1 / 40

序章 一節

 第五分室の室長である四條の私費にて建設された寮はその目的の通り日常生活を送ることに何の不備もなく、中でも専用回線の引き込みや内外に配置された高性能監視カメラ、唯一の出入り口であるエントランスは強固なオートロックと居住者である第五分室のメンバーの身の安全を第一に設計されていた。 「――斎、俺らもうこんな事やめよ?」  戯れによる真香の冗談ではないかと斎は思った。  到底冗談を言っているようには見えない真香の眼差しに斎の心臓は早鐘を打つ。何か真香の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか、秋も終わり冬を迎えたのにもかかわらず、斎の全身が不快な汗で覆われるような感覚があった。  自らの部屋である寮のⅢ号室でそれを突然真香から伝えられた斎は理解が追い付かずにただ茫然とする。 「ど、して……?」  セフレとしてだけではなく友人としても真香と斎を大切に思っていた詩緒に対して、関係の解消を言い出したのは真香だった。それぞれに特別な存在がいなかったからこそ成り立っていたセフレという関係、そこから詩緒が抜けてしまったことで残されたのは真香と斎のふたりだったが、それまで三人で成り立っていた関係を二人のみとなってからも継続すべきであるかは一度改めなければならないことだった。  入寮に際しての慌ただしさで斎と話をする時間を作れなかったことを真香は今になって後悔する。  四條により第五分室が設立されてからの約三年間、斎と真香そして詩緒の間に存在していたセフレ関係。それが終焉を迎えたのは詩緒が六年の時を経て元彼である綜真と縒りを戻したことが理由だった。 「俺たち二人でこんな事続けてても仕方無いだろ……?」  同じ職場へ同じ年に入社した所謂同期である真香と斎はお互いに恋愛感情を抱いていた訳ではない。外で自由に遊ぶ時間も少なく、性欲の解消相手として紡がれてきた関係をふたりだけとなった状況では継続すべきではないと真香は考えていた。友人として斎を大切に思う気持ちが真香から消える訳ではなく、肉体関係だけでもこの入寮を期に精算すべきだと真香は以前から考えていた。加えるならば元々真香と詩緒、斎と詩緒の関係から成立していたものであり、その要ともいえる詩緒が抜けてしまえば遅かれ早かれ瓦解は目に見えていた。 「榊も御嵩さんとああなったんだし。俺らもそろそろ変わるべきなんだよ」  同じ屋根の下で暮らして行くからこそ、その線引きははっきりとさせておかなければならないことだった。セフレという名目が無くなっても友達である事には変わりがない。真香自身も詩緒や斎に依存し続けたことを反省し、自らも詩緒の復縁を期に今一度自身を見つめ直したいという変貌の気持ちを抱いていたが、それは今の斎にとっては到底受け入れ難いものだった。  斎の伸びた手は無意識に真香の服の裾を掴もうとしていた。求めること、求められること、求めることに対して拒絶されないことで斎は真香や詩緒の存在を近くに感じ続けていた。斎にとっては詩緒も真香と同程度に大切な存在ではあったが、斎は真香や詩緒が自分以外の誰かに幸せを見出して離れてしまうことを何よりも恐れていた。身体の関係だけが全てではないと頭では分かっているつもりでも、斎の心は離れて行くことを無意識に拒絶していた。離れてしまうことが自分に価値が無いと言われているような気がした斎の頬に涙が伝う。 「真香も、榊も……俺の前から居なくなるの……?」 「何も変わらねぇよ? 俺も榊もお前の友達だ。いなくなったりしねぇし、榊だって同じ事言うよ」  真香は斎の涙を指で拭いながら言い聞かせるようにゆっくりと話す。無くなるといってもそれは身体の関係だけ、それ以外は今までと何も変わらない。斎と真香、詩緒、そしてこれからは綜真も含めて四人で。家族にも似た友達よりも近しい関係はこれからも何ひとつ変わることはない。  今この場で泣いて縋ったならば真香だけでも引き留めることは出来ないか、斎の頭の中に打算が巡った。身体の関係を継続させる為だけに愛していると口にして、恋人関係として変わらない関係を続けていけないか、斎の意識は真香との関係を失わないことだけに傾けられていた。 「……そ、だよ……ね」  ベッドの上で向かい合った真香に抱きしめられたまま斎は静かに涙を伝わせる。真香との関係もこれで終わってしまい、近くにいても決してその存在を肌で感じることは出来なくなるのだと、斎はこれまでの関係の終焉を感じていた。 「今までと何も変わんねぇ。だからそんなに悲しい顔すんなよ……」  触れる真香の唇はこれまでとは異なり頬へ。それは優しいキスだったが、今までの関係性とは異なることを斎へ明確に示していた。  真香の苦しそうな顔を斎はこの時初めて見たような気がした。だからこそこれ以上身勝手な我儘を言えないことも斎は理解していた。  ただひとり自分だけが取り残された感覚に魘われた斎は、真香が部屋を出ていった後声を押し殺して泣いていた。

ともだちにシェアしよう!