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第19話 1年と3か月前(3)
日々、イライラが積み上がっている。体の表面に粘体の何かがゆっくりと這いずり回っているようだ。
その原因は樹の蜃気楼自体じゃなくて、絵がうまくかけないからだ。何故だか酷く気持ちが悪い。俺の表面に貯まったわけのわからないその何かの存在を体が感じ取り、身動きが難しくなっている。息が苦しい。早く描きあげてこれをどこかに追いやらないと。
俺はそもそも気持ちが悪いから絵を描いている。俺が見る世界と現実のズレを明確にして、その区別をつける。絵に描いたものが俺の見ている認識だ。それが目の前にクリアになれば、たいていは現実との差というものが認識できる。かえって浮き彫りになって、見分けがつく。絵は動いたりしないから。
この絵が上手く描けないということは、俺にとってこの絵は気持ちが悪くなるほど区別が必要で、でもその違いが俺の中でわかっていない時。つまりこの描きかけの絵は俺の認識と未だ異なっている。何かが足りないか、何かが多い。灰色の空、灰色の海、灰色以外の様々な色。
余分なものは何かと考える。あの海に行った日を境に見えるようになった蜃気楼。あれはこの絵に含まれるのだろうか。
足りないものは何かと考える。この絵になくて、今あるもの。
片目を瞑る。次に反対の目を瞑る。やっぱりわからない。それぞれの目に見えるものに違いが見つからない。だから電車に乗った。
目の前では波がザザンと音を立てていた。樹と来た海岸だ。あの時と違い、既に飛沫が随分冷たく感じる。
絵を描き終わった時以外に外出することは珍しい。
秋口に入り、海水浴客はもういない。遠くにウェットスーツを着たサーファーが何人か波間に見えるくらいで、とても静かだ。風も強い。
頭の中のあの絵と今の海を見比べる。パッとしない絵だ。全体的に灰色で、ところどころパステル。頭の中でぐちゃぐちゃしている。画商が言うには、出来は悪くはないらしい。俺には絵の良し悪しなんてわからないけれど、なんとなく家に飾るには陰鬱な絵だと思う。会社に飾るのも不釣り合いに思う。
記憶の中の空は青く晴れ渡っていた。それなのに何故、あんな色になったんだろう。どちらかというと、薄曇りの今の空のほうがあの絵に近い。
俺はあの時、楽しかったはずだ。サーフィンをして、樹に教えて、確かに楽しかった。
世界はいつも振動している。目の前の波のように、何かが押したり引いたりしている。ずっと同じような色に見えてもその光の照り返しによって小さな隙間に別の色が潜んでいる。俺が見たあの日の海は、きっと青の中に灰色が見えたんだ。
海は好きだ。昔から。
海岸線を歩くとざりざりと砂に靴が沈む。この白砂の海岸はずっと続いていて、そのままずっと歩いていくとハーバーポート、その向こうに煉瓦倉庫街がある。その辺まで行けば、きっとまた人が多い。けど、そこまでいくつもりはない。
座って触れた砂はジャリジャリと爪の間に入り込んでいく。この音が、頭の中で響く。
「成彰さん、俺はいましたか」
樹は目の前にいない。だから姿はない。けれども何故か、声が聞こえた。だからこれはきっと、純粋に俺の水槽に樹と全く無関係に何かの光が反射してるだけだ。目の前の海、とかが。
あの時は人がたくさんいた。
靴を脱いで、踝まで海に浸かる。足首の表面を撫でる波の動きは、この間触れた海より随分と冷たい。
「いないよ。誰もいない」
確かめるようにそう呟いた。
結局、俺は認識したものを絵に描くだけだ。これまで考えたこともなかったけれど、俺が描きたいように描けば、そう認識できるんじゃないか。チリチリと頭が痛む。気持ちが悪い。この齟齬が、とても。触れた砂がザリザリとノイズとなって頭に混じっていくように。
「もうついてこないで」
