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第8話 8日目 R15

 その日は樺島の作ったサンドウィッチを食べ、普通に家を出た。  普通とは何だろう。出かけに樺島は俺を抱きしめ、額にキスをした。これは普通なのだろうか。樺島の頭のなかでは普通だったこと。けれども俺にとってはここ数日で新しく訪れた習慣。けれどもすでに、普通になりかけている。俺はその行為を好んでいるわけではない。嫌じゃないというだけだ。つまり、否定する理由もない。 「なんとか明日の午前中までに仕上げます」 「できるんですか?」 「ええ、目処は立ちました。明日はこの絵を描きあげて、その後はこれを見て過ごしたいと思います」  あと2日で樺島は死ぬ。クィの言うことが正しいのなら、樺島はもう死んでいる。死とはなんだろう。そして2回死ぬことに何か意味があるのだろうか。身の回りで誰かが死んだことはない。だから想像できないのかもしれない。けれどもなんとなく、樺島が死んでも以前と何も変わらないのではないかと感じる。  そして変わらないことが酷く煩わしかった。  海に行くと描かれた紙の下の方には、同じ筆致でもし俺が死んだら財産をすべて浅井樹に譲るよと書いてあった。俺はそんなものが欲しいだなんて一度も思ったことがない。俺が一番不愉快に思ったのは、その言葉だ。それは樺島が俺を抱きしめてキスをすること以上に、俺の中の一線を大きく超える。  お互い何ももたらさない関係が心地よかった。  だからその申し出は、とても不愉快だった。  あれをもう一度書かれるのかと思うと、それはそれで許せなかった。  けれどもそれも俺の不見識なのかもしれない。樺島は、その頭の中で樺島は、すでに俺の認識する一線を踏み越えていた。このズレは俺が気が付かなかっただけで、去年の夏からあったものなのか。ただ樺島が見せないようにしていただけで。きっと俺が嫌がるから。 「気持ち悪い」 「どうした、浅井」 「え……あ……」  気づけば同僚が心配そうに見つめていた。 「調子悪そうだな。仕事が終わってれば帰ったら? 樺島先生に当てられてるのかしらないけどさ、お互いに潰れちゃだめだろ」 「まぁ、そうだな」  手元を見れば、今日の分の仕事は既に終えている。昨日の残業は、2日分ほどの余裕はもたらしていた。  あと、2日。2日もある。2日しかない。いずれにせよ、樺島は喪失する。死んでいなくなる。俺の記憶と認識からも。  午後休みと追加で2日分の有給をとって会社を出れば、すっかり葉を落とした銀杏が寒そうに路面に並んでいた。これらの木々も時間に沿って運行して、その葉や実を落とし、そして再生する。それはきっと、同じ木といえるのだろうとは思う。  電車のチケットを買い、海岸に降り立った。  あの夜は気が付かなかったけれど、思いの外、砂が白い。そしてところどころに海藻が打ち上がっている。遠くに何人か、サーファーが見える。それより先に船影も。カモメの声が聞こえた。俺に見える世界はそんなものだ。きっとこれからも。 「世界は美しい、か」  砂浜に座り込むと、白い空がやたらに広く見えた。  樺島が死んだ。ここで。きっとこの世界の比較的美しいと思える景色の中で。  クィは樺島が体を明け渡す約束をしたと言った。  体はまだ生きている。けれども樺島はきっと、その時点で死んだのだ。俺のことなどきっとどうでもよくなった。だから遺書を残した。……何も言わないまま。いや、何も言わせなかったのは俺かもしれない。  あれは去年サーフィンに行ったしばらくあとのテレビを見ながらの事だった。記憶の底に沈んでいたけれど、そういえばアレだけが、俺と樺島の間の目の前に見えているもの以外の話題だった。テレビの画面から派生したから、気にもとめなかった話題。 「あの女優さんって綺麗だよね。そういや浅井君ってあんな感じの人って好き?」  