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第14話 1年と5ヶ月前(2)
「それはよかった。上達するのが早いね」
「そうかな」
キラキラと太陽が樹の黒髪に反射している。なんだか綺麗だ。そうして結構な時間を樹が滑るのを見ていた。
「先生は滑らないんですか?」
「滑りたいのは山々なんだけどさ。俺はおっさんだから体力があんまり保たないんだよ。はしゃぐと筋肉痛が辛い。普段運動しないから」
「あ……俺も怖いです」
そういえば樹も運動しているようには見えない。そう思って改めて眺めた肩周りはやはり華奢だった。
「ジムとか行ったほうがいいのかなあ。昔より体が重い気がする」
「先生は俺より筋肉あるじゃないですか」
「まあ、樹 君に比べればそうかもだけど、40超えると腹回りが気になってくるんだよ」
けど、そうは言ったもののジムに行く気はなかった。俺は何故だか昔から筋肉がつきやすいから、そこまでの必要性はまだ感じていない。やるとしたらランニングだが、それにしてもあまり家の外に出たくはない。面倒な人間関係は増えないに越したことはない。
「とりあえず休憩しようか」
浜辺に向かってボードに乗って泳ぎながら、明日のことを考えて今日はこの程度にしようかと話す。樹は明日は仕事だから。そうして更衣室で着替えてボードを預けて外に出たときに現れたのは、あまり会いたくない人間だった。にこにこと愛想よく近づく男に気づかないふりをしようと思ったときには話しかけられていた。
「樺島先生じゃありませんか」
「ええ、少しご無沙汰ですね」
パーティーに行けば時たま会う男だ。確か画商だったと思うが、名前は覚えていない。
「最近パーティーに先生が来られないからみんな心配してましたよ」
「忙しくてさ」
そう言うと男は下世話にニヤリと笑う。この興味本位な笑顔がなんだか気持ち悪い。パーティに行った時もいつも前のパーティでは誰と帰ったとかその後どうかとか聞かれるんだ。そんなことを聞いて何が楽しいんだろうといつも思う。その男が不躾に樹を眺めるのが嫌だった。
「わかってますよ。彼氏さんができたんですね」
「この人はそういう関係じゃ」
「またまた」
「いや」
男のニヤニヤした表情を見て、もはやどうしようもないと感じる。眼の前の男は自分の水槽に反射した、俺と樹が付き合っているという蜃気楼を見ているんだと。つまりここで俺が何を言っても仕方がない。この男は見たいものを見ているだけだ。俺と同じように。
けれども誤解をされたままでは樹に迷惑だろう。この手の人間はパーティーでさも真実かのようにその蜃気楼をぺらぺらと話すのだ。雑誌記者の樹はひょっとしたら他でもこの男に出くわすかもしれない。そうして絡まれるのはかわいそうだった。だから多少の抵抗を試みる。
「変なこと言わないでください。ほんとにそんな関係じゃ」
「成彰さん、行きましょう」
「え?」
成彰、さん? その少し不機嫌な声は俺の水槽の水を振動させた。
「あなたもデートの途中を邪魔するなんて、無粋なことはやめください」
樹はそう呟いて、俺の手を取ってやや足早に歩き出す。デート?
少し混乱しながら振り返れば、男はぽかんとこちらを見送っていた。
「あの、樹 君?」
駐車場に戻って車に乗り込み、先程のどの波よりも滑らかに滑り出す。しばらくして、樹は運転席で深い息をついて瞳だけで俺を見た。
「ご迷惑でしたか?」
「えっと、突然で何がなんだか。樹 君は俺が好きなの?」
「まさか」
隣でふふふと可笑しそうに笑う声がした。違うなら、何故そんな。
「先生がとても嫌そうだったので。つい。俺みたいに恋人がいることにしてしまえばいいと思っちゃって」
「俺みたいに?」
「そう」
信号で緩やかに停車すると、樹はちらりと俺を見た。
「俺も嫌なんです。告白されたり、それを断るのも、それから周りの連中にそうだとか違うんだとか言い訳するのも」
その声はたしかに、少しだけ嫌そうに聞こえた。小さく澱が生まれる。珍しいことだ。多分小さな嘘がある。でもそれがなんだかわからない。けど、それらの行為がとても手間で面倒なことはわかる。
「それならいっそ、恋人ってことにしたほうが丁度よくて。先生も多分、そうですよね?」
「丁度、いい?」
「前の彼女ともそんな感じだったんです」
「SUPの彼女?」
「はい。恋人のふり」
そっか。何故だかほっとした。
車は再び前進し、次第に街道に商店が増えてくる。
「あの人はレズだったから。彼氏がいるって誤魔化すのに俺は丁度よかった。でもそんなに綺麗な人じゃなかったから、釣り合わないとか私と付き合えとか変な女にわけのわからないことを言う奴が増えて。でも先生くらいかっこよければきっと何も言われない」
その樹の顔はとても綺麗だった。
「つまり俺と恋人のふりをするってこと? 綺麗どうしで?」
「そう。綺麗どうしで。それならきっと、誰も文句を言わない」
樹は愉快そうに唇の端を上げる。
「先生は俺を好きになったりしないでしょう?」
俺は確かに、そう言った。俺は樹と恋愛をするつもりはない。
「それは、まあ、そう、なのかな? でも樹 君は嫌だろ? 俺と……そういうふうに見られるの」
「別に構いません。今更だ。でもご迷惑なら俺がつきまとってるだけってことにしますし、いつでも別れたことにしますから」
樹は少しだけ申し訳無さそうに眉をひそめる。澱は増えていないように見える。
「突然だったからびっくりした。ちょっと考えてみる」
「ええ。すみません。帰りにどこか寄るところありますか?」
「ああ、じゃあせっかくだからスーパーでも。晩ごはん、食べたい物ある?」
「何でも。……でもせっかくだから、魚」
丁度遠くに見えたスーパーに車を停めれば、空は灰色に曇っていた。夏の天気は変わりやすい。夕立でも降るのかもしれない。
いつもは俺が適当にメニューを決めて、昼過ぎにネットで食材を発注して宅配してもらう。久しぶりに実店舗で物を見て選ぶ作業はなかなか楽しく、晩ごはんは頭の中でアクアパッツァになった。丸一匹の鯛を買って焼いて野菜と一緒に煮ればいい。
樹と暮らしていて、樹は食べ物にあまりこだわりがないのを知った。紅茶が好きというより、その時に飲みたいものを飲んでいる。食べ物に関しては基本的に何でもいい。定食屋にいけば何も考えずにA定食を頼むタイプだ。だからといって甲斐がないわけではない。美味しく作れば美味しいといってくれるから。それ以外は何も言わないけれど、それは本心だろう。
そういえば今日は、これまでで一番樹と話した日だった。
樹は基本的に、俺から話しかけなければ話をしない。けど、それが嫌な様子もない。多分、沈黙や孤独が苦にならないんだろう。俺と違って。
「明日筋肉痛にならないといいですね」
「明日じゃなくて明後日来るんだよ。年を取るとね。おやすみ、樹 君。また明日」
「はい。おやすみなさい」
そうして樹の部屋の扉はパタリと閉められ、自室のドアを開けた時、背後から声が聞こえた。
『成彰さん』
慌てて振り向けば、樹の部屋のドアは閉まったままだった。確かに呼ばれた気がしたのに。
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