40 / 40

終章 四節

 いつもと変わらない朝だった。だけどひとつだけ決定的に大きく違うものがあった。 「――それで、海老原の話は?」  詩緒との会話が終わり、千景は待たせてしまった斎へ声をかける。いざ自分の番となるとそれが来ると分かっていても斎はびくりと跳ね上がる。  第五分室に所属するメンバーの中で最高身長を誇る斎ではあったが臆病な性格も相成り、怯えるその姿はまるで大型犬のようだった。  気付けば朝のミーティングはもう終わっているのに部屋に戻った者は誰ひとり居らず、全員がこのエントランスに佇んでいた。 「あの……」  斎から発せられる緊張の度合いから用件の概要を察した千景は、無造作に並べられたスツールに腰を下ろし頬杖を付いて斎を見上げる。エントランスは重い静寂に包まれ、誰かの呼吸ひとつであっても大きく響いてしまいそうだった。  斎はごくりと生唾を飲み込み、真香、詩緒、綜真のくれた勇気に応えようと拳を握り締める。 「みんなの前で昔のこと……バラしちゃってすいませんでした!」  エントランスに響き渡るほどの声を張って斎は千景に頭を下げる。エントランスの大理石はそんな斎の言葉を静かに吸収し、一帯は再び静寂に呑み込まれる。  スマートフォンに視線を落とす振りをしていた綜真はちらりと千景に視線を送り、それから何事も無かったように瞼を伏せる。千景もその綜真の視線に気付き、恭しく息を吐き出すとその口をゆっくりと開く。 「……で?」  千景の冷たいひとことが無情に響く。千景に対して直角に頭を下げたままの斎はその張詰めた空気の中、自らの胸元を強く掴んで深呼吸する。千景に言わなければならない言葉は沢山ある。恐らく千景が望んでいるのは単なる謝罪の言葉ではなく、謝罪の上でこれから斎がどう行動していきたいかだった。 「沢山……俺のこと心配してくれたのに、俺、佐野さんに酷いことばっか言って……本当に、すみませんでした」  全身が心臓となってしまったかのように大きな鼓動が斎の耳に響く。殴られても構わない、千景にしでかしたことに対する謝罪はこんな言葉だけでは到底足りないことを斎は自覚していた。  千景は向けられた斎の頭部をじっと見つめ、それからエントランスに佇む詩緒、真香、綜真へ順に視線を向ける。斎が以前の斎とはもう違い、仲間たちに支えられている状態だということを理解するのに時間は要らなかった。少し考えるように視線を落とし、それから長い息を吐いた。 「……もういいよ。お前がそこまで気にすることじゃねぇ」 「佐野さんっ……!」  斎が顔を上げて千景を見た時、その瞳は涙で潤んでいた。まるで大型犬のようだと思いながらも千景はふっと笑みを浮かべて口元を緩ませる。  斎は自身の胸元をしっかりと掴んだまま直立して千景と向かい合う。その表情はまるで憑き物が落ちたかのように晴れやかで、こんなに吹っ切れた清々しい表情をする斎の顔を千景は久々に見た。 「俺、佐野さんのこと好きです」  斎の言葉が耳に飛び込んできた綜真は、その閉ざした瞼を再び上げて斎を見る。 「真香も、榊も。勿論御嵩さんや四條さんのことも好きです」  詩緒と真香は顔を見合わせ静かにアイコンタクトを取りつつも嬉しそうに笑みを浮かべ合う。 「あと、これからは……」  服を掴む斎の拳に必要以上の力が入る。 「俺は、俺自身も好きになれるようになります」  そう思えるようになっただけでも十分だと、斎の新たな決意を感じ取った綜真は安堵をしたように手にしていた見せかけだけのスマートフォンをズボンの尻ポケットへとしまう。 「いいんじゃねーの? お前は同じ間違いはしない奴だから」  もう斎には自分の力は必要が無く、周囲で支えてくれる大切な存在に気付くことの出来た斎はこれから自分のことも大切にしていくだろう、そう感じることが出来た千景は手を付いてスツールから立ち上がる。それとほぼ同時に駆け出した真香が千景へ抱き着くようにしてその腕の中へ飛び込む。それは安堵した真香によるちょっとした場の和ませ方でもあった。 「俺も千景さん大好きー!」 「ほ、本田ちょっと待て重っ……」  突然真香に抱き着かれその体重を支えきれない千景を見た詩緒はそっとふたりへと近付いていき、真香の更に上から千景へと抱き着く。 「俺も千景先輩、大好きなんで」  両膝はしっかりと床に付け、決して千景に体重という負担をかけないように配慮しながら詩緒は真香とふたりで作り出したこの光景にくすくすと笑う。 「はいはい、ありがとよ」  ふたりの悪ノリであることを理解しながら、これ以上この空間が重い雰囲気とならないように敢えて派手なパフォーマンスを示したこのふたりは本当に心から斎のことを考えているのだなと安心して詩緒の頭をぐしゃりと撫でる。真香だけならばまだしも詩緒すらもそれに便乗していることは斎の人徳に至るものであるということを千景はまだ暫く斎本人には黙っていようと考えた。  千景と詩緒の間に挟まれた真香はにやにやしながら自分は無関係というような表情をしていた綜真へ視線を送る。 「御嵩さんはぁ?」  突然真香に話題を降られた綜真は二階へ戻ろうとした足を止めてその団子状態を振り返る。 「え、俺?」 「え、いらねぇ」  綜真が答えるのとほぼ同時に千景は心底辟易した表情を浮かべて吐き捨てる。 「やめて傷付く」  エントランスには楽しそうな笑い声が響き渡る。  斎はこの当たり前のような日常を、改めて掛替えのない大切なものであると実感していた。

ともだちにシェアしよう!