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終章 二節

 ただなんとなく、部屋に戻る気もしなかったのでその場にいた。真香が温め直したコーンスープは甘くて、優しく身体の中へと溶け込んで行った。  同じ職場に同期として新卒入社したのが五年前。研修の後それぞれ配属先は異なったけれど斎が詩緒を助け、詩緒の頼みで真香を助け、四條が設立した第五分室に異動してからはもう三年が経過していた。  そこには長い時間を共に過ごした家族にも似た強い絆があり、その繋がりを失ってしまうことを斎は何より畏れていた。 「落ち着いた?」 「うん……」  真香や詩緒のように特別秀でた能力がある訳でもない。それでもふたりと一緒に居たかったから身の丈に合わない無理もしてきた。  まるで子供をあやすように真香に頭を撫でられ、斎は真香の側へと身を傾ける。 「俺らはさ、何も斎のこと見捨てた訳じゃないんだぜ……?」 「……俺は、さ」  詩緒は両脚の間にカップを挟むように持つ。深い青色のカップは詩緒のものであると分かる目印でもあった。斎は真香へ倒れ込むようにして身を傾けたまま視線を詩緒へと向ける。 「真香が俺と……アイツのこと考えてああいうこと言ってくれたの、……嬉しかったし」  手元のカップを見るように俯いたままの詩緒も一端の責任を感じていた。  それは入寮より少し前、入院した斎の代わりに四條が神戸支社から呼ばれた綜真と六年振りの再会を果たした時の話だった。 「ただ昔のことを乗り越えられなかったのは……俺自身の問題だった訳だし……」  詩緒と綜真は六年前の大学生の頃付き合っていた時期があったが、その時一度も身体の関係を持つことなく別れる道を選んだ。それは復縁をした今でも簡単に解決が出来る問題ではなく、斎はこの時初めて詩緒がずっと思い悩んでいたことを知り驚きの表情を浮かべる。 「榊はねぇ、勝手に御嵩さんと千景さんの関係疑って、勝手に病んでただけだから」  まるで斎を大きなぬいぐるみか何かのように抱き着く真香は斎越しに詩緒をからかう。斎の知らないところで詩緒と真香だけが知る一件もあり、真香からそれをバラされた詩緒はカップを持ったまま真香を振り返る。 「あっ、おいバラすなっ……」 「佐野さんと御嵩さん……?」  斎は千景が初めて寮へ現れた日にプレイングマネージャーとなった事実を聞かれたが、あの一件がありふたりの関係性を知る術が無かった。初めて千景と綜真のふたりが揃った場面に出くわしたのはラウンジからの救出時であり、あの時は斎も自分のことで手一杯だったが残る記憶を辿ってふたりのやり取りを思い出そうとする。  確かに千景は綜真に対して気心の知れているような節があり、千景が綜真を呼び出したということからもそれなりの信頼を置いていることは分かる。しかし過去に身体の関係があったような仲かと問われれば斎は首を捻らずにはいられなかった。 「あのふたりは……そういう関係じゃないと思うよ榊」 「……それはもう解決したことだからいいんだよもう」  詩緒は照れ臭さを隠すように片手でぐしゃぐしゃと頭を掻く。そして手を下ろすと冷静になった詩緒はゆっくりと斎へと視線を向ける。 「……千景先輩が、お前のことめちゃくちゃ心配してたの分かってんのか?」 「うん……」  千景が初めから茅萱に関わるなと斎に忠告をしてきたことは、もう何度も斎の心の中に蘇ってきていた。 「昔のことだとしてもセフレだったのバラした奴のことをよくここまで心配してくれたよね」 「ま、真香ぁ……」 「俺が千景先輩だったら完全に蹴り殺して見捨ててる」 「榊もぉ……」  ふたりの言葉に斎はおろおろと左右を見遣る。確かにそれはふたりの言う通りであり、隠し続けていた過去のセフレ関係をあんな形で暴露したのにも関わらず、茅萱との関係性を懸念して忠告をした上で助けにも現れてくれた千景に対しては感謝をしてもしきれない。  そんな千景に対して自分がどんなに酷い態度を取り続けてきたのかを斎は思い出す。それは詩緒に投げた言葉よりもずっと罪深く、善意を何度も踏み躙り続けたようなものだった。  一度治まったはずの涙がぽろりと斎の頬を伝う。その様子を見た真香と詩緒はぎょっとして斎を注視する。 「……俺、佐野さんに酷いことばっか言ったんだ」  真香とのセフレ関係解消にショックを受け、部屋に引き篭もり続けていた斎を心配して様子を見に来た千景を自棄になって襲い、それを拒まれたので皆の前で過去にセフレ関係だったことを暴露した。