12 / 23

第12話 2年前(2)

 これまでの同居人と同じように家の使い方の説明をする。 「あの、それで俺は料理が趣味なんだけどさ、もしよかったら朝夜作るよ。1人分より2人分のほうが品数も増えるし。前の同居人にもそうしてた」 「料理?」  そこまで言って、前の同居人が住む前は、そもそも食事の有無も含めて事前に様々な打ち合わせをしていたことを思い出す。……いきなり料理なんて気持ち悪くないだろうか。 「ああ、朝ご飯と夜ご飯。もちろん断ってもらってもいい」  樹は少し考えるように首を傾げた。 「では、お願いします。食費は?」  何故? 困惑した。見ず知らずの人間の作る料理なんて、俺なら少しは怯む。樹と会ったことは取材の時を含めて10回もない。 「俺が食べたいものを作るから、食費はいらない。でも本当にいいの?」  知らない人の手料理なんて。  酷く、トントン拍子だ。いつもと感覚が違いすぎて、困惑する。けれども、嫌な感じはしなかった。 「スコーン、美味しかったですし」 「スコーン?」 「ええ。また食べたいです。紅茶なら俺が淹れます」  その言葉の本気の度合いがよくわからないまま、夜は試しに夕食を作った。少し豪華に高い肉でステーキを焼いた。いくつかの付け合せと、それからデザートは時間がなかったから宅配だったけど。 「どうかな」 「美味しいです。本当に食費なしでいいんですか?」 「勿論! 今日は引っ越し祝いも兼ねてだし」  樹はフォークとナイフを進める。その表情は微笑んでいるようには見えたけれど、本当に美味しいと思っているのかどうかはわからなかった。けれどもやっぱり澄んでいる。だからきっと、本心なのだとは思う。少なくとも嫌ではない、ように見える。  それから特に会話もなく食事が進んだ。そのことになんだか変だなと思ったけれど、どんな会話を振ればよいのかわからなかったし、かといってそれで例えば樹の水槽が曇ることもなかった。そんなことを思っていると、樹は食べた皿を重ね始める。 「洗い物は俺がやります」 「え、いいの?」 「はい」  見ていれば樹は手早くシンクで皿を洗い、それを食洗機に入れていく。 「紅茶を持ってきたので、淹れてもいいですか?」 「勿論。ポットは上の棚だけど」  樹は自室から持ってきた缶を開ける。不思議な香りがした。  これまでの同居人も珈琲やお茶を淹れていたけれど、樹が淹れているとなんだかそのキッチンの空間が綺麗になっていくような気がする。不思議だ。  カップに入った液体が目の前に置かれる。少し薬のような香りの琥珀色の液体からは、心が安らぐ香りがした。樹の水筒から漂っていた香りと同じで気になっていた。 「これは何の紅茶?」 「わかりません。行きつけの紅茶屋の今月のブレンドです」  わからない? 「紅茶は好き、といえば好きですが、特にというわけでもありません。お茶自体は好きなのでよく飲みますけど」  淡々とした答え。こだわりがなくてあんなに美味しい紅茶が淹れられるものなんだろうか? 「俺は大抵夕食の後はテレビ見たり映画見たりするけど、煩かったら言って」  うちのリビングは広い。その奥の半分はアトリエに使っているけれど、キッチンとアトリエの間にはソファがあって、毎晩そこでだらだらとテレビを見ながら時間を潰す。絵を描きたい時もあったけれど、何人か前の同居人は絵に興味があったようで、俺が描くのをずっと後ろから見ていて落ち着かなかった。だから絵は誰もいない日中だけに描くことにしていた。 「じゃあ、俺もいいですか」 「勿論」  樹はソファに腰掛ける。俺の左隣。ソファがいつもより深く沈む。なんだか落ち着かない。適当につければクイズ番組をやっていた。それをぼんやりながめた。俺も別にテレビが見たいわけじゃない。なんとなく、時間を潰すための行為。寝るまでの時間を手持ち無沙汰に過ごすだけだ。 「(浅井)君はクイズ好き?」 「好きでも嫌いでもないです」  それで会話は終わり。なんとなく、時間が過ぎるのを待つ。時間というのはその流れによって、気が付かないほど微弱に澱を砕いていく。きっとどうしようもなく一定に流れるその振動は、同じように誰も気が付かないうちに人の記憶や感情も同じように砕いているんだろう。  隣の樹を見ればソファには浅く腰掛け、まっすぐにテレビを見ていた。面白そうにしているようにも見えない。樹は愛想がいい印象だった。今も多分、いいのだろう。けど、その静かに座っている様子は、妙に目を惹かれた。 「なんですか?」 「いや、横顔も綺麗だなと思って」  その精巧な美しさは、なんとなく美術品のようだ。