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第22話 1年と1か月前(3)
久しぶりに訪れた中垣内のカウンセリングルームには、未だ俺の描いた絵が飾られていた。あの絵は今でも、俺の中垣内に対するイメージだ。鉄壁な表面に全てを隠して薄笑いを浮かべる人。蜃気楼が現れないほど隙がない。初めて会った時、何を考えてるのかちっともわからない中垣内が気持ち悪く感じた。でも絵に描いてからはそういう人だと納得した。それ以降は何も疑問はわかない。そういう人だとわかったから。
「なるほど。つまり樹さんとは別に、そのもう一人の樹さんの存在をあなたは認識したんですね」
「そう……なのかな」
認めたいと思ったことはない。むしろいなくなってほしいとずっと思ってた。でも、あの絵から追い出したのは俺なんだろう。だから、樹とは違うと認識した、のかな。
「今もいなくなって欲しいですか?」
「今も? そりゃぁ、まあ」
樹との関係がどうのというより、あの樹はなんだか痛ましかった。他は真っ暗だって言ってた。俺の勝手な都合で切り離されてしまった樹。何も見えなくなるのは嫌だと思う。何がなんだかわからなくなるから。
「その樹さんがいるのは樺島さんがナンパできないからでしょう? ナンパしに行けば、いなくなるのかもしれませんね」
「そう、かな」
中垣内は僅かに頷いた。
「あなたの蜃気楼は、少し特殊なんです」
「特殊」
「ええ。他の方の蜃気楼は時折本人に攻撃的です。樺島さんの蜃気楼は積極的にあなたに働きかけません。だから私は樺島さんはものの見え方が少し違うだけだと申しました」
俺も本を読んだことがある。普通の妄想というものの中には、その人を責めたり不快にする言動をするものが多いようだ。
「お伺いした範囲では、その樹さんはいつもと少し違うかもしれません」
「俺の頭がおかしくなったってこと?」
「人の頭というのはみんな少しずつ違うものですよ」
「……あの樹は俺を攻撃する?」
言葉にしてみても、そんなようには思えなかった。
「それはわかりません。いつも」
攻撃的なふうには見えなかった。ただ、俺はどこかにいって欲しいだけだ。今の暮らしを乱されたくない。けど。
「樺島さんはどうされたいですか?」
「わからないよ。……とりあえず、ナンパしてみることにするよ」
あまり気は向かないけれど。
久しぶりに出かけたパーティは、季節外れの屋外だった。BBQハウスに併設のテント完備のBBQ場はコンロも食材も全て店で用意するから、参加者は何も必要ない。身一つのお気軽なBBQ。この間の個展の主催者からの招待で、たまたま手紙の隙間に挟まっていた。
今日は遅くなるから夕食は別だと樹には言ってある。わかりましたという短い答えの簡素さに、妙に落ち着く。やっぱり俺と樹の間には気にするべきことなんてなにもない。だからずっと、この関係を続けていける。
今日はきっと、会社の近くのどこかで食べて帰るのだろう。新しくできた店なんかに行くのかな。そう想像するのはなんとなく楽しかった。
適当に挨拶をして、人が集まるコンロに近づく気にもなれなくて、バーでもらったハイボールを傾ける。今日はあの画商の男はいないから、少しだけ気が楽だ。
「樺島先生、久しぶりね」
「ああ」
髪が長くてすらりと背の高い大きな花がらのワンピースの女。誰だったかな。確か誰かの友達で、ええと。
「どうせ私のこと忘れちゃってるんでしょ? エリーよ」
「ああ。確か、モデルだっけ?」
名前につられて記憶が薄っすらと浮かび上がる。俺はモデルは使わないから縁はないけれど。
「そうよ。先生はまたナンパ?」
「……まあね」
「彼氏さんができたんじゃないの?」
「そう。なんで知ってる?」
「大月 さんが言いふらしてたわ」
エリーは意味ありげに俺を見る。大月……あの画商の男か。
「そんなに?」
「ええ。あのひと、そういう話、好きだもの。彼氏さんと上手くいってないの?」
「そんなことはないけどさ、たまには」
エリーはカチリと俺のグラスにグラスを打ち付けた。
「やっぱりねぇ。樺島先生が一人の人と続くわけないもん」
「俺ってそんな印象?」
「いつもとっかえひっかえじゃない」