真香と詩緒を失う痛みに堪えきれず、繋がりを千景に求めてしまった。 「千景さんは、昨日だって助けてくれてたんだろ?」  それでも自分を助けに来てくれた千景に対して、とても酷い言葉を投げ掛けた気がするがその言葉が何であったのかすら斎は思い出せなかった。ガラスの灰皿で殴りかかろうとした時の千景がどんな顔をして自分を見ていたのか、それすらも分からなかった。室内の薄暗さが問題だった訳ではなく、斎は愛してほしいと求めながら千景のことを見てはいなかった。  幸いにも綜真が千景を止めたので大事には至らなかったが、千景が物理的手段に出るほど激昂した姿を初めて見た。千景に掛けた心痛は図り知れず、きっと多くの迷惑と心配を掛け続けたことを斎は自覚する。 「そうだよ、なのに俺……佐野さんが俺のこと、全然見てくれないからっ……」  千景は前職がブラック企業だったこともありストレスには耐性があるようだが、第五分室への異動とプレイングマネージャーへの就任、立て続けに斎が起こした事件はどれほど千景に負担をかけてしまったことだろう。  そして斎は思い出す。綜真と共にタクシーで寮へと戻る際、千景が誰かによってラウンジへと連れ戻されたことを。千景をラウンジへと引き戻したその腕は明らかに茅萱のものでは無かった。 「……千景先輩は、ずっとお前のこと心配してたじゃねぇか」  詩緒の言葉で斎は現実へと引き戻される。それが斎の求める形ではなかったとしても、千景はちゃんと斎のことも仲間のひとりとして気にかけていた。無言のまま斎は頷き、涙が一滴ズボンの上へと落ちる。  斎が千景に対する罪を自覚したのとほぼ同じ頃、四條からの追及を躱した綜真が漸く寮へと帰宅する。玄関に揃えられていたのは見覚えのある自分のスニーカーで、いつの間にか無くなっていたがダイニングに明かりが灯っていることに気付いてその意味を察する。 「――おう、お前らこんな時間に」  綜真はダイニングに顔を出すが、ソファに三人が並んで座り中央に位置する斎がぼろぼろと泣いている姿を見て少しだけぎょっとする。 「え、なに?」 「反省会ですー」  確かにこれまでの流れを理解していない第三者が初めて見れば驚く光景であり、真香は帰宅したばかりの綜真に対して挙手をして現状を伝える。 「ああ……」  この数日間のことを考えれば真香が説明した〝反省会〟という言葉は綜真に対して的を射た説明であり、自分が神戸から異動してくる前から長く仕事を共にしていた三人の間にある揺るぎない絆を見て安堵を覚える。  甲斐甲斐しく詩緒と真香に世話を焼かれる姿を見る限り、体格で見れば斎が最も高身長であったがやはり三人の中では末っ子の扱いをされていることを感じる。 「……明日、千景さんにちゃんと謝んないとな」  詩緒に渡されたティッシュで鼻をかむ斎は、真香に言われた言葉に対して頷く。 「許して……くれるかな。俺のしたこと……」  斎が何に対して畏れているのかを真香と詩緒は理解することが出来なかった。何故ならふたりは千景から頬を叩かれたこともなければ、ガラス製の灰皿で殴り掛られたことも無い。鋼のメンタルを持った尊敬すべき先輩という印象しか持っていなかったからだった。  しかしだからこそ斎のしたことを考えれば、表面上だけは斎を許す姿勢を見せることはあるかもしれない。これから改めて自分たちの上司となる千景に対して斎が不安を抱くのは仕方が無いことでもあった。詩緒はめそめそと眉を落とす斎へ凭れ掛かる。 「……もし、許して貰えなくても、俺らはずっとお前の側にいてやるよ」 「うぅ……榊ぃ……」  斎は決してひとりではなく、寄り添ってくれる友達の存在があることを斎は今になって再度実感する。  三人の話をダイニングの入口から黙って聞いているだけの綜真だったが、自分が知る千景の気性を頭の中で思い浮かべながら首を大きく捻る。 「アイツは、そんなに気にしてねぇと思うけどな」  それは千景が根に持つ性格ではないということを言いたいだけだったのだが、綜真の無神経なひとことで詩緒はぴくりと肩を揺らす。 「……は?」  これまでの和やかな雰囲気が一変し、途端に不機嫌そうな視線を綜真へと向ける詩緒。ただでさえ美しい顔をしている詩緒が不機嫌になるとその凄みが一層増す。 「御嵩さん榊の地雷踏んでる」  真香のひとことで綜真はしまったと気付き口を噤むが既に遅すぎた。

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