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第23話 8か月前(1)
「おはよう。樹」
目を開ければ、樹はいつも起きている。
「おはようございます、成彰さん」
唇が近づく。表面が空気に触れる。樹は寝ないんだろうか。そもそも蜃気楼に睡眠が必要かどうかはわからないけれど、眼の前の蜃気楼を俺は既に樹本人とは別のものだと認識していた。おそらく。
唇がふれあい、口中に舌が差し入れられる。俺が本当に舌を伸ばしても、それは空気中に間抜けに突き出されるだけで、その空気の冷たさが全てを曖昧にする。だからまぁ、気分だけ。まるで霞を食べているようだ。
背中に回される腕は接する布団の感触と重なって別のぬくもりをもたらす。首筋に沿う指は、いつかミリーのつけた印のあたりで一層強く感じる。エリーだっけ?
微かで淡いその振動と感触は俺の皮膚表面を這いずり回る。
「成彰さん、今日は気分がいい」
「それは、よかった」
本当の樹なら、きっとそんなことは言わないだろう。蜃気楼は少しだけ、本物の樹より不安定で感情的だ。それはきっと、俺の中のいろいろな記憶がその中で混じり合っているからだ。体を起こして窓を見れば、薄っすらと明るい。時計に目を移せば7時前。
「パンケーキが食べたい」
「わかった」
本当の樹がパンケーキを食べたいのかはわからない。でも別に、本物の樹から何が食べたいとかリクエストされたことはない。聞いてみれば少し考えて、例えばハンバーグとか焼き魚とか、そんな無難な答えが出てくる。だから特に、食べたいものはないんだろうなとは思っていた。嫌いなものはなさそうだ。好きなものはなんとなくわかる。野菜ならトマトとか、肉なら豚肉とか、そんなことはなんとなく。
だからいつも俺が気が向いたものを作る。パンケーキは多分、樹はわりと好きだ。樹は俺ほど甘党じゃなさそうだけど、ブルーベリーのジャムは好きみたいだから、昨日新しいのを買っておいた。
エプロンをつけてボウルに卵を割り牛乳をそそぐ。そうしている間に蜃気楼はソファに座るから、テレビをつければニュースが流れていた。聞くともなく聞いていれば、どこかで大雪が降ったらしい。この家は床暖房が効いていて、起きるころには暖房が自動的につくようにセットしているからあまり気にしなかったけれど、そういえば肩口あたりは肌寒かった。
「寒くない?」
「大丈夫ですよ」
ふと、振り返れば樹はテレビの方を向いていた。本当はきっと、あのソファに座っている必要もない。けどきっと、樹ならそうしている。本当の樹の朝はソファに座ったりしない。身支度を整えてからリビングにきて、朝食を食べてそのまま出かける。
「おはようございます、成彰さん 」
「おはよう、樹 」
パンケーキをひっくり返していると、扉がガチャリと開く。振り向けば、ソファには誰もいなかった。
「今日はパンケーキにしたよ」
「美味しそうですね」
樹は食器棚からカトラリーを取り出し、それから冷蔵庫からメープルシロップやジャムを取り出す。もちろんブルーベリージャムも。テレビがざわざわと天気予報を流す。
「今日どっかで大雪なんだってさ」
「寒くなりそうですね。この辺は晴れみたいだけど」
「もし雪が降ったら雪だるまでもつくろうかな」
この家に庭はないけれど、駐車場前のスペースに余裕がある。
「一緒に作ります?」
「え、本当に?」
「子供の頃以来だけど」
「じゃあ、降ったらね」
そういえばもう2月だ。雪が降ってもおかしくはない。この神津は温かいからあまり雪は降らないけれど。雪だるまか。それはそれで楽しそうだな。
「ごちそうさまでした。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
樹は食器をシンクに運び、そのまま玄関に向かう。蜃気楼はその前に俺にキスをする。それが最近の、俺の毎日。
俺と樹と蜃気楼の奇妙な関係は、一見落ち着いていた。
思ったほど、おかしな感じにはならなかった。俺は蜃気楼になれていたし、蜃気楼の樹は本物の樹とは結構違っていたから。それに俺は蜃気楼と樹を混同しないように気を付けていたし、区別をつけることは簡単だった。触れられないのが樹で、触れられるのが蜃気楼だ。触れられるとはいっても蜃気楼なものだから、実際に抱きしめたりはできない。それはまるで精巧なホログラムのように俺の網膜に映るのに、手を伸ばせばすり抜ける。だから俺は丸めた布団を抱きしめたりして……とかなんだか不毛な生活をしている。
ナンパは結局しなかった。
ナンパをして、仮にその女に付きまとわれて今の生活が壊れるかもしれないと考えれば、それは鬱陶しかった。それに樹とは恋人のふりをすることにしているし。
結局俺の今の生活は満ち足りていて、ただやりたいだけなら一人ですればいい。だからやっぱり、蜃気楼がいなくても何も問題ないはずだ。けれども蜃気楼は消えなかった。