そうだったかな。基本、俺が誰かと付き合う時は一人だけだったと思う。誰かと付き合ってる時はパーティに来ないから、傍からはそう見えるのかもしれない。誰とも付き合ってない時は、確かにそんな感じだ。
「お眼鏡に叶う人は来てる?」
「どうかな」
ここにいる誰かと寝る。そんなつもりで眺めてみたけれど、誰も彼もさして違いは見当たらなかった。そういえば今日声をかけていたのはエリーだけだ。いつもは放っといても誰かやってくるのに。
そういえば彼氏ができたという噂が回っているからか。面倒くさいな。誰かと1回だけやって、後腐れがない人間。そういう人間というのはあまりいない。だから誰かと付き合うのは面倒くさい。たいていは1回やって、強引に付き合うと付きまとってきて、好きになってきた頃に勝手に去っていく。
「エリーさん、どう?」
「先生、最低ね」
わかりやすく軽蔑したような視線が届く。でもじっと見ているうちに、その水槽は曇っていく。何を考えているのかわからなくなっていく。ああ、これが嫌なんだ。
「冗談だよ」
「先生、本当にその彼氏さんのこと、好きなの?」
「……好きだよ」
「なら、良くないよ。大事にしなさい」
良くない、のかな。本当は付き合ってなんかいないのに。樹は俺がここでナンパして、誰かとやっても気にはしないだろう。そんな気はする。ふと、こちらを覗く顔の唇がやけにピンク色なのに気がついた。
「エリーさん、俺にキスマークつけて」
「あきれた。彼氏さんに嫉妬させたいわけ?」
「駄目かな」
「先生はどうしたいわけ?」
中垣内の言葉が思い浮かぶ。俺はどうしたいのか。どうもしたくない。このままがいい。キスマークをつけて帰って、樹が何も動じない姿を確認したい。おかしな話だ。自分がやっている行動の意味がよくわからない。
「そんな目で見ると、本気にしちゃうよ」
エリーの唇が近づき、喉元に触れる。強い圧力と熱を感じた。それが離れて、湿った表面に風が当たる。
「丁度良くついたわ」
エリーの差し出すコンパクトで首元を見ると、赤いあざができていた。口紅はピンクなのに、何か変だな。襟を立てて隠してみるけれど、その端っこがはみ出て見える。
「ありがとう。お礼に何か奢るよ」
「それだけ?」
「一泊する?」
「やめとく」
バーベキューは夕方にお開きになり、夕食を食べて帰るといった手前、手持ち無沙汰になった。家に帰れば樹はいるんだろうか。なんとなくそう思えば足はショップの集まる方に向く。
普段あまり出歩くことはないけれど、ふらふらと彷徨くのは嫌いじゃない。いくつかのショップを見て回り、夕食代わりにケバブをつまんで紅茶屋でおすすめの茶葉を買う。樹は比較的紅茶が好きなようだけれど、紅茶以外も色々と飲む。
そういえば樹は何か好きなものはあるんだろうか。ついでに小さなケーキを買った。樹は甘いものが結構好きだ。俺も好きだけど、好みは少し違っていて。俺はどちらかというとショートケーキとか生クリームたっぷりな奴が好きだけど、樹はザッハトルテとか濃縮した甘い奴が好きだ。
そんなことを思いながら家に帰れば、電気はついていた。そうしてソファから振り向いた樹は、俺の首元で視線を止めた。それで、エリーがキスマークを付けていたのを漸く思い出す。
「えっと、あの、これは、酔っ払った勢いでさ」
「成彰さん 、それ、しばらく跡になるやつです」
「あ、あ。そうかな」
「つけた直後なら冷やせばいいけれど、しばらく経ってるなら温めたほうがいいですよ」
「ああ、ありがとう」
なんとなく居たたまれなくなって洗面に移動すれば、思ったよりその跡は黒くなっていた。入れ墨みたいで少し気持ち悪かった。けれどもこれはしばらくすれば消える。シンクにお湯をためて浸かる。温めれば、消えるのかな。
樹は俺のキスマークに、特に何の感情も動かしていなさそうだった。揺れはほとんどない。やっぱり樹は変わらない。俺はこのままの生活を続けたい。
「成彰さん、エッチしてくるんじゃなかったの」
顔を上げれば樹の蜃気楼が見下ろしていた。
「風呂まで入ってくるなよ」
「ごめん。……他は何も見えなくてさ」
蜃気楼はふわりと目をそらす。気がとがめてでもいるんだろうか。風呂にまで来ておいて?
