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第9話 9日目と10日目 R15

 目が覚めた時も、樺島の体は俺を抱きしめていた。  樺島の頭の中の日常。過去にも未来にも繋がらない、現在も不存在の樺島成彰。 「おはようございます、樹」  クィにそう呼ばれるのは何か違和感がある。何故だろう。樺島から呼ばれたと思った時は違和感はそれほどなかったのに。体を起こせばまだ外は暗かった。午前4時。中途半端な時間だ。けど、二度寝する気にはなれなかった。なんとなく樺島を抱きしめた。俺は別に樺島が好きなわけじゃない。でも、嫌じゃない。好きじゃないことは嫌いには繋がらない。 「私は絵の残りを描いてきますから、よければもう少し寝ていてください」  樺島の手のひらが俺の頭を撫でる。温かい。 「……わかった」  樺島がいないベッドは広く、次第に樺島のいたスペースの熱が失われていくのを感じていた。  死ぬというのはきっとこういうことなのだろう。目の前から失われる。少しだけ悲しいけれど、ただそれだけだ。  寝返りを打つ途中に天井が見えた。俺の部屋の天井とかわりはない。樺島は毎晩、ここで俺と寝ていたんだろうか。手を伸ばしても、天井には届かない。それは死んでしまった人間に手を伸ばせないのと同じようなものかもしれない。  起き上がろうと思えば、ちょうど良く紅茶の香りが漂う。イングリッシュ・ブレックファースト。リビングの扉を開ければスコーンが焼き上がっていた。そうして奥を眺めて、絵が完成したことを知る。  これが樺島を殺した絵。  たしかにこれは、一線を超えていた。  真ん中にある球に伸ばされる2本の腕。印象画というのはなんて残酷なんだろう。そこに残った確かなイメージでは、樺島が俺を抱きしめていた。それは正しく認識の問題で、そして絵の中の俺はとても幸せそうだった。  幸せ。樺島の見ていた世界。それが俺が見ていた世界と全く異なることを残酷に表す、現実の中にある絵。 「おはようございます」 「これを眺めて一日を過ごすとか、悪趣味だ」 「言われてみれば、そうですね」  カチャリとスコーンとジャムの乗った皿が目の前に置かれる。カップから柔らかい湯気が香りとともに立ち上る。とても心地よい朝食。これももうすぐ失われる。まるで舞台の最後に緞帳が降り、その内側をすべてが闇で満たされるように。 「けれども私は絵を見て過ごします。これは樺島成彰が見たかった絵ですから、なるべくその希望に沿いたいと思います。あなたに強制するつもりはありません」  死ぬほど見たく、死ぬほど見たくなかった絵。  この絵は樺島では描けなかったものだろう。直面してようやく、それがわかる。 「先生は2回死ななければならない運命だった?」 「そのつもりはありませんでした。たくさんの偶然が重なったからです」  俺が海で樺島を見つけて陸に引き上げた。そして俺を樹と呼ばせた。もし俺が海に行かなかったら、樺島を探さなかったら。クィの言では樺島の記憶にほどよい調整が施され、生きて戻ってこれまでと同じ生活が繰り返されただろうか。 「もし俺がみつけなかったら、先生はこの絵を描かなかった?」 「おそらくは。あなたとの生活を継続するため、この絵のことが浮かばないように認識を調整することになっていたでしょう。樺島成彰は思い浮かんだ絵を書き終えるまで、別の絵を描くことができませんから」  白かったキャンバス。バツのついたキャンバス。樺島は必死に他の絵を描こうとして、駄目だったのか。 「そうすると俺は変わらず自分の部屋で寝て、先生の認識では先生は俺と寝てたってこと」 「そうですね」  あのうっすらとした微笑みで樺島はその認識を隠し、柔らかく現実の俺を拒絶していた。俺と樺島は同じ場所にいなかった。  虚ろだ。けれども結局それが互いの距離感で、絶妙なバランスでそれが続いていたのだろう。