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終章 三節

 その日はいつもと何も変わらない朝だったが、ひとつだけいつもより大きく違うことがあった。  普段通り迎えた定刻に開始されるエントランスでのミーティング。千景への謝罪タイミングを狙っていた斎は申し送りの間ずっと落ち着きなくそわそわと身体を揺らしていた。  斎がこのミーティングの後を狙って千景へ謝罪しようとしていることを知っている真香、詩緒、綜真の三名は斎の落ち着きの無さに気付いてはいるものの、我関せずと視線すら向けないという状態を作り出していた。  そんな異様なエントランスの雰囲気は流石に千景でも不審に思うところがあり、その疑問を口に出すべきかと悩むが結局面倒になって何も見なかった体をとることにした。 「――本日も宜しくお願いします」  それらの不穏な空気感はビデオ通話越しの四條に伝わることはなく、年末に向けてのスケジュール調整の連絡を四條から受け始業開始の挨拶が終わると千景は大画面に映し出していた四條の画面をシャットダウンする。  何も見なかったことにして藪を突かないのが一番であると考えた千景は、急いで本棟に戻る必要もないことから一度ノートパソコンを閉じると胸元に手を入れる。 「じゃあ俺は午後にある会議までこっちにいるから、何かあったら直接声掛けてくれ」  ミーティングが終わり、まだ千景が寮に滞在することを知った斎は各々が散開し始める今が絶好のチャンスであると考え、意を決して千景に声を掛けて立ち上がる。  寮の屋上には形ばかりの喫煙所があり、雨天時は到底傘が無ければ利用が難しいものであるが、今日のように寒くとも晴天の広がる日中にはとても気持ちの良いものであった。入寮はしていなくとも第五分室のメンバーである千景には屋上の喫煙所を利用する権利があり、物味遊山がてら利用してみようと考える。 「あっあの佐野さんっ」 「あ、榊ちょっと」 「はい?」  栄養剤代わりの野菜ジュースにストローを挿した詩緒は千景に声を掛けられて視線を向ける。そして同時に斎から呼ばれたことに気付いた千景は斎へと視線を向ける。 「タイミング悪……」  天命としか表現のしようが無いタイミングの悪さに綜真が思わず小さな声で呟く。 「どうした? 海老原」  千景は一度胸元に入れていた手を下ろし、自分に対して何か用がありそうな雰囲気を醸し出す斎に言葉を返す。斎はそんな千景の様子を見て勘ではあったが何となく千景の気分がこれ以上ないまでに落ち込んでいることを察する。 「あ、俺は……お先にドウゾ」  斎は萎縮してしまい、これ以上自分の用件を千景に優先させたくないと考えて千景の用事を先に済ませようと手を出して促す。  斎の態度を気にする千景だったが、譲り合って時間を浪費するのはただの無駄であると考え、斎に言われた通り詩緒への用件を済まそうとして再び胸ポケットへ手を入れストローを噛んでいる詩緒へ向き直る。  千景が何かしらの用事を詩緒に頼んでいる間、千景の用事が済めば次は自分の番が来ると考えた斎はそれを意識することで心臓の鼓動が早くなってきているのを感じる。千景の気分が普段以上に落ち込んでいるのは自分が振り回し続けてしまったことで心労を重ねてしまったのではないかと思い悩む。  そんな不安な心情を察したのか、斎の背中が軽くぽんと叩かれる。 「大丈夫。緊張すんなって」  真香が小さな声で斎に告げて親指を立てる。どこまでも自分の応援をしてくれる友人の存在に斎の心がじわりと熱くなる。ここで泣いたら全てが台無しになると分かっていた斎は両手に拳を握り真香に対して数度頷いてそれを返す。  普段ならばミーティングの後はすぐに部屋に戻るか本棟へ向かってしまう綜真も、斎がつけるけじめの行く末を気にしているのか、わざとらしくその場でスマートフォンを開きさも重要な内容を確認しているかのように振る舞う。 「――分かりました。やっておきます」 「助かるわ。サンキュ」  千景が詩緒に何かを手渡しているのが見えた。千景がぽんと詩緒の腕を叩きふたりの会話が終わったことを理解すると途端に斎の緊張が高まる。  詩緒が千景から受け取ったそれは手の中に握り締められるほどに小さく、べこべこに凹んだ野菜ジュースの紙パックを口先で支えながら椅子から立ち上がり、一足早くひとりだけ部屋へ戻ろうと歩き出す。  そしていよいよ千景と対峙する出番になり不安と緊張から視線を足元へと落とす斎の前で詩緒は一度足を止める。すれ違い様自然に緊張する斎の胸元にそっと手を触れ、背後に立つ千景には聞こえないような小さな声で斎に囁く。 「大丈夫、いける」  まだ千景が許してくれるかも分からないのに、斎の心は温かい幸せの気持ちで満たされていた。真香や詩緒、そして綜真でさえも斎が千景に謝罪をするという決意を前向きに捉え、その一歩踏み出す勇気を応援しようとこの場に今も居続けている。  明らかにその光景が普段と異なることは千景にも見て取れ、彼らが何をしようとしているかは千景にも汲み取ることが出来る状況だった。

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