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第7話 7日目
その日は朝から慌ただしかった。隣市の美術館の落成式の取材があった。
いつもより早くセットされた目覚ましを止めて起きあがると同時にトースターがポップアップする軽快な音が耳に響く。
「おはようございます」
「おはよう、クィ。よくわかるね、本当に」
「樺島成彰もわかっていましたよ。ただ、敢えていつも同じようにしてただけです」
「敢えて?」
「気持ち悪くはないですか?」
「何が?」
クィは穏やかに微笑んだ。笑顔の見本のような、樺島がしない表情だ。
「今日は一日絵を描いて過ごします」
「何か買ってくるものがあれば教えて下さい」
額にキス。優しく温かな軽いハグ。
「これも先生の頭の中に?」
「そうです」
そうしてもう一度、ハグされたまま額にキスされた。
一線を越えている。樺島の頭の中で、俺との生活はどういうものだったんだろう。これではまるで。
その日も晴れていた。早朝の揺れる電車の進行は通勤とは反対方向で、座れるほどではなかったけれども緩やかに開けた車内でつり革を握った。やがて再青川 の橋梁に差し掛かる。そこからは綺麗に神津湾が見渡せた。朝の光に照らされた波間はキラキラと太陽を反射する。まるで宝石を散りばめたみたいだ。けど、樺島はあそこで死んだ。
死ぬというのはどういう気分なんだろう。
そんなに何かが嫌だったのだろうか。
スランプ? スランプというのはそんなに苦しいものなんだろうか。絵が描けないのは死ぬほどのことなんだろうか。
そう思って我が身を振り返れば、特にこの仕事に思い入れはなかった。就活の時期にたまたま就職できたわりとホワイトで締め切りの前は少しだけブラック気味な企業。福利厚生はよく、全体的に見れば悪くないと思える会社。俺はきっとこの仕事をしていて死のうと思うことはないだろうと思う。
樺島は、例えば他の仕事はできなかったんだろうか。死ななくてすむような仕事は。
画家にならなければ野垂れ死んでいた。描きたいものが描けなければ何もできなくなってしまう。でもその描きたいものが描いちゃ駄目なものなら?
そんなもの、こっそり描いてお蔵入りさせて、別の描きたいものが現れたらそれを描けば良い。ただそれだけのことだ。
けれども死んだ。
橋梁の上だと地面の上より電車がガタリとよく揺れる。鉄橋の凹凸の振動が体に伝わる。その目の前を過ぎる鉄のフレームがまるで映画のフィルムのようにカタカタと次々に過ぎ去っていくのを見て、そしてその向こうで流れる波の反射はやけに作り物のように、色褪せて非現実的に見えた。遠くの世界の、まるで全てが遠く過ぎ去ったものであるかのように。そして唐突に、ああ、樺島は死んでしまったんだと感じた。
あの書き置き。
あれこそが樺島の中の真実だ。クィは色々と言っていたけれど、あの現実に移された行為と意思こそが樺島の真実だ。樺島は死ぬのをやめるつもりはなかった。けど、何かの奇跡で今、樺島は息をしている。ただ、それだけだ。
死んだ。
樺島は死んだ。
そう感じた。自然に。
いつのまにか握りしめたつり革には力が籠もっていた。
あの海の冷たさこそが、樺島にとっての真実だった。
昨日触れた樺島の体温は、既に失われたはずの体温だ。
死。
車窓から海が見えなくなっても、ずっと海の方向を眺めていた。もし魂というものがあるのなら、一度死んだ樺島の魂はきっとすでにあの海に沈んでいる。そう思えた。
だからクィはあの時、海に触れようとしたんだろうか。
樺島のメモ。樺島の魂。
その日の仕事もあまり集中はできなかったけれど、気がつけば時間は過ぎていた。帰りの電車から見た神津湾上空の空はオレンジ色で、その波間は複雑な色に揺れていた。あのキャンバスの色のように。
俺にとって樺島とは、どういう存在だったんだろう。樺島にとって俺とは、どういう存在だったんだろう。
手を繋いだり一緒に寝たいと思ったことはない。そもそもそんな対象ではなかった。俺にとっては誰も、そういう対象ではない。樺島にとってもそうだと思っていた。
会社に戻ってレポートを纏める。なんとなく、家に帰りたくなかった。既に樺島が死んだと認識した俺にとっては、帰れば樺島が死んだことを改めて認識するだけのような気がした。既に過ぎてしまった喪失。間もなく訪れる喪失。日々は何事もなかったように過ぎていくだろう。あの体から感じた温かさを失っても、何も変わらない。
だからいつもよりだらだらと仕事をして、それが終わればふと、社内のデータベースにあった樺島の資料を見た。
たくさんの樺島の絵と描かれたモチーフ。それが何だかはよくわからない。自分で見たままを描いてできあがったのがこの抽象画だというのなら、樺島の世界はとても美しい。俺にとって世界はこれほど暖かくはない。それぞれの人間が見る世界というのはきっと違うもので、その視点はきっと誰とも共通しないだろう。それはもちろん、俺と樺島も。
認識と記憶。
樺島はきっと、それがわかっていた。自分が見ているものが他の誰にも理解し得ないということを。とても孤独で、だからといって一人でいることは耐えられない魂。
