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序章 二節

 真香からセフレ解消を言い渡されて数日。  寮のそれぞれの一室はひとつの居住空間でもあり、風呂トイレも備え付けられていることから一階のダイニングで食事をとることを除けば四六時中部屋から出ずに仕事が可能だった。  平日の朝に行われるミーティングだけは全員が定刻にエントランスへ集合をして、本棟で勤務している四條とのビデオ会議をすることとなっていた。  唯一の救いだった真香からも見捨てられた気がした斎はミーティング以外の時間を全て自部屋に籠もり切っていた。  グルーグレーのカーテンを閉めた斎の室内は日中であっても暗く、あれから何日が経過したのかも正確には把握出来ない状況になっていた。  真香と詩緒のセフレ期間は自分とのそれより一年長く、セフレを解消してもふたりは親友と呼べる間柄だった。斎は自分だけが途中からふたりの間に割り込んでしまった形となってしまったことに苦悩をしていた。  元々四條が第五分室を設立した理由も詩緒や真香という才能のある若手を横行しているパワハラを始めとしたハラスメントで潰されない為の保護目的であり、ふたりに比べて何の特出した才能も無い斎はただふたりとの関係を維持する為だけに必死で営業事務という仕事をこなしてきていた。  斎の事故を切っ掛けに神戸支社から呼び寄せられた綜真が詩緒の元彼であることが分かり、詩緒がセフレという関係性から抜けても真香という存在は側に居続けてくれるものだと思い込んでいた。  真香にとっては親友である詩緒の気持ちを優先するのは当然のことで、その決定には斎も納得が出来た。しかし真香からも三年間続いていたセフレ関係の解消を告げられた今、自分に何が残っているのか斎は分からないままでいた。    不意に部屋の扉が外から叩かれる音が斎の耳に届く。しかしそれでも斎は反応ひとつ返さずに寝室のベッドに突っ伏していた。  今は誰とも会話をする気分にはなれず、それが詩緒や真香であっても、もしくは綜真であったとしても今の斎の神経を逆撫でするだけの存在でしか無かった。  斎の意思に反して部屋の扉を開く重厚な音が響く。寮とはいっても侵入者や盗難を警戒する必要はなく、設備としての鍵はあれど施錠をしている者は誰もいなかった。 「――海老原、居るんだろ?」  玄関の外から様子を伺うように聞き覚えのある声がする。それは詩緒や真香、綜真やましてや四條のものでもなかった。  微睡みの中自分にとって都合の良い夢でも見ているのではないかと考える斎だったが、その声の主に対する輪郭が鮮明に浮かんでくるとベッドから四つん這いの状態で起き上がり視線のみを玄関へと向ける。  真っ黒な輪郭が徐々に彩度を増していく。そこには寮に居るはずのない千景の姿があった。 「……佐野、さん?」  佐野千景の年齢は斎よりも二歳年上だったが元々斎の後から中途入社をした男性であり、斎と共に一時期四條の元で働いていた時期があった。 「なんで……ここに……」  本人は触れられたくないようだが、顔の造形は女性に近く中性的という印象を受け当時は近寄りがたい存在でもあった。  切っ掛けは数年前にあった部署の飲み会であり、酔った千景にキスをされた斎はなだれ込むような形で千景とセフレ関係になった。それは詩緒や真香とセフレ関係になるよりも前の話だった。  しかし今から約一年前、突然よそよそしくなった千景から避けられるようになり、一方的に関係を断ち切られた時の傷はまだ完全には癒えていなかった。 「ああ――」  千景の声を聞いた斎はゆっくりとベッドから起き上がる。寮は部外者の出入りを固く禁じており、勿論分室メンバーではない千景も例外ではない。  第一に寮へ入る為のセキュリティカードすら持っていないはずの千景が部屋まで現れているという現実が斎には信じられなかった。  玄関から顔を覗かせる千景の姿は、共有通路より射し込む光によって逆光に照らされてはいたが、斎には今も鮮明に千景の姿が見えていた。 「俺分室のプレマネになったんだよ。今日は四條さんに連れて来られてな」  千景から告げられたその一言はただ残酷だった。よりにもよって何故今このタイミングで、と斎は言葉を失う。  一方的にセフレ関係を解消されてからも、千景は斎が入院をした時には代わりに仕事を請け負ってくれたり、詩緒のストーカーだった那由多を危険視して詩緒の部屋へ向かう切っ掛けもくれた。  詩緒のメンタルを追い込んだ元上司である山城に対しても毅然とした態度で向かうその姿勢は尊敬に値する。それでも、千景が斎以外を選んで斎を捨てたという事実は変わらない。  詩緒に続き真香を失った斎にとって最後の砦であった千景の存在。一方的に捨てられようが千景を想う気持ちは今も色褪せることはない。  玄関へと歩む斎は千景の姿を捉える。開いた扉から半身のみを覗かせた千景へ今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるが、六畳程度のリビングへと歩み出た瞬間千景の左手薬指に輝く指輪を見て息を呑む。  斎の中で何かが弾け飛んだ気がした。

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