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第20話 1年と1か月前(1)

 あの日の朝、目を覚ますとベッドの反対側に樹がいた。つまり、消えなかった。  何も言わなかったからそのまま部屋を出ればついてきて、朝ご飯を作っている間はソファに座り、樹がリビングに来ると樹の方に歩いていって重なった。その直前にちらりと俺を見た。  それからはずっとそんな毎日だ。朝、樹が家を出るのと一緒に蜃気楼も出ていって、一緒に帰宅する。樹と重なって食事をして、テレビを見て、その後、樹と部屋の前でわかれて蜃気楼は俺についてくる。それで一緒に寝る。 「成彰さん、もっとこっちおいでよ。ベッドから落っこちそうだ」 「嫌だ」 「何で俺をそんなに嫌う」 「嫌いじゃない」  枕を折りたたんで抱きしめる。なんだか少し、窮屈だ。蜃気楼実在したりはしない。だからベッドを好きに使ったっていいはずだ。あれはただ、何かの光が屈折してあそこに見えるだけなんだ。俺の頭の中だけで存在する幻でしかない。背中の一部が少し、暖かくなる。幻だけれど、触れたのがわかる。 「いいじゃん、もう」 「良くない」 「諦めなよ。俺も諦めるからさ。それに成彰さんのせいなんだし」 「こんなことになるとは思わなかった」  胃がキリキリする。これは俺に対する罰だろうか。蜃気楼とはいえ、人を消し去ろうとした罰。  俺はあの絵からこの蜃気楼を排除した。だから蜃気楼は行くところがなくなって、ここにいる。樹が個展に来たときのことを思い出す。最終日だ。 「こんにちは、成彰さん(先生)」 「ああ。(浅井君)。わざわざありがとう」 「最終日になってすいません」  少しだけもうしわけなさそうに微笑む。外にいる樹は家にいる時より、少しだけ表情が豊かだ。 「いいんだよ、別に。それにここにある半分くらいは見たことがあるやつだろうし」 「そうですね」  ここにある絵はだいたいがまだ売れていなくて画商が保管しているか家においてあるやつで、取材のときにはみているはずだ。見ていないのはあの、海の絵、くらいだろう。  朝、樹にクロージングで打ち上げがあるから晩ご飯は作れないと言えば、見に来ると言った。本当は来てほしくなかった。あの嫌な奴に合わせたくはなかったし、それにあの絵を見せるのが怖かった。けれども樹はあの絵の前で少し佇み、横に立つ俺に、不思議な絵ですねといっただけだった。そのことにホッとした。俺は樹から何かを奪ったわけではないらしい。だからきっと、あの蜃気楼は俺の水槽に反射しただけのものだ。  個展に現れた樹は小さな花束を持っていた。だから耳打ちした。 「あのさ、今日海であった嫌なやつが来る」 「え?」 「だから、早く帰ったほうがいい」 「俺は気にしないけど」  本当に?  淡々とした樹の言葉に、嘘ではなさそうだと感じる。 「何か聞かれてもプライベートだと言えばいいでしょう? それにこういうところでそれっぽくしたほうが、後で楽かもしれない」 「楽?」 「そう。恋人のふりをするなら」  その声に心臓がぐらりと揺れた。  楽。  そういえば結局、あれ以来、とりたてて恋人のふりをしたことはない。樹とどこかにでかけたりしたこともない。  ふりをしたほうが、いいのかな。けれども今までと同じでもいいように思う。 「それは(浅井君)にとってもいいこと?」 「え? まあ、そうですね?」  樹は僅かに首を傾げた。  どちらかといえば、どうでもいいように聞こえた。樹にとって大抵のことは、どちらでもいいし、どうでもいい。あんまり気は進まなかったけれど、特に何が嫌だということもない。ただ、色々聞かれるのが面倒なだけだ。 「俺は適当にあしらいますから、大丈夫ですよ。慣れてるから。先生が嫌なら、早く帰りますけど」 「いや、俺も別に」  今更だ。  オープニングで恋人がいると言ってしまったのは俺だから。そのあと申し訳ない気持ちになったのは、なんとなく、樹を衆目に晒すのが申し訳ないと思っただけかもしれない。それにすでに、今も樹と親しげに話していて、そのことで耳目を集めている。何人かがチラチラと興味深そうにこちらを見ている。だから、いまさらだ。  しばらくして、トークイベントの時間になり、インタビュアーの質問に適当に答えながら目で樹を追う。樹は一番うしろの席でぼんやりと耳を傾けていて、蜃気楼はあの海の絵の前にいた。何をしているんだろう。 「それで今回の新作ですが、何を表現されているんでしょう」 「え、ああ。あれは神津の海です」 「曇りの日の風景でしょうか」 「私が行った時は晴れてたんですが、書いてみるとあんな色になりました。変ですよね」  インタビュアーは困ったように眉尻を下げた。  蜃気楼はあの絵に何度も手を伸ばしている。まるで絵の中に戻ろうとするように。俺が、あの絵から締め出したのか。なんだか心苦しくなった。心が曇るようだ。 「あの、樺島先生?」 「あ、すみません。なんであの色になったのか考えていましたが、やっぱりよくわかりませんね」  会場から小さな笑いが起こる。 「はは。きっと先生の印象があんな色だったんでしょうね」  あの時の空は印象も晴れていたはずだ。なのに何故。いや、なんとなくわかった。俺は排除しようとしたんだ。あの蜃気楼を。だからその分、彩度が落ちた。あの絵はあの日の海を描いた絵だ。あの海はもっと鮮やかだったのに、その何割かを削ってしまったからきっと、灰色じみている。やっぱり俺のせいなのか。  いくつかの質問に答えるうちも、蜃気楼はずっとあの絵の前で佇んでいた。  そのうち拍手でイベントは終わり、あとは関係者で小さな打ち上げがある。近くのバルが予約されていたはずだ。 「成彰さん(先生)、俺は先に帰ります」 「ああ、気を付けて」  樹は手を振って、蜃気楼は樹を追いかけるように去った。バルでの会食では話題の3分の1程は樹の話題で、あとはどうでもいいような日常の話題。それから前に寝たことのある名前が思い出せない女とのどうでもいい会話。 「先生、今日はつまらなさそうね。あの彼氏さんのことを考えてる?」 「そうといえばそうだし、違うといえば違う」  早く帰りたい。ここの水槽はみんな濁っている。家に帰って、テレビが見たい。 「あんな綺麗な子、どこで見つけてきたの?」 「仕事の繋がりだよ」 「モデルか何か?」  モデル、ね。樹は確かにモデルになれば人気がでそうだなとは思う。綺麗だし。ああ、このどうでもいい会話を早く切り上げたい。ここはまるで灰色の海だ。そう思った。

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