樺島とは一緒に住んでいたけれど、ほとんど話をしていない。話をしようとしたこともなかった。それは俺の主観だけじゃなく客観としてもだ。ただ、目の前にあるものについて評価をし合うだけだった。面白いとか、面白くないとか。樺島からもそれ以外の話題をふられた記憶はない。
気がつけば、日付が回ろうとしていた。
「ただいま……クィ」
「おかえりなさい。今日はハンバーグを作りました」
「何で俺が帰る時間がわかるんです? 宇宙人の超能力?」
「そんなものはありません。なんとなくですね」
上品に作られたデミグラスソースは上等なワインの香りが少しだけする。
「クィ、料理は楽しいですか?」
「樺島成彰ではなく私、ですか?」
「ええ」
クィは僅かに目を閉じた。これはきっと、クィの癖なのかもしれない。樺島の体の中の樺島ではない存在。
「私にはそもそも楽しいという感情はありません」
「そうですか。じゃあ何故、料理を?」
「私は樺島成彰に生活を続けると約束しました。それは最低限でしか、このようにただの繰り返しという意味でしか果たすことができそうにありませんが、それまでの間は樺島成彰の望む生活を継続したいと思います」
樺島の望む、生活。
「例えば俺が夜、外で飯を食ってきても?」
「それなら、樺島成彰がそうしたように1人分だけ作って食べるでしょう」
生活。たしかに樺島成彰なら、そうするだろう。俺は仕事で忙しいときなんかは飯は食って帰ると連絡する。それで特に問題のない距離感。
「先生は死んだ」
「はい」
「5日後……今はあと3日か。その時もとに戻る先生の魂は死ぬ前の先生と同じもの?」
クィは僅かに口をつぐむ。
「魂という概念は樺島成彰の中にもありました。けれどもそれは樺島成彰にも私にも計測することができません。それがもしこの体に宿っているものであるのなら同じものかもしれませんし、違うものかもしれません。そもそも魂というものが何かを定義できませんでした」
そんなことはわかっていた。聞くまでもない。誰にもわからない。
樺島の幽霊。そんなものがこの世界のどこかにいるかどうかなんてわからない。つまるところ3日後に復元される樺島は、死ぬその日の樺島なのだろう。それは既に死んだ樺島と同じものだろうか。それはわからない。きっと樺島自身にも、クィにも。
樺島が再びあの海に潜る。俺はその場にいたとして、止められるだろうか。そして、止めてもよい距離感なのだろうか。
「先生は、俺をどうしたかったんだろう」
「様々な感情と認識が複雑に絡み合っていますが、解きほぐして単純化すれば、あなたと生涯を共にしたいと考えていました」
「生涯を?」
「はい」
一生というスパンはよくわからない。来週のことだってよくわからない。俺の日常は平板に過ぎていき、昨日と今日と明日の区別はあまりつかなかった。起きて、仕事をして、帰って寝る。その間に樺島と食事をして、テレビを見る。以前のように潰す時間が一人より樺島と一緒のほうが前向きだと感じていたけれど、それだけだ。
今日と同じ明日が続けば、そしてそれが死ぬまでに至れば、生涯を添い遂げたということになるのだろうか。
考えたことはなかったけれど、そのことについて特に嫌というほどの感情の起伏はわかなかった。
「よくわからない。俺は別に嫌じゃない。俺がそう先生に答えていれば、先生は死ななかった? つまり俺が復元された先生に一緒にいようと言えば、先生は死なない?」
そう呟けばクィは立ち上がり、リビングの奥からキャンバスを持ってきて椅子に立てかける。
「これが樺島成彰が描けなかったものです」
絵は更に進んでいた。色彩が溢れ、華やかになっている。中心の球が何かに挟まれている。単純に解釈すれば手、だろうか。それはぼんやりとして不確かだが、見ようによってはバレーボールを掴むように球を手で挟んでいた。
「これが?」
「はい。これが樺島成彰の心に訪れました」
温かい印象の絵だ。そして樺島を殺した絵。
そのような恐ろしいものには見えなかった。けれどもなんとなくわかってしまった。何故、この絵を描くことを樺島成彰が恐れたか。
その日も一緒にテレビをつけ、音楽番組を眺めた。特に何も話すことはなかった。そういえば樺島とテレビを見ていた時、樺島にときたま、今の話は変じゃないか、とか、あの場所にいったことある? とか問いかけることがある。
クィは特に俺に話しかけたりはしない。それは樺島の継続した生活の要素ではないのだろうか。気がつけば、樺島の肩に頭を寄せていた。
「先生の記憶を消してしまうのに、何故こんなことを?」
「これが樺島成彰の生活です。私はなるべく約束を守りたいと思うだけです。あなたが嫌でなければ」
「嫌じゃない」
温かい。
けれど、これはあと3日で失われるもの、か。
「先生が死んだら、観測の目的が遂げられないのでは?」
「仕方がありません。私は樺島成彰との約束のもとで、この体を借り受けています」
「クィとしては先生に生き続けてもらい?」
「そうですね。私の役目は観測ですから。けれどもそれは、樺島成彰の意思より優先するものではありません」
「そう、律儀なんだね」
樺島成彰と唇を合わせる。その体が、腕が俺を包み込む。嫌じゃない。けれども決定的にすれ違っていた。俺と樺島成彰と、それからクィも。かけちがえたパジャマのボタンのように。
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