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第11話 2年前(1)
最初、すごく綺麗な人だなと思った。
樹の水槽はとても透明度が高かった。透き通っていて、キラキラしていた。他の人みたいにごちゃごちゃとしていない。
でもこれは俺が俺の水槽のガラス越しに見た光景だから、本当は違うかもしれない。
俺の取材をしたいと言うので近くの喫茶店で打ち合わせをしたその次の回、アトリエの写真を撮りたいというからOKした。俺は自宅のリビングの一部をアトリエにしている。
「樺島先生、おはようございます」
「おはようございます。今日もいい天気ですね」
「ええ。早速撮影の機材を搬入していいでしょうか」
「どうぞ」
リビングに慌ただしくライトや反射板やらが運び込まれる。カメラマンの指示通りそれっぽく微笑んでみたりしているうちに、いつしか時間は過ぎていく。
樹の用意したテーブルの上に置かれた一輪挿しの梅から、少しだけ爽やかな香りがした。きっと俺は相変わらず薄笑いを浮かべているのだろう。それが紙面に載って拡散されるというのは、なんだかアンディー・ウォーホルの絵のようで滑稽だ。
撮影の間、樹は少し離れたところで佇み、時折カメラマンと少し話をしたりして、それから持参した水筒を開けて紅茶を飲んでいる。
撮影班が撤収する頃には、いつもと違う疲れに少しぐったりしていた。
「樺島先生、お疲れさまです。引き続き取材をお願いいたします」
「樹 さん、休憩にしませんか?」
「え?」
「スコーンを焼きました」
「スコーン、ですか?」
怪訝そうな響きに慌てて続ける。
「ええ。料理が好きなので。……ひょっとして甘いものは駄目でしたか?」
料理は好きだ。お菓子もたまに作る。美味しいものを食べると幸せになる。俺一人で直接的に幸せになれる試み。
なんとなく、紅茶にはスコーンというイメージだったけれど違っただろうか。
「頂きます」
少しだけ不安に思ったあとに帰ってきたの声は、いつもどおり淡々としたものだった。
「よかった。樹 さんのも紅茶を淹れます?」
「先生は珈琲派じゃないんですか?」
「試しに買ってきました」
いつもは珈琲を飲んでいる。喫茶店でも珈琲を頼んだ。樹は紅茶を頼んでいた。俺は飲み物は食べ物にあえばいいと思うくらいで、さしてこだわりはない。戸棚から茶葉の袋と、それから新品のティーポットのセットを取り出す。何回かは試しに淹れてみたから、淹れられないことはないはずだ。けれどもその手つきが辿々しかったのかもしれない。
「私が淹れましょうか?」
「え?」
ざりざりと齟齬が生ずる音がする。
俺が見えている水槽の反射と、その奥の樹の水槽の中身のズレによって生じる音。想定していなかった反応だけれど、それはいつものように不安はもたらさなかった。
「紅茶は淹れ方で味がかわるので。よかったら」
その声はいつもと異なり不明瞭なものに阻害されることなくまっすぐに俺に届いた。椅子から立ち上がった樹に慌ててキッチンを明け渡せば、沸かしたばかりのお湯の温度を確認しながら、ゆっくりと高いところから茶葉を入れたポットにお湯を注ぐ。
「かっこいいですね」
純粋にそう思った。樹はサラサラと揺れる黒髪の間から戸惑うように俺を見る。
「そうですか? 恐縮です」
キッチンに華やかな紅茶の香りが漂う。自分が淹れた時の手順と何が違うのかわからないけれど、その味は段違いに素晴らしい。スコーンの味もつられて向上したようだ。
「流石ですね。俺が淹れたときとに比べて格段にに美味しいです。何かコツがあるんですか」
「コツ……慣れでしょうか? それより取材を続けても?」
「もちろん」
想定していた流れに自然と戻ったことに安堵する。
いろいろな応答。けれどもどこか単調なやり取りがなんだか落ち着く。取材は今日で終わりで、あと1,2回しか会えない。それは少し寂しかった。一緒にいても疲れない人だ。
「ありがとうございました。原稿が出来上がったらお持ちしますね」