共存できるちょうどよい距離感。そしてそれは失われた。そうするとこの絵はきっと、遺影なんだ。この絵の前で過ごすのは、どこにも届かない追悼のような気がする。 「俺もあんたに付き合うよ」  改めてキャンバスを眺めた。この絵の中の人間は俺じゃない。俺は触れられても幸せを感じることはない。  樺島の世界がこの距離を現実の俺に求めるのなら、それは不可能だ。絵というのは不思議なものだ。存在しないものを目の前に突きつける。これが樺島が描きたかったもの。そして描くことが禁忌だったもの。  この絵が描きあがってしまえば、きっと樺島の心は一線を超える。その世界は確かな姿として、現実がその頭の中と同じ深度で樺島の前に現れる。それを自覚してしまえば、抑えることはできるのだろうか。俺はこの距離の中では息ができない。俺にこれを求めることはできない。だから描いてしまえば、というか心に浮かんだ時点で樺島と俺の関係は終わった。  樺島はもうすぐ俺の前から完全にいなくなる。  樺島にキスをした。樺島も舌を絡める。唾液が絡まる音がする。その体に腕を回す。温かい。 「俺は先生の好きにはなれないよ。こんなふうに幸せそうに笑えないし」 「わかってます。だからこそ、樺島成彰にとってこの絵は耐え難い禁忌でした」  だから死んだ。描けなかったから。樺島はその心に訪れた世界を描かなければ、次に進めない。 「でも、嫌になったりはしないから」  あの絵のように頬に両腕が伸ばされる。俺はこの行為であの絵のように幸せになれたりはしないけれど、嫌ではない。  樺島のシャツのボタンに手をかけた。自分の意志で誰かの服を脱がすのはいつ以来だろう。妙な気分だ。樺島の腕は俺の体をなでさすり、ひんやりとした感触とともにそっと指が俺の内側に差し入れられる。  気持ち悪い。でも、嫌ではない。とても奇妙な感覚の訪れ。同時に胸に樺島の舌が這う。これも嫌では、ない。頭を抱きしめれば、樺島の匂いがした。 「これが先生の認識?」 「ええ。だいたいは」  だいたいを外れる部分はわかる。あの絵にあって、俺にないものだ。  しばらくさせるに任せていたけれど、やはり幸福というものは訪れそうにない。けど、嫌ではない。樺島の立ち上がった部分に液体を塗りたくり、そっとその上にまたがると、鈍い痛みを感じた。 「大丈夫?」 「大丈夫。嫌じゃないから」  しばらく動けば少しだけ滑らかになり、樺島が求めるままに舌を絡める。樺島の体の体温が上がったのを直接感じる。誰かに抱かれるのは初めてだ。これは通常、幸せを運ぶ行為なのだろうか、あの絵のように。そう思えば、絵の中の俺はやはり、俺ではないと感じる。  体の中に感じる違和感が消え去ることはないけれど、それでも樺島の行為は俺を気遣うように丁寧で、樺島が果てるまで苦痛を感じることはなかった。体の中にあったそれは、そうして抱きついた樺島の体はとても温かかった。  この樺島の体としたセックスは、当の樺島自身とはどこにも繋がらないのに。  そうしてその日の残りの半日ほどは、幸せそうな俺の絵の前で樺島とだらだらと裸で過ごした。その温度を感じていたかった。間もなく失われてしまう温度を。体を交わしたりはしなかったけれど、嫌ではなかった。いつもと同じように隣に座って頭をくっつけ、特に話をすることもない。 「俺はさ、先生のあったかさが好きだったんだよ。一緒にいたかった。ただ、一緒にいたいだけ」 「そうなんでしょうね」 「先生はなんでこの絵を描こうと思ってしまったんだろう」 「本当は描きたかったんですよ」  俺じゃない絵は微笑み続け、俺は微笑むこともなく微笑む樺島と過ごす奇妙な一日。この現実の奇妙な交差は一体何を回顧しているんだろう。きっと最初からなかったものか、あったけれど失われたもの。あるいは手に入るはずがないもの。  そんなことを思いながらいつのまにか眠りにつき、再び目をあければ毛布がかけられていた。やはり樺島は俺を抱きしめている。