あの絵に蜃気楼は必要ない。だからここに埋めていく。もう出てこないでくれ。切にそう願った。
そうして家に帰って筆を取る。
気持ちは少し、クリアになった。描くものは決まった。あとはそれをこのキャンバスに映せばいい。光をそこに映す作業、それだけだ。
目の前のキャンバスは未だ白い。あの蜃気楼を排除して残りを描こう。それでいい。はずだ。
絵を描くというのはとても奇妙な行為だと思う。
パレットに白と黒の絵の具を出す。それから青、緑、黄色、赤。それを混ぜ合わせる。混乱した頭の中から絞り出すように現れた体積を絵の具の上に積み重ねる。世界は複雑にたくさんのものが重なってできている。それと同じように、たくさんの色を塗る。
なんだかいつもよりゴテゴテしている。きっとわざと、あの絵から蜃気楼を抜いたからだ。それが何だかはよくはわからないけれど。
だからそのあった部分の空洞を無理やり埋める。だからいつもより少し分厚くて、すっきりしない。でも、俺はこの絵を描かないとどこにも進めない。ずっとこの絵が頭の中にあって、何も手につかなくなる。
頭の中で何度も途中まで描いていた絵だから、描くのはいつもより少し早い。いや、手が急いでいるのかもしれない。嫌なんだ。発泡スチロールを噛んでいるみたいに気持ち悪くて。
集中して描いていて、気づけば既に窓の外は暗かった。慌てて宅配ボックスまで食材を取りに行く。
今日の晩ご飯はそんなに時間がかからないやつだ。ポークソテーとミモザサラダと。時計を見ればいつもより1時間は遅い。絵も片付けないといけない。ミモザサラダ用のゆで卵を作るのは諦めてシーザーサラダにしよう。箱から取り出した豚肉に塩を降り、なじませている間に手早く絵を片付けてパレットと筆を洗う。指先にあの海の塩分を感じる。
やがてガチャリと玄関の扉が開く音がする。
「ただいま、先生」
「おかえり」
少し緊張しながら耳を澄ます。大丈夫だ。蜃気楼の声は聞こえない。樹がリビングを通り過ぎた後に振り返っても、ソファには頭が見えなかった。よかった。俺は海に蜃気楼を置いてきた。だから、大丈夫だ。そう気を取り直す。
豚肉の焦げる香ばしい香りが鼻に届く。大丈夫だ。
食事の後に並んでソファに座った樹の視線はまっすぐにテレビに向かっている。そして俺の左手には何も触れなかった。少し物足りたいような、妙な感覚を覚える。けど、そもそもこういうものだ。そう納得する。
俺は樹とずっと一緒にいたいんだ。ちらりと樹を見れば、俺の方に振り向く。
「調子はよくなりました?」
「ああ。多分」
「無理はしないでくださいね」
その瞳はやはり透き通っていた。
無理。無理はしていないはずだ。けど、樹を見つめ続けるのは多分、不自然だ。樹の表面にテレビの光が投射され、綺麗な黒髪と頬の表面にぱらぱらと風景を映し出す。
「何か?」
ああ、やっぱり。
「ごめん。今描いてる絵がこの間行った海の絵でさ。どんなだったかなと思って」
「ああ」
「でももう描けそうなんだ。スランプは脱したみたいなんだ」
「それはよかったです」
樹はそう呟いて興味を失ったように視線をテレビに戻す。俺も再びテレビに向いて、時間をすり潰す。その日は久しぶりに一人で眠れた気分がした。
その2日後の昼、絵は描き上がった。なのに。蜃気楼はその日、樹と一緒に帰宅した。
「成彰さん 、ただいま」
そのことに酷く、動揺した。額から嫌な汗が流れた。絵は描き上がったのに。この反射は砂に埋めてきたはずなのに。
「なんでまた、現れる」
「さあ」
しかも今、樹はここにいない。ここは俺の部屋で、樹はさっき部屋の前で別れて自分の部屋に入っていった。そして樹が目の前にいないまま、既に30分が経過している。なのに目の前にいる。本体がいなければ、蜃気楼は現れるはずがない。少なくとも、しばらくすれば消えていた。そのはずだ。じゃぁ何故、今もここにこいつがいる。手の中に嫌な汗をかいていた。
「出ていけ」