「はい。できればもう一度紅茶を淹れていただけませんか? その時に」
樹は不思議そうに俺を見た。不躾だっただろうか。踏み込みすぎたかもしれない。
「いいですよ。じゃあ一番気に入っている茶葉を持ってきます」
少し考えた様子のあとの返答にホッとした。
樹といると何故落ち着くんだろう。
ポットに少し残った紅茶をカップに傾けながら考えた。きっと、樹の水槽の中が澄んでいるからだ。俺と他人との間にはいつも、もやもやとしたよくわからないものが溢れている。それは分解してみれば多分、表情とか仕草とか、声音といったものの変化がもたらす澱だと思う。動けば埃が出る。その変化を上手く認識できずにいつも四苦八苦する。他人の水槽の中を覗こうとすれば、いつもとても疲れる。
けれども樹の水槽にはそんな澱なんて殆どなかった。水槽のキワまでいって観察した樹は、限りなく無表情だった。声の高さもほとんどかわらない。だから、その変化から生ずる澱が少ないのかもしれない。
変化するものは苦手だ。ただでさえもやもやと姿を変える。そうすると水槽に何が入っているのかわからなくなる。それは付き合いを重ねれば重ねるほど、増えていく。けれど、樹の水槽は透明で、何度か会ってもその中が濁ることはなかった。そのことに妙に、安心感を覚えた。
目の前の人間が違う姿になる。どんどんわからないものになっていく。それはとても俺を不安にする。親しい人間なら恐怖でしかない。だからちっとも変わりそうにない人間というのは、それだけでとても貴重だった。
「ねぇ、俺の家に住まない?」
何度か追加で会った後に思わずそう呟いて、慌てて同居人が引っ越していったんだと付け加える。同居人がつい先々週に引っ越したのは本当だ。樹の顔が不審そうに歪む。何で俺はこんなことを言ってしまったんだろう。
「何で俺なんですか?」
「樹 君はなんていうか、一緒に居て嫌な気分にならないからかな。一人で住んでるのもつまらないし」
それは本心だ。けど、他人に伝わるとは思えなかった。少しの沈黙。また、やってしまっただろうか。何か、継ぎ足す言葉。
「それに、浅井君は俺を好きになったりはしないだろ?」
その言葉を発してから、全く何を言ってるんだと頭を抱えたくなる。まるで支離滅裂だ。でも、それも本心だった。なんとなくこの人は、ずっと澄んだままでいる。そう感じていた。でもこれはあんまりにあんまりだ。
「俺もさ、何ていうか恋愛はあんまりしたくないんだ。なんか浅井君からは大丈夫な匂いがする」
継ぎ足すごとにどんどん文意が酷くなり、なんだかもう頭の中が真っ暗になった。けれども逆に、樹はわずかに表情を和らげた、気がする。これが俺の妄想でなければ。わからない。多分妄想じゃないだろうけど、少し自信がない。
「いいですよ。では恋愛無しということで」
その返答に益々混乱に陥った。持ちかけたのは俺の方だというのに。
「え、本当に? 俺は見ず知らずだよ。俺が言うのもなんだけど、一緒に暮らしていいの?」
「さぁ、何ででしょうね。別に嫌じゃないし」
樹はまっすぐに俺を見つめていた。けれどもやっぱり、その瞳は相変わらず澄んでいた。嫌じゃない、のかな。人が嘘をつくときには本心を覆い隠すという変化が生じる。だから普通は少しは澱が出る。そんな変化がない。
本当に嫌でないなら是非。同居人にはいつも澱の少ない人を選んでいた。でも、それにしたって。でも……この人と一緒に住むなら、とても楽そうだ。そう思った。
「あの?」
「あ、いや……そうだ。これ合鍵。いつでも来てもらっていいから」
キーホルダーから前の同居人から受け取ってそのままにしていた鍵を一つ慌てて取り外し、樹に渡す。樹はそれを受取り、ポケットからキーホルダーを取り出して当然のようにそこに混ぜた。
その引き渡しが、何故だか運命のように感じた。
それからしばらくして、樹は本当に俺の家に引っ越してきた。
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