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第10話 20年ほど前

「あなたにとってこの世界は水槽の外のようなものです」 「水槽、ですか?」 「ええ。樺島さんはご自身の水槽の中では快適に生きられる。でも外じゃ息が難しい」  カウンセラーの中垣内(なかごうち)先生にそう言われたのは、二十歳の頃だった。 「でも、じゃあどうしたらいいんだ。俺はやっぱり頭がおかしい」  そんな俺のつぶやきを中垣内は優しくさえぎる。 「樺島さん、あなたは眼鏡をかけた人を頭がおかしいと思いますか?」 「え? ……いやそんな」 「あなたの目は少しだけ、他の人の目に映るものが違うんです。水を通すと光が屈折するのはご存知でしょう。あなたの目も水槽の外を見る時、光が屈折して少しだけ歪んで見える。その屈折率が他の人より少しだけ、大きい」  中垣内先生の言っていることはよくわからなかった。でもその頃には俺は、俺の頭が俺の頭の外の世界を正確に認識しないことを理解していた。 「あなたの心はときに現実と異なるものを映します。それはきっと、あなたの目の前の水槽のガラスを反射した姿です」 「どうしたらいいんでしょう」  仲垣内はいつも同じ表情をしている。俺にはきっとあえて、そうしているのだろうとは思う。俺が混乱を深めないように。 「見えているものが現実かどうかは、樺島さんには区別がつくはずです。現実と混同しなければ、とりあえずは大丈夫ですよ」  俺は病名をつけるなら、妄想性障害らしい。その事実と異なる何かは、現実の端っこから水槽に絵の具を投げ込むように浸透してきて俺の見る景色を変える。 「樺島さん、私は樺島さんの絵は好きですよ」 「そう、ですか?」 「これは私を描いてくれたんでしょう?」  持参した絵は中垣内の部屋に飾られた。俺が見た中垣内の絵。それが普通に見れば人には見えないことは俺にもわかっている。でも俺の水槽に反射て拡散した光を通して中垣内の姿を描けば、この絵になった。  人はみんな、自分の水槽を持っているという。  他の人の水槽は、俺のより少し透明度が高いらしい。俺が見る世界は他の人より少しぼんやりとしていて、俺はそのもやもやとした陰の形をよく違うものに勘違いしていた。  絵を描けば、それを現実世界に固定することが出来た。これが俺が見ているものだと認識することができた。絵に描けばやっともやもやと不定に動くのを止めて、他のもやもやとしたものと区別ができる。 「そうですけど、そう見えますか?」 「ええ。私はあなたにとって親しいけれど少し冷たい人間のようです。正しい認識だと思いますよ。私はカウンセラーですから、あなたに寄り添いますけど一定の距離をとります」 「そういうものでしょうか」 「はい。あなたはあなたの見えるものを否定する必要はありません。あなたにはそう見えるんですから」  困ったら絵を描いた。よくわからないものは、そうして少し、よくわかるようになる。そういうものだと定義する。それが俺にとっての絵。  そして俺は画家になった。  他の人が何で俺の絵を買っていくのはよくわからなかったけれど、それで生活できるならそれでいい。普通に働くのが難しそうなのは、昔からわかっていた。他に生きていく方法が全く思い描けなかった、きっと俺にはこれしかなく、これが俺の天職なんだと思った。……それに部屋で一人で絵を描いている時は、余計なことに悩まなくて住んだから。  俺にとって絵というものは、冷えて少し結露した水槽の壁に指で絵を描くようなものだ。絵を一度描いてしまえばその形は俺の中に残る。だから売れて手元になくても問題はない。  人間関係は、相変わらず壊滅的だった。  俺は相手の変化を読み取ることがうまくできない。そして俺の中の水槽は曇っていて、その映すものはいつも真実とは異なる。  いつの間にか、水槽の壁を強く意識するようになった。俺の目にみえる存在と水槽の先にいる存在は、本質的には同じものだけど異なるものだ。俺が見ることができるのは蜃気楼のようなもの。俺はその2つを区別するようになり、現実的な対応は相手の水槽に向けて、そして俺自身は蜃気楼を相手を認識して生活することにした。どうせ相手からだって俺の曇った水槽の中はよく見えないだろうから。  そうしてその差があまりにも大きくなったとき、人間関係は破綻した。つまり相手の水槽も俺の水槽も時間が経つにつれてどんどんと濁っていき、俺が水槽の壁の先のことがちっともわからなくなった時だ。  別れはたいてい、相手から切り出された。大抵はこんな感じだ。 「成彰さんは全然私を見てないでしょう?」  俺はその問いに、何も言うことができない。それは真実だから。そして俺は、相手から見ると薄笑いをして、相手を馬鹿にしているように見えるようだ。 「そんなつもりはないんだけど」 「もういい」  相手は俺に愛想を尽かす。その人が目の前から去れば、俺の水槽の中で生まれた蜃気楼もいつしか消え失せる。所詮、蜃気楼は実体がなければ存在しえない。そうして何も残らない。別れは俺にとって一方的なもので、そのことにひどく、悲しくなる。俺は俺の水槽の中では蜃気楼とうまく生活できていたから。その予想された喪失を、俺ではどうすることもできない。  だからいつしか恋愛というのはうまくいかないもので、いずれ破局する虚しいものだと感じていた。誰かを好きになる度に、俺はどのくらいの間この人を好きでいられるんだろうと考えた。でも、なぜだか好きだと最初に言うのは俺じゃない。俺にとって、うまく断ることも難しかった。  なるべく他人と近くにいないようにした。でもそれではなんだか寂しいから、同居人を探すことにした。ただの同居人だ。俺を好きになりそうにない人。それでも人恋しい時は時折送られてくる招待状を開封した。どこかの誰かと少しだけ酔っ払って、たまにホテルに行って、それっきり。  樹に出会ったのはそんな時だった。 

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