「どこに?」
「どこって……どこでもいいだろ」
「どこに行ったらいいのかわからない」
目の前の樹は心底困ったように眉を潜め、肩を竦めた。その仕草は樹じゃない。
「樹のところに戻ればいい」
「……それがどこだかわらんないんだよね」
そのため息は、少しだけ冷たい。あの海のように。
「どこだか? 部屋を出て、向かいだよ」
「成彰さんが俺を俺から切り離しちゃったからさ」
切り離す……? その声は淡々としていた。まるで樹みたいに。
「俺は俺がどこにいるかわからなくなった」
頭の中にざりざりとノイズが混ざり始める。たくさんのガラスが降ってきて割れるような音がする。
「今まではさ、俺は俺から生えてたんだよ、多分。この部屋に来ても紐みたいなもので俺と繋がってて、時間が経てばそこに戻っていた気がする。でも今はそれは切れてしまった。だから、戻れない。わかるだろ?」
それは僅かに眉を潜める。わからない。何を言っている。
「なんで俺を追い出したんだ。そのままじゃ駄目だった?」
「追い出す? 俺はこのままでいたいんだ、樹と。お前なんていらない」
「じゃあ何で、俺はここにいる」
何で? ……そんなのわからない。むしろ何故いる。
樹は腕を組んで一歩俺に近づき、俺はその分後ずさる。
「俺の方こそ聞きたいよ。お願いだから消えてくれ、どうか」
それは無表情に俺を見つめ、そして首を左右に振った。
「そんな方法、俺だって知らないよ。成彰さんは自分が消えたいと思ったら消えるのか?」
それは……。けれどもこれまでは、時間が経てば消えていたはずだ。
「……じゃあどうすればいい?」
「さぁ」
「さあって」
樹は左右を見渡して、やはり肩を竦めた。
「俺は今、成彰さんしか見えない。樹は感じられなくなった。成彰さん以外、周りは真っ暗闇だ。そんな俺を追い出すのか?」
真っ暗闇?
それは……よくわからないが、嫌だな。でも。
「お前は樹じゃない」
「じゃあ樹だったら、追い出さない?」
樹だったら……? 樹だったらそもそもこの部屋にいない。壊れたジッパーみたいに何かが噛み合っていない。でも何故かはわからない。蜃気楼は俺の横を通り過ぎてベッドに腰掛け、伸びをした。
「とりあえず寝ようよ。眠いしさ。明日も朝ご飯作ってくれるんだろ?」
その平然とした様子に混乱する。何故こいつは、ここにいる。
「寝ようったって」
「床で寝ろっていうの? 十分広いじゃん、ベッド」
「いや……」
「それに俺は成彰さんに触れないだろ? 邪魔じゃない」
改めて樹の蜃気楼を見る。以前よりその輪郭は明確になった。けれども触れてみようとおそるおそる手を伸ばせば、その部分は曖昧になってすり抜ける。
「ほら、大丈夫だろ?」
けれどもその空気を突き抜ける時、妙な体温のようなものを感じる。
「気持ち悪い」
「酷いな。俺は何もしていない」
そうして、俺はこの目の前の蜃気楼に結構酷いことを言っていたことに気がついた。これが何だかはわからないけれど、先程からの会話では、好きでここにいるというのでもないように思える。そうすると、お互いが不本意なのだろうか。お互い?
これは何かの反射じゃないのだろうか。けれども、この蜃気楼は最初から樹とはずれていた。
「……そうだな。すまない。どうも変な感じで」
「わかるよ。でもまあ、どうするかはこれから考えよう。成彰さんはどうにかしたいんだろう?」
「……ああ」
蜃気楼はそのまま、ベッドの上に寝転がった。
仕方がなく、同じくベッドに横たわる。いつもより端っこのほうに、樹とは反対方向を向いて。
「成彰さんは俺を嫌い?」
「それは、蜃気楼のお前のこと?」
「そう」
「……嫌いじゃない。だから多分、余計に気持ち悪い」
この気持ち悪さがどこから来るのかはよくわからない、けれど。
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