俺が描いている絵なんかよりよっぽど。 「先生もかっこいいですよ?」 「そう? ありがとう」  よく投げかけられるその言葉をそんなふうに平板に言われたのも初めてだ。そしてそれはなんだか、心地よかった。 「ふふ」 「何です?」 「どうでもいい感じでかっこいいって言われると、変な感じで面白くてさ。ごめんね」  樹は少しだけこちらを向いて、少しだけ笑った。綺麗だな。 「俺もそうです。なんか、ただ見られて褒められるって、初めてだ」  見られて、褒められる。確かにそういう視線を向けられるのは初めてかもしれない。たいていは他人からの視線というのはたくさん揺れる澱の隙間から投げかけられ、俺に届く頃には澱まみれだ。そのまとわりつく意味を考えるのは酷く億劫だった。樹の視線はただ、俺を見ているだけだ。外見が綺麗だというのはただのただの身体の情報にすぎない。そのことに何の意味も感情も載せられていない。まるで晴れ渡った空の下のような水槽だ。清々しい。 「そうだな。綺麗なのはいいことだよ。生活が少し潤う」 「まあ、俺にとっての紅茶も同じようなものです。少しだけ上等な気分になる。そう考えると先生との暮らしはQOLが向上するかもしれません」  QOLね。なるほど。  なんとなくその頬に触れたくなって、目をテレビに戻した。変な意味はない。ただ、美しいものに触れたいというそれだけの感情だ。これは俺の水槽の中の澱。俺の水槽は、他の人に比べても濁っている。綺麗な樹の水槽に比べて、少し恥ずかしくなった。  俺は突然現れた新しい同居人について考えた。  浅井樹。俺より15ほどは下。身長は平均より少し低く、痩せている。そうだな、痩せっぽちだ。なんとなく無理に触れれば折れでもしそうな腕を思い浮かべた。もう少し太ったほうが健康的だろう。  そんなことより、俺は何故樹に声をかけたんだろう。  いつもはもっと、知り合ってから誘うまで長い期間を置く。そうやって、大丈夫そうかを確かめる。しばらく一緒にいても、水槽が曇らないかどうか。少なくとも数ヶ月親しく付き合って、水槽が濁らない人間にだけ声を掛ける。  けれども樹は水槽が曇るようにはちっとも思えなかった。もともと澱がほとんどない。つまりそれはきっと、ずっと樹は本心で生きているのだろうか?  そんなことが人間にできるとは思えなかった。それは善悪の問題じゃない。社会で生活を営む以上、いくらかの社交辞令やお世辞、ときには嘘、そういったものが必要だからだ。そういったもので毎日澱を貯めて、楽しいことをしてそれを晴らす。こんなに透明度が高いまま、生きていけるものだろうか。よく、わからない。  そうしているうちに、時間は随分経過した。そろそろ寝てもいい頃合いだろう。 「俺はそろそろ寝るよ」 「そうですか。じゃあ俺も」 「……別に俺に付き合わなくてもいいんだけど」  樹は不思議そうに俺を見つめた。 「俺もそろそろ寝るのにいい時間かなと思ったので」  時計を見れば0時を過ぎている。樹は会社員だから、そろそろ寝ないといけないのかもしれない。 「そっか。変なこと言ってごめんね」  リビングの電気を消して、一緒に廊下に向かう。樹が後をついてくる。なんだか変な感じだ。今日はずっと人と一緒にいた。そうして部屋の前にたどり着く。左手が俺の部屋で、右手が樹の部屋。 「じゃあ、おやすみなさい」 「はい。また明日」 「あ、朝ご飯は何時頃がいい?」 「え……と。できれば7時半ごろでいいでしょうか」  思わず吹き出した。 「ごめん、なんか旅館みたいで面白くて」  樹の顔が僅かに赤くなる。でも水槽は曇らない。不思議だ。 「すみません」 「いや、いいんだ。全然。なんか面白くてさ。じゃあ7時半ね。おやすみなさい」 「はい、おやすみなさい、先生」  パタリと目の前のドアが開けられ、閉められる。なんだかとても不思議な気分だ。誰かと同じ時間をただ共有する。心がとても軽い。考えなくてよいというのはとても心地いい。  明日も朝、一緒に御飯を食べる。それもとても、不思議な気がした。前の同居人は朝は自由な時間に食べたいと言っていたから、夜だけ作っていた。でも帰宅時間がずれる職業だったから、作り置きを冷蔵庫に入れておくことも多かった。  なんだか不思議だ。今日は昼から樹の引っ越しを少しだけ手伝って、料理をして、一緒に食事をして、テレビを見て……寝る。こんなに長い時間一緒にいるのに、俺の水槽の濁りもあまり増えていない。不思議だ。  明日の朝も一緒に御飯を食べたいな。紅茶を淹れてくれるだろうか。

ともだちにシェアしよう!