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終章 一節

 詩緒は斎が孤独を感じないように、寮まで手を繋いで帰った。それはすれ違う通行人から見れば異様に見えたかもしれなかったが、他人からどう見られようともそんなことは詩緒自身には何の関係も無かった。  それは例えば小学生の男子が喧嘩の後仲良く手を繋いで帰っているのと同じような感覚で、時折寒さからか鼻を啜る斎を横目に見ながら詩緒はただ静かに斎の横を歩いていた。  セキュリティカードを翳し寮へと入ればこれまでの外の寒さとは裏腹に、一階フロアに広がる暖房の暖かさがじんわりと冷えた身体に染み渡る。詩緒の眼鏡はじんわりと温度差で白みを増していき詩緒が眼鏡を一度外すのと同時にふたりは手を離す。  エントランスの明かりは無く節電のためか真っ暗だったが、その先に位置するダイニングからは暖かそうな明かりが漏れているのが分かった。  詩緒は普段通りのずぼらな気質から玄関にスニーカーを脱ぎ散らかして上がる。斎は自分の靴を脱ぐと玄関へと屈み込み詩緒が脱ぎ散らかしたスニーカーを揃えて整えるが、その時詩緒が履いていたスニーカーをどこかで見たことがあることに気付く。外へと出ない詩緒の詩緒のスニーカーを目にする機会など滅多になく、詩緒がずぼらなのは知っているが、横着をしたのか踵を踏み潰したような形跡があった。  詩緒はダイニングへと視線を向けていた。少しの間を空けてダイニングの扉が開くとそれと同時に真香が飛び出してくる。 「斎っ……」  真香は帰宅した斎と詩緒の様子を見て安堵の表情を浮かべる。そしてスリッパを脱ぎ捨てて駆け出すと玄関前に屈む斎へと飛び付き、咄嗟に両腕を出した斎は真香の身体を支える。 「無事に帰ってきてくれて良かったぁ」 「真香……」  真香の声は少し涙声になっていた。また斎が傷付くになってしまったらどうしようと真香は気が気ではなかった。自分を心配してくれる存在がこんなにも近くにいることを改めて実感した斎は、真香の背中へ両腕を回して抱き締める。 「榊とも、仲直り出来たんだな」 「うん……」  失ってはならない大切な存在は真香のみならず詩緒も同様で、本来ならば斎から謝罪に行かなければならなかったが、予期せぬ幸運に恵まれたことに対して斎は少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。  小さな破裂音が聞こえ、斎と真香はお互いに顔を見合わせてからエントランスに立ち竦む詩緒へと視線を上げる。元々寒がりの詩緒は脱いだロングコートを片腕に持ったまま鼻を抑えて小さく数度肩を揺らしていた。 「さっみぃ」 「あーコーンスープ温めてやるから」  ある程度の空調が整えられている寮内とは異なり、真冬の夜は急激に冷え込むため寮を出た夕方頃にはまだ寒さを感じない状態であったとしても帰宅時には身体が芯から冷え切っている場合もある。  真香は斎に抱き着いていた状態から起き上がり、目元に浮かぶ涙を指先で拭ってからダイニングへと戻る。真香に続いて詩緒もダイニングへと足を向けるが、ダイニングへと入る直前で玄関前で座り込んだままの斎へと声を掛ける。 「斎も、早く」 「あ、うん……」  ダイニングから漏れる明かりに照らされた詩緒がぺろりと舌を出したような気がした。それは斎に対しての何らかの合図のようで、斎は手をつき立ち上がりながらその詩緒の行動の意味を考える。  そしてダイニングに入ろうとしたその瞬間、斎は詩緒の合図の意味に気付く。詩緒のくしゃみを切っ掛けとして真香は先んじてダイニングへ向かったが、それがなければ斎と真香はエントランスで抱き締めあったまま次の行動へ移ることが出来ないままだった。 「榊ぃぃいー!」  いわば詩緒のくしゃみこそがその場の空気を一度リセットするための助け舟であり、そのことに気付いた斎はダイニングへ入るなりソファに座る詩緒へと飛び込むようにして抱き着く。 「うおっ、あっぶね」 「榊ぃ、ありがとう。本当にありがとう……榊大好き」 「あーハイハイ」  二、三人は余裕で座れるそのソファの大半が斎と詩緒という大男ふたりに占拠され、詩緒は斎の頭をまるで大きな犬でも撫でているかのようによしよしと撫でる。 「仲直りした途端愛情表現過激だなー御嵩さんに殺されんぞ」  真香はキッチンでコンロの火にかけたコーンスープをかき混ぜながらふたりの様子を見て笑う。 「そういえば綜真は?」  ソファの上に仰向け状態で押し倒された詩緒は、長い前髪を掻き上げながらコンロに向かう真香へと視線を送る。霜が下りた眼鏡のレンズは既にその姿を元に戻しつつあったがそれはまだ詩緒の頭の上にあり、眼鏡もなく顔を隠す長い前髪を掻き上げた詩緒の顔は人形のように綺麗だと斎は改めて感じていた。 「メシ食う前に四條さんに呼び出されて本棟行ったからまあそろそろ帰って来るんじゃない?」  真香は温めたコーンスープをふたつのカップに入れてソファ前のテーブルへと置く。そして自分も入れろとばかりに斎と詩緒にスペースを空けさせると斎を真ん中に挟む形でソファに並んで腰を下ろす。 「こりゃ斎のクビ確定だな」  綜真が四條に呼び出されるのは今に始まったことでもなく、またその理由は本来の業務に関することばかりだとは限らない。ふたりは従兄弟同士であり何かと雑務を押付けるのに丁度良いからと四條は度々綜真を寮から本棟へと呼び付ける。  しかしこのタイミングで綜真が四條に呼び出されたということは斎の進退に関する可能性が高く、取引先へと送った見積書の金額ミスを含め綜真が年長者として管理不行き届きを責められている可能性もある。  詩緒の言葉にサッと斎の血の気が引き顔色が青くなる。 「ええっ、嘘ぉ!?」 「榊の冗談だって。騙されんなよ」  そんな冗談を言い合える関係性こそが、斎が望んでいた〝帰る場所〟だった。

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