共通するだけで。 「樺島先生はそんなタイプじゃなさそう」 「そうだなぁ。じゃ、パーティー行くとか? パーッと騒ぐ」 「あの人、別にパーティーが好きなわけでもないんだよね」 「え? そうなんだ」  同僚は意外そうに目を丸くするが、樺島の印象というものは一般的にはそういうものだと思い返す。あの人は騒ぎたい時にパーティーに行っていただけだ。結局騒いで気を紛らわせるだけだ。  思えば画家というのは孤独な作業なのだろう。多少の外での仕事の機会以外はずっと家でキャンバスに向かっている。だからたまに人に会いたくなったら、パーティに言って気を紛らわす。改めて考えれば、樺島はその明るく派手な様子と違って実は孤独な人間だったのかもしれない。  そういえば俺が同居するようになってから、樺島はほとんどパーティーに参加していないことに気づく。夜はたいてい家にいた。せいぜい個展の最初と終わり、何かの式典のときくらいだ。 「樺島先生ってどういう人なんだろうな」 「それ、お前が言う? 一緒に住んでるんだろ?」 「それはそうだけど、あんまり話はしないんだよ」 「変なの」  変だろうか。一緒にテレビを見て、たまに面白かったとかつまらないとか話す。食事をして、美味しかったと話す。思い返してもそのくらいだ。  ふと、樺島のフォルダを探って過去の記事を開いた。2年前に俺が取材したものだ。 ー樺島先生はいつから画家を志されたんでしょう。 ー画家になりたいと明確に思ったことはないんです。他に何もできなかっただけで。  その時、樺島は営業用の笑顔で朗らかに微笑んでいた。その時俺は、この人ならモデルでもなんでもできそうだなと思った。 「多分、画家の道がなければ野垂れ死んでいたでしょう」  だからそのその明るい表情のまま放たれたどこか後ろ向きな言葉を奇妙に感じ、そしてそれは紙面からカットされた。 ー気づけば画家になっていた? ーいえ、そんなかっこいいものじゃないですよ。描きたいものが描けるまで何も出来ないんです。運良く師匠に拾ってもらって画家としてのノウハウを教えてもらって今なんとか。 ー樺島先生のモチーフはパステル色を基調とした印象画が多いですよね。共通するテーマはあるのでしょうか。 ー印象……。これ、説明が難しいんですが、俺は見たまま、というか感じたままに描いているつもりなんです。  それなら樺島の世界はさぞ幻想的で美しいのだろうと少しだけ羨ましく思った。俺には少し遠い世界だ。  その時、樺島はセガンティーニという画家を引き合いに出した。もともとイタリアに生まれたが無国籍となり、様々な理由でスイスの高地に住むようになり、そこでアルプスを描いた。その絵はアルプスの太陽の強さを反映して、平地では考えられないくらい明るい。 「セガンティーニは見たままを描いたんだと思うんです。セガンティーニにとってアルプスの山々は只管明るかった。世界は明るく美しい。もちろん美しいだけじゃなくて厳しさもある。それが絵に現れている。俺も俺の感じる世界を絵に描いているだけなんです。俺にとって世界は美しく見えるから」  それは雑誌ではカットされた部分だ。ライトな文芸誌にとって、絵の解釈というモチーフは少し難しいと考えられた。だから結局紙面に踊ったのは、樺島が好きな場所やライフスタイルなんかが主だった。そしてそんな話題は樺島の外見にとても合っていたし、完成稿の確認の時も、何も言われなかった。 ー樺島先生の次回作はどういったものを予定されていますか?  その時、樺島は少し困った顔をした。 ー先ほどお話しした通り、描きたいものを描いています。次に描くものはその時にならないとわかりません。 ーありがとうございます。先生の次回作をお待ちしております。  描きたいものが描けるまで何も出来ない。描けるけれど描けない。あのオレンジ色に塗られたキャンバスの淡いピンク色の人物。幸せそうなカラーリング。描いちゃだめだったもの。  そうして今樺島が描いている絵。  家に帰れば絵はだいぶん進んでいた。  真ん中の人に見える球の輪郭が些かはっきりとしてきた。とはいえ印象画だから、それだけで具体的な何かに見えるわけではない。樺島の絵の濃淡は色味の差で現れる。グラデーションが等高線のように詰まったり開いたりする。温かい絵だ。いつもそう思っていたけれど、これはいつもより格別に暖かく感じる。触れた樺島の手のように。 「だいぶん進みましたね」 「ああ、おかえりなさい。気が付きませんでした。もう夜ですね。食事を作ります」 「なんなら俺が作りますよ」 「いえ、樺島成彰にとって夕食を作ることは大切な日常ですから」  樺島にとっては大切な日常。元の生活に戻すという約束。けれどもすでに消去されることが予定された日常に何か意味があるのだろうか。  樺島は手早く絵の具を片付け、エプロンを料理用のものに交換する。  キャンバスに近づく。人物の後にあるのは花かなにかだろうか。そんな印象のオフホワイトが弾けている。 「描くペースが随分早いですね」  樺島は普段、1枚の絵を1ヶ月ほどかけて描いている。 「既に絵は樺島成彰の認識にありましたから、それをなぞっているだけです。それにあと4日で描かないといけませんので」  あと4日。4日で描いてこの絵は廃棄される。今の不確かな状況でも、柔らかい印象が美しい絵。 「もったいないですね」 「そうかもしれません。けれども樺島成彰にとって、存在しては駄目な絵なんです」  禁忌。何故だろう。こんなにきれいで温かいのに。 「時間が遅くなってしまったので簡単にパスタにしました。続いてしまってすみません」 「先生の、いや、あなたのパスタは美味しいです。本当に」 「樺島成彰が作ったものと認識して頂いて結構ですよ」  その笑みは確かに樺島のものだ。  昨日のディルの乗ったサーモンの滑らかなクリームソースとは異なり魚介がふんだんにあしらわれたトマトの刺激的で香しきペスカトーレ。それからサラダに缶のスープ。樺島の技術を作ってクィが作ったものは、樺島が作ったものと言えるのだろうか。 「美味しいです。この間イタリアンで食べたのより」 「それはよかったです」  悪くない食卓と会話。けれどもこの記憶も消えてしまう。  食事の間、それ以外の会話はなかった。ただ、美味しいということだけ。特にこれ以上の会話が必要だとは思えなかった。それが俺と樺島の距離。けれども樺島の頭の中では俺ともっと様々な話をしていたのだろうか。 「絵の続きを描きますか?」 「いえ。一緒にテレビを見ませんか」 「時間がないのでは?」 「時間は確かに足りませんが、これも樺島成彰にとって大切な時間です」  ソファに並んで座ってバラエティ番組を見る。いつもと同じくたいして面白くはない。肩が触れ合わない距離。 「先生の頭の中では、この時間はどういう時間なんですか?」 「あなたとくっついています。たまにポテチなんかを食べていますね」 「そんなことはしたことがない」 「もう知っています」  樺島の左肩に頭をもたれると、そっと右手が握られた。嫌じゃない。 「先生はどうしても死ぬんですか」  テレビの内容はいつもどおり頭に入っていなかった。 「……樺島成彰は自ら死にました。とても強い意志です。私は樺島成彰が死ぬ直前より前の記憶には戻せません。その強固な自然に反する意思を変えるのは難しいでしょう」 「何故」  絵が描けなかったから。絵が描けないと何もできなくなってしまう。  だから死んだのか。気がつけば樺島の頬に手を触れていた。

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