まるでぬるま湯のように暖かく、まどろむように再び目を閉じた。 「そろそろ目を覚ましてください」  体が揺らされる。目を開けると、幸せそうな俺は既にいなかった。 「……処分した?」 「ええ。もうすぐ記憶を戻します。服を着てください」  服を着て、樺島が死ぬ。この10日がすべてなかったことになる。そうして樺島はまた遺書を描くのか。仕方がない。樺島に口づける。抱きしめた樺島は温かかった。この温かさは間もなく失われる。 「樹?」  シャツに袖を通す。俺は樺島が遺書を残しても、何も受け取らない。それが俺と樺島の、俺にとっての距離感だったから。 「寒い」 「エアコンを強めますか」  ふいに海から上がったばかりの樺島の体の冷たさが思い浮かぶ。あんなふうにまた、冷たくなるのか。そう思えば、世界がなんだか薄暗く感じた。世界の寒さというものを感じる。 「先生、海の中は冷たかった?」 「海、ですか?」 「先生がまた、あの海で死ぬのは可哀想だと思ったんだ。あの時よりもっと海は冷たいだろうし。先生がまた死んだら、クィはまた先生と取引する?」  胸に顔を埋めれば、心臓が暖かく拍動していた。 「いえ、蒲島成彰は既に一度調整していますから、再調整はできません」  思えば、人を温かいと思ったことはなかった。抱きしめても嫌じゃない人間なんて、初めてだった。この先現れるのだろうか。  世界が果てしなく寒く感じる。  樺島が求めたように、俺があの絵のように樺島との暮らしに幸せを感じることはないだろう。けれども樺島との暮らしは確かに温かかった。  俺は何故樺島といっしょに暮らし始めたのだろうと思い起こせば、樺島が温かかったからだと思い出す。 「いいですよ」 「え、本当に? 俺は見ず知らずだよ。俺が言うのもなんだけど、一緒に暮らしていいの?」 「さぁ、何ででしょうね。別に嫌じゃないし」  樺島は温かかった。それは多分、樺島の絵を見た印象が樺島の印象とさほど変わらなく見えたからだろう。  闇で火を焚くように少し離れていても感じるその微かな温かさは、離れがたい。一人で暮らす俺の生活にはあんなふうに暖をとれるものはなかった。だから一緒に住むことは嫌じゃなかった。でも、もうあの火が消える。  もう一度あの海に樺島が沈む。俺にとってこの温かさはとても貴重に感じた。けれども俺は樺島の頭の中を認識してしまった。せめて知らなければよかったのだろうか。だから、俺も樺島と一緒にいることはできない。クィを間に挟んでではなく、樺島からその認識を直接向けられることに俺は耐えられないだろう。  好きの意味は随分ずれていたけれど。 「俺があの絵の俺になれば、先生は死なない」 「けれどもあなたはあの絵のあなたじゃない」 「わかってる。俺はあの距離感は許せないから。なぁクィ。あんたは先生の記憶を見たんだろ? 俺は先生を恋愛的に好きじゃなかったけど、人として好きで、ずっと一緒にいたかったよ」  でもその好きは、きっと樺島にとって意味がないんだ。だから死んだ。 「あんたは世界が観測できるならきっと、先生じゃなくてもいいんだろ?」 「ええ。蒲島成彰はたまたま私の前に現れたのです」 「なら、あんたに俺の体をあげるよ。あんたなら俺をアレに調整できるんだろ。俺は死んで、10日後にまたこの家に帰ればいい。場所なんか書かずに書き置きするからさ。あとはうまくやっといて」 「いいのですか?」 「恋愛的に好きじゃなくても、俺にとって先生は大切なんだ」  樺島は違ったみたいだけど。でもそれで樺島が再び冷たくならないのなら、喪失しないならと思うくらいには好きだった。このもはや俺には届かない樺島の温かさはたしかに好きだったんだ。  俺のせいで樺島が死ぬなんて、踏み込みすぎだ。それはやっぱり、俺の距離感じゃない。 Fin

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