どうしてだろうかと思う。俺は樹が好きなんだろうか。夜にキスをして、それから擬似的にセックスする樹にはなんだかとても興奮はするけれど、朝夕に話をする樹に対してはそんな感情は特にわかなかった。一緒にテレビを見ている時に手を重ねてくる樹は蜃気楼で、それなりに愛おしいとは思うけれど、それは現実の樹とは切り離されていた。
二人の樹は違うものだ。俺の頭は確かにそう認識していた。そうしてそれは、これまでの恋愛と全く違うものではないとも思った。俺は付き合ってた誰かにかぶさる蜃気楼をみて、その蜃気楼を好きになっていたんだから。じゃあ俺は本人が好きじゃないのかと思うとそれは違う、と思う。蜃気楼が現れるのは大抵、恋人みたいな関係になってからだったから。
描いている絵に一段落して立ち上がる。窓の外は曇っていたけれど、雪は降っていない。窓ガラスにふれると冷たい。この部屋の中は温かいのに、外は冬だ。温度の差というのは色々な屈折を生む。温度差によって発生する結露はその外側を白くぼかす。けれども樹の水槽は相変わらずクリアで、だからこそ余計光を反射して、蜃気楼がくっきりと見えるのかもしれない。
あれからスランプにもなっていない。描かないといけないものは特になかったけれど、テレビを見ていて綺麗だなと思った風景を思い出して描いたりとか、あとは昔あったことを描いたりした。BBQで出会ったマリーのキスを小さなキャンバスに描いたりした。まるで染みのような絵になった。
あれはやっぱりただのキスで、それ以上の意味はない。あれからパーティにもいっていないし、俺の生活は平穏そのものだった。満ち足りていると思う。
今日の晩ご飯はボルシチにしようと思ってスマホを開く。外の曇天がなんとなくロシアを思い起こしたという単純な理由だ。それに寒そうだから鍋物は温まりそうだし。そう思ってページを捲ってみて、バレンタインという文字の広告に気がつく。
そういえば今日は2月14日だ。バレンタイン。この時期にパーティにいけばチョコを配ってい歩く女に出会う。チョコ、か。時計を見るとまだ1時だ。既に絵を描く気分は失せていた。
思い立ってコートを羽織る。半年ほど前、個展の最初の日に樹がケーキを買ってきてくれたことを不意に思い出したから。今日は出かけよう。誰か神津の公園通りに美味いザッハトルテのケーキ屋があるとがいっていた。
がたんごとんと揺れる電車に身を任せながら過ぎていく景色を眺める。こんなふうに平穏に、ずっと過ぎていけばいい。何事も起こらず。でも、誰かの為にケーキを買いに行こうと思ったのは初めてかもしれない。これまで付き合った女はたいていもう少し高いものを欲しがった。
樹はなにか欲しいものはあるのかな。
食べ物も飲み物も、それなりに美味しければ特に不満はないらしい。アクセサリはしていないから、宝石や貴金属にも興味はなさそうだ。ファッションも……質は悪くはないけれど、量販店で無難なものを買っているように見える。
神津につけばいつも通り人混みでごった返している。見上げればこの間個展をやったスカイタワー。そういえばここの屋上はプラネタリウムだ。樹は星が好きだったりするだろうか。そう思いつつも行政区公園の方に向かい、広々とした公園を眺めながら、こういうところでゆっくりするのも悪くないかもしれないと思い返す。デートとはいえないささやかな外出。そうして見つけたケーキ店のウィンドウには重厚そうなカラフルなケーキが並び、これならきっと喜んでもらえるだろうとザッハトルテにあたりをつける。
「先生の絵は好きですよ」
そういえば取材の時に、そう言われた事がある。
俺の絵、か。個展にいくとよく言われるけれど、俺にはどこがいいのかイマイチよくわからない。嫌なものを描いている時はそもそも綺麗に思えないし。
絵を贈れば喜んでもらえるだろうか。けど、あれらの絵は俺にとって、書き上がってしまえばあまり意味があるものでもない。そんなものを贈るのも気が引ける。そうすると樹を描く……? そう思うと急に世界が揺れた。
「何だ?」
「お客様、いかがされましたか」
「いや、なんでもない」
なんとか会計を済ませて店を出る。そこには公園が広がっている。ぼんやりと開けた景色には駅前のように何かの基準となるような建物のラインがなく、どこに焦点を合わせていいのか急にわからなくなってきた。ぐらりぐらりと左右するその世界に胃の腑は浮き上がり、軽い嘔吐感とともに地面に倒れそうになるのをなんとか足に力を込める。頭がふわふわして、気持ち悪い。目眩、かな。こんな症状に陥ったことはこれまでなかった。
そうしてふと、中垣内のクリニックがこの公園通りの先にあることを思い出す。
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