比較的有名な女優だった記憶はあるけれど、それが誰だかはもう思い出せない。 「特にそういうわけでもないですけど、嫌いでもないです」 「どういう人なら付き合いたいとかってある?」 「どういうっていうか……」  その時俺の視線は画面を見続けていて、すぐ隣の樺島の表情なんて気にしてもいなかった。 「先生は知ってるんですよね?」 「え?」 「つまり俺が……アセクシャルなこと」 「アセク、シャル?」  耳元で戸惑うような声が響く。  そういえばこの言葉は最近できた言葉で、多分一般的じゃない。俺も誰かに説明する時に便利だから使っているけれど、その意味はいまいちわからなかった。  俺は昔から他人を、いわゆる恋愛的な意味で好きになるという感情がわからなかった。友人とか家族とか、もっといえばペットが好きだという意味はわかる。相対的にそれは親愛というものなのだそうだ。でもそれの外側にあるという恋愛という感情はわからない。  何人かと付き合ったことはあるけれど、どれもその、薬でもやってるのかと思うような過剰な感情を向けられて気持ち悪いとしか思えなかった。頭がおかしくなったとしか思えない理不尽な行動。正常に思えない。 「誰かを好きになったりしない人。先生もそうなんでしょ?」 「そう、なのかな。でも恋愛は苦手なんだ。いつも上手く行かなくて」  樺島が恋愛がうまくいかない理由なんて、考えたこともなかった。それも俺の外の事情だから。 「もったいないですね。そんなに格好いいのに」  多分すごくモテるんだろうなとは思う。そう思って隣を向けば、樺島と目が合った。改めて見ても、映画俳優みたいに整っていた。 「それをいうなら浅井君ももったいない。俺はこんな綺麗な子は見たこと無いよ。おかげでちょっかい出す奴がいなくて助かる」 「そうですね」  樺島はその時、浅く笑っていたと思う。いつもと同じ笑い方。あの時既に、樺島の中でその頭の中と現実はずれていたんだろうか。  樺島と付き合っていると他人から思われることで、誰かに告白されることもなくなった。それはとても楽だった。俺が好意を持つ人間は、一緒にいるうちに変質し、俺が好きな人間とずれていく。普通にできていた会話が感情的になり、俺を責めるようになる。その変化がとても気持ち悪く、嫌だった。ただ、変化する前のその人間が好きだっただけなのに。だから俺は、樺島も同じ気持ちなのだろうと思っていた。お互いの丁度よい距離が継続できる関係。  だからあの遺書を見て、単純に樺島は俺を捨てたのだと思った。樺島は死ぬことで、俺と一緒に生活するのをやめた。すべてを俺に譲るということは、ついてくるなということだ。後を追うつもりもなかったけれど、明確にそう言われてしまうとひょっとして樺島にとって俺の存在は迷惑だったのかなとも思う。でもきっと単純な話だ。スランプも重なって、きっと俺と一緒に住むことも煩わしくなったのかもしれないと。  あの時、俺が何かしたのだろうか。  いや、むしろ、何もなかった。何かをすれば樺島は死ななかったのだろうか。けれどもあの絵を見れば、その死は必然だったのだろう。あれが樺島が見ている世界だ。俺が認識している世界の姿とは大きく違う。  だから樺島は明確に俺を捨てた。きっとその差が許容できなくなったからだ。これまで付き合った人間と同じように。俺は樺島を恋愛的な意味で好きになることはない。けれども信用できる友人といえる程度には好きだった。 「その2つの好きは、なんで同じ言葉なんだろうな」  その俺にとって明らかに異なる言葉が、言語上も明確に違うものであればいいのに。  クィと同じように波間に腕を差し込む。  打ち寄せる波からは冷たさしか感じない。吹きすさぶ海風は冷たさだけをもたらす。夜にこの海に入るほどの必要が、樺島にあったのだろうか。そもそも会話をするつもりのなかった俺にわかることじゃない。 「ただいま」 「おかえりなさい。