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第21話 1年と1か月前(2)
家に帰ればすでに電気は点いていなかった。けど、ソファに樹が座っていた。
「おかえり、成彰さん」
真っ暗なのに、月明かりでも浴びたような薄青い背中がはっきりと見えた。電気を付けると、まるで本物の樹が座っているように見える。振り返れば、樹と見分けがつかないかもしれない。紅茶を淹れてはくれないけど。
「無視はしないでほしいな」
「ごめん……あのさ。あんたあの絵に戻ろうとしたの?」
「あの絵だけは見えたんだ。俺がいると成彰さんは迷惑だろうしさ。でも駄目だった」
じわりと心が傷んだ。
「……他に見えるものは?」
樹の後頭部が左右に揺れる。俺と、あの絵だけ。
「今日はもう寝る。ちょっと酔っ払ったし」
「……一緒に寝ていい? 他に何も見えなくてさ」
振り向いたその表情は、少し困ったように見えた。頷けば樹はついてくる。部屋に戻って少しだけよそ行きのシャツを放り投げて着替えていると、樹は所在なさげにベッドに横たわる。その隣に俺も寝転がると、樹はうっすらと目を開いた。
「今日はこっち向いてくれるんだ」
「酔っ払ってるから」
「いいね」
手が頬に伸ばされる。触れた部分がじんわりと温かい。
「君は樹の何」
「俺? わからないよ。俺は自分を樹だと思ってるし。でも多分違うんだろうってことは知ってる」
「ずっといるの?」
「さぁ」
改めて、眼の前の蜃気楼を見た。とても透き通っていた。樹と同じように。俺はこの樹に消えてほしかった。今も。蜃気楼というのは俺にとっては終わりをもたらすものだ。
けれど俺があの絵から追い出したから、この樹はここにいる。そうしなければ樹が目の前に居る時だけ、現れたんだろうか。どちらにしても。
「なんで君は俺の前に現れるのかなぁ。いつもは誰かと付き合って、しばらくしないと現れないはずなんだ」
それがいつも。俺は相手の水槽をよく見ようとして、それでもだんだん濁ってきて、よくわからないままに俺の見たいものを見始める。
「さぁ」
「俺は樹との関係を変えたくない。これで完璧なんだ。何も変えたくないんだよ」
「本当に?」
じっと俺をみているその瞳は、やはり透明な水に浮いたガラス玉のようだ。そうしてそれは次第に近づき、唇に温かさが触れた。そのことにひどく動揺した。
「いったい、何を?」
「多分もっと単純な話だよ」
「何が?」
「俺がここにいる理由」
蜃気楼がここにいる理由?
「俺がいるとナンパとかできないだろ?」
「ナンパ?」
想像もしていなかった内容に面食らう。
「そう。成彰さんは誰かとやりたかっただけ」
やりたい? 誰かと?
「まさか。なんでそうなる。なんでそれで樹になるんだよ」
訪れたのは困惑だった。俺は別に樹とそんなことをしようとは考えていなかった、はずだ。それにそれが一番、嫌だった。訪れてほしくない顕著な変化。その先は別れしかないのに。
「さぁ。でも溜まってない?」
「溜まって?」
そう言われてふと考える。最後に誰かとしたのはいつだろう。いつも適当にパーティに行って、誰かをひっかけていて、でも確かにご無沙汰だ。したいといえばしたい。その気持はたしかに、否定はできない。心臓がどくりと音を立て、思わず見つめた樹は綺麗だった。
「いや、だからってそんな、こと、樹としようなんて考えるはずがない。そもそも君は実体がない。だから……しようと思ってもできないよ」
「そうだね」
せいぜいこの、息を吹きかけるくらいの接触がせいぜいだ。いつも俺の頭に起こる反射は実体を伴っていた。なぜなら蜃気楼は実際の眼の前にいる誰かの姿に反射して、少しだけ違うふうに見せていただけだったからだ。こんなふうに反射だけで幽霊みたいに存在したことはない。けど。
「俺はそんなに、複雑な存在じゃないんだよ。成彰さんは単純に誰かとしたかった。きっと別に俺じゃなくてもよかったけど、一番近くにいたのが俺だったからさ。きっとただ、それだけだ」
「馬鹿な、そんな馬鹿な!」
意味がない。意味がわからない、そんなこと。
「ごめんね」
「いや、でも、そうだとしても」
「俺は成彰さんと一緒にいたい。でもきっと、本当の樹ならそう思わないと思う。だから多分、俺はそのためにいる」
俺が誰かに触れるために?
樹はいつも、近くにいるけれど一定の距離を取っている。向かい合って食事をして、隣り合ってテレビを見るけど、触れたりはしない。海での表情を思い浮かべれば、直接触れらることは想定していないのだろう。この蜃気楼のように体を触ってきたこともない。けれども触れたいと思ったことは……あるけれど、それを実行に移すつもりなんてサラサラなかった。けどもう、意識してしまった。
「俺は樹をそんな対象として見ていない」
「俺は樹じゃない」
「じゃあ、誰なんだ」
「さぁ」
そんなことはわかってる。俺の目に見えていた反射で、ようは俺の妄想だ。俺がこの樹を抱くっていうのか? そのためにいる? そんな、馬鹿馬鹿しい。……本当に馬鹿馬鹿しい。
「成彰さんが望んでないことはわかったよ。消える方法もわかった」
「どうすればいい?」
思わず強い言葉をかければ、蜃気楼は唇を噛みしめるような、妙な表情を浮かべた。
「俺はもともと樹なんだよ。成彰さんの頭の中でも。だから成彰さんが樹が近くにいると思っているときしか俺はいない」
そういえば、樹が家から出ていくとこの蜃気楼は消える。個展でも樹と一緒に出ていった。
そうすると、樹が目の前からいなくなれば、つまりこの家から出ていけば、現れない。
「嫌だ。そんなのは、嫌だ」
本末転倒だ。俺はただ、樹といたいだけなのに。
「おやすみ、成彰さん。どうしていいかわからないけど、俺は成彰さんが近くにいてくれればそれでいい。他は真っ暗だから」
真っ暗。
「あの絵は売らないことにする。ずっとリビングに置いておけば、ましかな」
「どうかな。どうせなら、この部屋にいたい」
手に、蜃気楼の手が触れる。その触れるはずがない手は、少しだけ温かかった。
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