けどいつもは、いつもは樹が帰ってくる前に風呂に入る。絵を描いた後、時間がなければ軽くシャワーを浴びる。それでさっぱりして飯を作って。
「そのまま外向いてて」
「いいけど。恥ずかしいの?」
「恥ずかしい、とかじゃないんだけどさ。そういや、俺は樹とつきあってるって話になってるからナンパは難しいよ」
「ああ、そう。まあ、そうかも」
首筋に触れる。触った感じだけではもうわからない。肉体的な接触、か。エリーは美人だったと思う。あそこに来てる女の半分くらいはモデルで、大抵は美人が多い。見てれば多少興奮はする。でもなんだか、とても面倒くさそうだ。
「風俗とか行ってみようかな」
「風俗?」
「行ったことないけどさ」
「それならいっそ、俺じゃだめ?」
「え?」
声に振り向けば、樹は言った通りにドアの方を向いていた。
「俺はどうも、そのためにいるわけだし」
細い首筋、華奢な肩周り。あそこにいた女の誰よりも綺麗かもしれない。手を伸ばして、すり抜ける。
「そもそも触れないじゃないか」
「でも別に、俺をおかずにすればいいじゃん」
「自分で?」
「脱いでみようか?」
ぼんやりと見ていれば樹はシャツのボタンを外し、上着を脱ぐ。薄い背中に肩甲骨が浮かぶ。フラッシュバックする。
「やめてくれないかな」
「駄目?」
「気持ち悪いだろ? 一緒に住んでるやつにそんな目で見られるとか」
樹は振り返り、俺の目を見た。スラックスは履いていたけれど、上半身は裸だ。海で見たあの時のままのその体は、妙な色気がある。
「成彰さん。俺は樹本人じゃないよ」
「姿は全く同じだよ」
「じゃあ本人に聞いてみればいい。気にするかどうか」
「何て聞けばいいんだよ」
本当に。体を洗ってもキスマークは消えなかった。そうしてリビングに戻れば、樹は変わらずテレビの前に座っていた。歌番組が流れている。
「紅茶とケーキを買ってきたんだ」
「ありがとうございます」
お湯を沸かして新しい茶葉の缶を開ける樹のうなじは、風呂場で見たものと変わらないように思える。今は樹の蜃気楼は樹に重なっている。けれど、今茶を淹れているのは蜃気楼じゃなくて樹だ。なんとなく、区別はついた。
あの蜃気楼は俺が見ている俺の妄想だ。だから眼の前の樹じゃない。そんなことはわかっている。
「ウバですね。結構好きです」
「お店の人がおすすめしてた」
次第に薔薇のような淡い香りが広がっていく。心が少し、平穏になる。あの蜃気楼は樹とは別物だ。だからといって。
「嫌なことでもあったんですか?」
「え?」
「そんな顔をしてるから」
「そんなことは、ないけど。ちょっとよくわからないことがあってさ」
樹はわずかに首を傾げた。蜃気楼があんなことを言ったものだから、少し意識をしてしまう。理性的に考えて、俺は樹と、したいわけでは、ない。でも、きっと誰かとはしたいんだろう。それは否定しがたいし、自分を誤魔化す意味もない。これはきっと生理的なもだ。
ケーキの上に塗られたクリームは口の中でふわりととけた。なんとなくあの蜃気楼を思い出す。樹と蜃気楼は違うものなのか? 聞いてみたらだって?
テレビを見ればどこかで見たことがあるような顔が並んで踊っている。
「あのアイドル、結構好きなんだよね」
「そうですか」
「でも俺が好きだと思ってるのはテレビに写ってる姿でさ、本当の本人がどんな人かってわかんないじゃん」
「そうですね」
「……でも好きなままでいいと思う?」
樹の視線に重ねて、蜃気楼が俺を見つめる視線を感じる。
「いいんじゃないですか。ストーカーとかにならなければ」
樹の声はいつもより淡々と聞こえた、きがする。
「ああ、そんなつもりは更々ないんだよ。見てるだけ。たださ、その、ネタにしたりとかさ。それってアイドル本人にとっては気持ち悪いかな?」
「アイドルの仕事ってそういうものでは?」
「そっか。そのもし、樹 がアイドルだったら、そんなファンは嫌い?」
樹がくすりと微笑んだ。
「さぁ。変なことを聞きますね。知らないなら、別にいいんじゃないですか?」
いい、のかな。
「本人もいいって言ってたんだから、いいんじゃないですか?」
ベッドに座る樹はやっぱりいつもと変わらない。そういえば樹は本人も蜃気楼も、ほとんど変化しない。
「気がとがめる。俺は別に樹じゃなくていいんだ」
「風俗に行くほうがいい? 俺は真っ暗な中で成彰さんが寝てる間じっとしてるより、一緒にいてくれるほうがいいんだけど」
真っ暗の中で。それはどれほど。心が痛い。これはきっと罪悪感だ。俺がしてしまったことに対して、俺に対する。
でも。でも、きっと、樹は気にしない。それ以前に俺にそういった意味での関心はないだろう。
「いいのかな」
まるで言い訳みたいだ。
「さぁ。いいんじゃないですか?」
その顔は樹と同じなのに。
「……おいで、樹」
これは樹じゃない。ただの俺の中で反射する幻だ。それだけだ。
呼べば樹は近づいて、少し背伸びをして俺の唇に口をつけた。ふわりとした熱でそれを感じた。そうして俺を抱きしめた。扇風機の風が当たるようにその感触を感じる。これでいいのかはちっともわからない。
「よかった」
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