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第18話 1年と3か月前(2)
玄関がガチャリと開く音がする。
「おかえり」
「ただいま、成彰さん 」
「今日はビーフシチューにした」
「美味しそうですね」
そう耳にして改めて赤ワインの酸味が程よく漂っていることに気がつく。樹はちらりとこちらを見て、そう呟いて部屋に向かったはずだ。なのに蜃気楼はソファに座る気配がした。奇妙だ。何故別に動いている。
「テレビつける?」
「いいえ」
振り向けば、ソファに後ろ姿が見えた。
手元からくつくつとシチューから小さな泡が現れて消える音がして、目を落とす。
テレビが点いていない。なのにあのソファに樹が座っているのは、やはり奇妙だ。そしてこの家にはおよそ、音というものがないことに思い至る。絵を描いている時も料理をしている時も、音楽をかけたことはない。ただ、食事が終わった後にテレビをつける時だけ、自分以外の音がする。
もしこの家にテレビがなくても樹はあのソファに座っていただろうか。
しばらく見ていれば、そのうち姿は空気に溶けた。
やっぱり、変だな。蜃気楼はいつも水槽の前で発生する。本人の上に被さり、少しだけ違うように見える。だから水槽の向こうに本人がいないと現れない。けれどもともと普通の蜃気楼というものは、本来の見えないのに光の屈折に酔って見えるものか。でも樹の蜃気楼は樹と違う行動をする。
その本当の樹と異なる行動をとる樹は、嫌いではなかった。どう扱っていいのかよくわからなかったけれど。
蜃気楼の樹はソファで隣りに座ってテレビを見る樹の体から分離して右手を伸ばし、俺の左手に右手を重ねている、気がする。なんでそんなことをする? これは俺が見ている水槽の反射のはずだ。俺が望んでいるからそう見える、というのも違う気がする。俺は今のままの関係がいい。変わらずずっとこの関係を樹と続けたい。……それは間違いない。
これまでのように妙な蜃気楼を見て、そのせいで別れたくはないんだ。こんなわけのわからない、もの。でも触れられるのも嫌じゃなかった。珍しく判別できる、確実に樹じゃない何か。いつもは本人と誤認してしまうのに。
「俺は君をどう扱ったらいいんだ?」
「さあ。成彰さんはどうしたいですか?」
「俺は……わからない」
本当にわからなかった。蜃気楼は普通はいつも、気づかない間に発生する。知らない間に発生して、本人からずれていく。けれど、樹の蜃気楼は最初からずれている。
「君は……誰なんだ? 樹じゃない」
「さあ」
俺はこの樹の蜃気楼をどう扱えばいいのだろう。妙に心がざわつく。ざりざりとした違和感。
「成彰さんは俺が好きですか?」
「好き? 樹のこと? 好きといえば好きだよ」
「恋愛的には?」
「恋愛的には……今のところ別に好きじゃない、と思う」
恋愛的に好きになれば、いずれ関係は終わる。それはとても不吉な話だ。
「じゃあ俺はその予告です」
「予告? そのうち樹は俺を好きになるってこと?」
「さあ」
そうはならないだろうなと思う。樹と恋人になることは。
この間、樹は誰も好きにならないと言っていた。それはきっと本当なんだろう。だからきっと、樹の水槽は澄んでいる。なんとなくそんな気がした。樹の姿をした、樹じゃないもの。重なる手のひら。それはそのままの意味で、煙のまま俺の手に重なっている。だからただの蜃気楼で、幻だ。
「成彰さん 、どうしました?」
いつのまにか、樹本人と目が合っていた。
「いや、ちょっと今混乱してて」
「調子が悪いなら早く寝たほうがいいですよ」
樹の瞳は心配そうな形をとった。時計を見れば、寝るにはいつもより2時間ほど早い。けれども頭は随分疲れていた。
「そうだね。そうしよう」
「お茶を淹れますか?」
蜃気楼が重なる。目を凝らす。樹は無表情に見えた。大丈夫だ。見分けはつく。
「いや、いいよ。ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい、成彰さん 」
そう言って逃げるようにリビングの扉を閉めたはずなのに、蜃気楼はついてくる。何故、消えない?
部屋の扉を開けてもついて来る。
「出てってほしい」
「何故?」
「気持ち悪いから」
樹の蜃気楼はわずかに肩をすくめた。これはそもそも、樹の仕草じゃない。
「そう。じゃあおやすみなさい、成彰さん」
そう呟けば、樹は霧散した。
あの蜃気楼は何故俺につきまとう。
その後、淡々と生活は繰り返された。
朝、食事を作って樹は慌ただしく玄関から出ていく。その時、蜃気楼は少しだけ玄関の内側にとどまり、やがて消える。
昼、一人で絵を書く。海の絵を。けれども何色を乗せてもなにかおかしいと感じる。なにかが足りないか、何かが多い。気持ち悪い。やはりキャンバスに大きなバツを書く。
夜、樹が帰って来るとともに蜃気楼が生じ、多少の時間であれば樹がいないところでも活動している。大抵はソファに座っている。そして一緒にテレビを見て、部屋までついてくる。心のざわつきのまま、思わず声を荒げた。
「なんで俺につきまとうんだ? 俺は別に君が必要じゃない。部屋に戻りなよ」
「成彰さんは俺が嫌い?」
「嫌いじゃないけどさ」
「じゃあ一緒にいてもいいじゃん。なんであっちはよくて俺は駄目なわけ?」
親指で扉の外を指す。何故か。それは俺にもよくわからない。けれど蜃気楼はいつも俺に関係の破壊をもたらす。だから、嫌だ。
「それって俺のせい?」
「わからないよ、そんなの」
きっとまた、もうすぐ消える。その蜃気楼は俺に手を伸ばし、俺は思わず後ずさる。樹がいないこの場所なら、物理的に拒否できる。物理的に?
「なんで消えるのにいるんだ」
「問題はそこ?」
「……わかんないけど」
「ひょっとして浮気してる気分になる?」
そう呟いて、蜃気楼は僅かに微笑んだ。まるで樹みたいだ。
「馬鹿馬鹿しい」
そもそも浮気もなにもないじゃないか。樹はただの同居人だ。
「じゃあキスでもする?」
「なんでそんなこと」
更に伸ばされた指先が唇に触れ、表面が少しだけ冷たく感じる。何故こんなことになっている。いつもの蜃気楼とは随分違う。俺はこんな幻覚なんて見たくはない。
「もっと一緒にいられるといいのにね」
「帰れよ」
樹はおかしそうに笑って、そして霧散した。車に乗っていたときの笑み。
「樹君は俺が好きなの?」
「まさか」
あの時、樹は笑った。きっと俺の問いかけが面白かったから。水槽は澄んでいた。樹は俺が好きじゃない。少なくとも恋愛的な意味では。そしてそんなふうに笑うってことは、きっと俺が樹が好きとも思ってはいないはずだ。
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