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第15話 1年と4ヶ月前(1)
俺の水槽に声がまじり始めた。これはよくないことだ。
「おかえり、樹 君」
「成彰さん 、ただいま。酷い雨でした」
リビングに入った樹を見れば、傘は持って出たようだがその裾や袖口は濡れそぼっていた。
「そっか。風邪ひかないように先に風呂に入れば? 今日はグラタンだからもう少し焼くのに時間がかかるから」
「わかりました」
樹はそのまま廊下の奥に消え去る。アトリエの奥の外はもう真っ暗で、雨は見えない。近くまでいけばわかるかもしれないけれど。
俺と樹が恋人のふりをすること、について、樹から再度の問いかけはなかった。あの話の流れからすると、きっと俺はそのことを受け入れたのだろう。人間関係は面倒くさい。樹と恋人のふりをすることで無用な人間関係が生じないのなら、それはきっと悪くない話だ。
樹は前の彼女と恋人のふりをしていたという。そして釣り合わなかったから別れた。俺なら、釣り合うのかな。俺も顔はいいらしい。樹の煩わしさというものは理解できる。恋愛をする気がないのなら、そのやりとりは実に無意味で鬱陶しい。
そんなことを考えているうちにオーブンからチーズの焦げた香ばしさが漂う。もうすぐ丁度良く焼ける。
カチャリと風呂場の扉が開く小さな音がして、しばらくしてもう少し近いところで扉が開く音がした。自分の部屋で着替えているのだろう。
付き合うこと、恋愛をすること。それは俺にとっても避けたい。俺はただ、平穏に暮らしたい。誰かと。その誰かは別に、好きな人じゃなくったっていい。これまでもそうして暮らしてきた。
好きな人。
樹は好きだ。それは恋愛という意味じゃなく。樹がとても楽だからだ。考えを読まなくていい。半年ほど一緒に暮らして、その行動パターンもだいたいわかる。
樹は毎日、ほとんど同じ行動を取っている。
平日は朝7時半に一緒に朝ご飯を食べて、8時過ぎに家を出る。帰りは遅くなることも時折あるけれど、そうでなければ7時頃に帰宅して、その後一緒に晩ごはんを食べる。その後一緒にテレビを見て、0時頃に眠りにつく。土曜は食事の時以外は部屋から出てこない。日曜はたいてい昼前後に外出し、時折晩ご飯は別になる。新しい店で取材をかねて食事をしているそうだ。
安定した毎日。変わらない毎日。
ただ一緒に過ごし、お互いのことに深く踏み込むこともない。樹の水槽は相変わらず曇らず、澱もほとんどなく透き通っている。一緒にいて何も面倒なことがない。人寂しくもないし、楽だ。
このままがいい。お互いに恋人ができなければ、ずっとこのままでいられるのだろうか。そのためにお互いに恋人のふりをする。原因と結果がぐるぐると回っている。
「恋人、ね」
「何か?」
目を上げれば樹がリビングの扉を開けるところだった。
「サーフィンに行った時に恋人のふりをするっていう話」
「ああ。駄目ですか?」
「俺は構わないけどさ。人付き合いもないし。でも樹 君はゲイってことになるわけだろ? 問題ない?」
「ないですよ。芸能誌ですしその辺は理解ありますから」
理解……? 確かにそんな印象はなくはない。すでに別の女性と恋人のふりをしていた。だからその相手が男でも、ふりをする分には変わりがない、のだろうか。
「とりあえず晩ご飯にしよう。グラタンが焼けた」
「ええ。頂きます、成彰さん 」
俺と樹が恋人でも、特に問題はなさそうだと思う。短期間、男と付き合った、いや、無理やり付き合わされたことがあるが、嫌な思い出しか無い。けれどもあれはとびきり面倒な人間だっただけだ。樹はきっと違う。
そんなことを思いながらサラダとグラタンを食べ終え、樹が紅茶を淹れる。樹が淹れるお茶は紅茶にかかわらず、どれも美味かった。
樹はきっと変わらない。樹が本当に俺の恋人になったらどうだろうか。その時初めて、そう思った。それでも変わらないのかな。
席を移してテレビをつければ、何かのドラマをやっていた。サスペンスだ。よく見る有名な女優が何かの謎を解いている。
「あの女優さんって綺麗だよね。樹 君はあんな感じの人って好き?」
「特にそういうわけでもないですけど、嫌いでもないです」
なんとなく、予想通りの答えだ。樹の返事はだいたい、可もなく不可もなくというものが多い。きっと俺も、可も不可もないのだろう。
「どういう人なら付き合いたいとかってある?」
その時、樹は珍しく口ごもった。
「先生は知ってるんですよね? 俺が……アセクシャルなこと」
その聞き慣れない言葉に戸惑う。
「誰かを好きになったりしない人です。先生もそうなんでしょ?」
好きになったりしない? その言葉は妙に俺の澱をぐらつかせた。
誰かを好きになる。それは自然なことだと思っていた。けれども俺にとってそれは酷く難しい。だから俺はなるべく、誰かを好きになったときには水槽の間際でその人を見ようと努力した。けれども時間が経つに連れてお互いの澱は降り積もり、姿が見えなくなっていく。すっかり見えなくなる頃には、俺の蜃気楼の恋人は現実の恋人とだいぶんずれている。つまり俺は、誰かに恋をしても、最終的にはその人自身を認識して、好きになることができない。とても分厚い澱が全てを覆い尽くしてしまうから。
「好きには好きなんだよ。でも時間が経てば経つほど何かがズレていって無理になる。いつも上手く行かなくて、俺にとって恋愛はとても面倒なんだ」
「わかります。どんどん意味がわからないものになっていく」
共感が得られるとは思っていなかった。思わず顔を上げて樹を眺める。その視線はまっすぐテレビに向かっていた。
「あの変化はとても……気持ち悪い」
気持ち悪い。それはいったい何に向けられた言葉なのだろう。その相手か、あるいは。
それがなにかははっきりとはわからないものの、樹から溢れる言葉は真実、何かを忌避していた。そしてその言葉はとても透き通っていた。
「俺は樹 君は結構好きなんだけどな。一緒にいて楽で」
「俺もです。先生は好きですよ。全部この好きの範囲ならいいのに。そうすれば変化しなくていられるから」
変化。すべてのものは移り変わる。だからやがて終わりが訪れる。魂の一部を引きちぎられるような痛みとともに。変化がなければ、別れは訪れないでいられるものなのだろうか。
少し話しているうちに、樹は向けられた愛という感情を気持ち悪く感じるらしいことがわかった。
「お互いもったいないですね。成彰さん はそんなに格好いいのに」
「それをいうなら樹 君ももったいない。俺はこんな綺麗な子は見たこと無い。……まあ絵描きもゲイが多いからさ、俺も別に構わないよ。ちょっかい出す奴がいなくなって助かるだろうし」
それはある程度は本心だ。よけいな人間関係は鬱陶しいだけだ。
結局、樹とはこのままの関係を続けるのが一番良さそうだ。変化なく。
ふと、樹の右手の甲が目に入る。海で触れた手だ。ひんやりとして気持ちが良かった。また触れてみたい。恋愛という意味じゃない。多分。
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