今日はステーキを焼きました」 「そう」 「食欲はありませんか?」 「そうでもないけど」  思えば昼を食べていない。体は食べ物を欲し、夕飯は美味かった。オレンジペコをいれて、振り返る。キャンバスの絵はほとんど完成したらしい。ああ、やっぱりそういうことか。そう思った。俺の心にはそれ以上、何も浮かばなかった。それは俺にはわからないものだったから。 「明日は休みを取ったんだ。だから家にいる。邪魔はしないから」 「そうですか」  テレビの中で芸人がクイズに答えている。新しく日常となった樺島の肩に頭を乗せる行為。これも明日が最後だ。明後日に樺島は死ぬ。 「先生はどこまでを認識してた?」 「おそらく、あなたが想像している範囲は」 「そう」  この行為はすでに死んでしまった樺島には届かない。これから死ぬ樺島にも届かない。そしてここにいる樺島も消滅する。どこにも届かない行き止まりだ。つまるところ、何の意味もない。樺島の唇に触れた。クィは何の抵抗もしなかった。ソファに押し倒し、抱きしめる。嫌ではない。温かい。けれども意味がない。  目の前のどこにもいなくなるなら、樺島の頭の中を聞けるのは今しかない。けれども聞く価値はあるのだろうか。  樺島の認識。知りたいかといわれれば、必ずしもそうではない。けれどもこう開けっぴろげに喪失を振りかざされてしまえば、やはり少し気にはなる。  このキスは、現在起こっていることなのか、それとも樺島の頭のなかで過去に起こったことなのか、これから起こる未来のことなのか。ねとりと絡み合う唾液は紅茶の味がした。 「樹」  呼ばれた名前に思わず体が硬直する。目の前にいるのがクィではなく、樺島のように思える。そもそも樺島ではあるのだろうけれど。樺島にとって俺は樹だった。浅井ではなかった。首筋に両手のひらが伸び、再び唇が重なる。 「嫌じゃない?」 「嫌じゃない」  けれども、好んでもいない。  背中に腕が回され、思ったよりも強い力で抱きしめられる。首筋に舌が這い、シャツのボタンが外される。直に触れた肌と吐息はひどく熱かった。  興奮した部分が布越しに腹に触れる。これは樺島の認識なのだろうか。 「俺はテレビを見ながら先生とセックスしてたの?」 「樺島成彰の認識では、時折そうでした」 「全然そんなふうには思わなかった」 「樺島成彰は隠すのが得意ですから」  隠す。多分それは少し違うだろう。樺島はきっと、樺島が見えるままに世界を見ていただけだ。俺とは違う世界を。  樺島はその世界で、あの数少ない問いかけの合間に俺を抱いていた。  妙だ。そんなそぶりはちっとも感じなかったのに。そしてその手のひらに股間がまさぐられ、その温度に反応する。服の隙間に忍び込んだ手のひらが前後するにつれて呼吸が上がっていく。何故だか嫌悪感は湧かなかった。果ててしまうと、ザリザリとテレビの声が再び耳に入ってくる。これが俺の現実。 「風呂に入りましょうか」 「そういう認識?」 「いいえ」  風呂が必要な事実は俺と樺島の間にはなかったから。  風呂に入って、その日もクィと一緒に寝た。先程あの行為に及んだのに、俺の内心は特に変わらず平たいままだった。嫌じゃない。ただそれだけだ。やっぱり。いつもと違って寝る前から抱きしめられてたけれど、特に嫌ではなかった。  本当は触れられると嫌な気持ちになると思っていた。 「先生が死んだのは俺のせいかな」 「樺島成彰は自分の理由で死んだと認識しています」 「仮に先生が俺のせいだと思っていても、俺に罪悪感はない。俺のせいじゃないから。ただ、後味が悪い」 「そうなんでしょうね」 「先生は何故死んだんだろう」 「絵が描けなくなったからです」  そう、なんだろうな。あの絵との間にある溝は。樺島にはその世界を拒絶することなんてできないんだ。それこそが、樺島の中の真実だったんだから。

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