36 / 40

八章 四節

 兎のように目を真っ赤に腫らしたまま、斎はホテルのフロントで精算を済ませてホテルを出る。  冬の夕方はあっという間にオレンジ色から暗色へと変わってしまうので、今この瞬間に見える綺麗なオレンジ色の夕焼けが瞼を焼き付けるように痛くて、再び涙が浮かびそうになる。  もう引き返せない、全ては終わってしまった。自分では茅萱の側に居ることは叶わなかった。渋りながらも茅萱と話したいという斎の決意を応援してくれた真香の為にも、泣くことはもうここでやめにしようと斎は腕で涙を拭って一歩踏み出す。 「斎」  耳へと飛び込んできたその言葉に、斎は聞き間違いを疑った。繁華街に位置するシティホテル、当然人の行き来も多い。誰か別の人を呼ぶ声だったのかもしれないし、別の言葉がたまたまそう聞こえてしまった可能性もある。  だって、そんなことがあるはず無かった。  その人物は外に出ることを何よりも嫌い、家と職場の往復ですら面倒臭がり職場で寝泊まりをしていたような人間だ。寮制度が取り入れられてからはその引き篭もり気質を遺憾なく発揮し、外に出る必要が無くなったからと必要なものは全て通販などの宅配で済ませ、決して外に出ることをしなかった人物。そんな究極の引き篭もりである人物の声が聞こえた。  斎は錆び付いたロボットのようにゆっくりとその声が聞こえた背後を振り返る。  黒いロングコートに何重にも黒いマフラーを首元へ巻き付け、寒そうに両手をポケットへ押し込んだままの詩緒の姿が繁華街の一角であるその場にあった。 「さ、かき……」  起きてから仕事をして寝るまでを寮から一歩も出ずに済ませ、決して自分の意志で寮から出ようとしなかった詩緒のに斎は目を丸くする。  もしかしたらまだ自分は夢の続きを見ているのかもしれない、そんなことを考えふらつきながら詩緒へと近付く。繁華街という場所に全くそぐわない詩緒がそこに居るだけでも大変驚くべき光景ではあったが、近付いてみると鼻先が少しだけ赤くなっていた。この寒空の中何時間待っていたのかは分からなかったが、出不精に加え暑さ寒さを極端に嫌う詩緒が、この場所で待ち続けていたであろうという事実に斎は驚きを隠せなかった。  詩緒には酷い言葉を沢山言った。身体の関係に執着していたからこそ、恋人でありながら肉体関係のない詩緒と綜真に対して暴言を何度も放った。その間詩緒とはまともに会話をしていなかったが、今考えてみると随分と長くまともに会話をしていなかったような気もする。  その詩緒が今こうして茅萱に捨てられた自分を迎えに現れたという事実は、幾ら泣くのをもうやめようと決めたばかりの斎であっても込み上がる涙を抑えきることが出来ない。  詩緒の正面に立ち尽くし、片手で目元を抑えて必死に歯を食い縛る。これ以上詩緒に格好悪いところを見せたくはなかった。  斎の一挙手一投足を眺めていた詩緒だったが、立ち尽くした斎がその場で泣き出すとポケットに両手を入れたまま一歩ずつ斎へと歩み寄る。 「さかきぃ……」 「あんだよ」  斎は詩緒がポケットに突っ込んでいるコートの袖口を掴む。そんなことをせずとも詩緒が居なくなるわけでは無かったが、縋るように詩緒の存在を掴んでいたかった。吐きそうなほどの後悔に再び胃がひっくり返りそうだった。  詩緒と真香の存在が自分にとってどれほど重要であるのか、昨晩の時点で斎は十分理解したつもりだったが、この瞬間になって改めてその存在の大切さを斎は自覚した。  だからこそ後ででは無く、今この場で詩緒には伝えなければならなかった。 「この前……榊に俺の気持ちは分かんないなんて言って、ごめん……」  嗚咽混じりに斎が告げた謝罪を聞いた詩緒は少し考えるように黙り込む。 「別にいいよ。ほんとの事だし」  その言葉は斎にとって残酷なものだった。本当のことであるとしても、詩緒を大切な友人と考えるのならば幾ら責められていた状態であってもあの場で持ち出して良い内容では無かった。  斎は詩緒の言葉を受けて手を下ろす。 「違うっ、俺ほんとはあんな事言うつもり無くてっ……」  次の瞬間、斎は詩緒に抱き締められていた。繁華街の一角で百八十センチを越える男ふたりが抱擁する姿は異質であったが、オレンジ色の夕焼けが薄闇に変わりつつある中、その光景を気にする通行人は居なかった。  詩緒は黒い手袋をした手でぽふぽふと斎の背中を撫でる。斎は咄嗟に両腕で詩緒を抱き締め返していた。受け入れてくれる友人は真香だけではなく、詩緒が綜真を恋人として選んでも斎が大切な友人であることは揺るがず、斎は詩緒の腕の中で再び涙を溢して泣き出す。もう泣かないと決めたばかりの斎だったが、詩緒の優しさに子どものようにその場で泣きじゃくる。  詩緒は斎が泣き止むまでゆっくりと優しく自分より大きなその背中を撫で続ける。  セックスが出来なくても、友達というものはその存在だけが温かく、斎は迎えに来てくれたその詩緒の優しさにこれまでの自分の愚かしい行動を改めて反省した。

ともだちにシェアしよう!