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八章 三節

 ぼんやりと浮かぶ視界の中、何度か瞬きを繰り返す。徐々に意識がはっきりしてきても起き上がる気力は無かった。視界はいつの間にか開けていて、そこがホテルの一室であることを認識する。  最後に確認した時点では床の上に滑り落ちて、そのまま茅萱に床で犯されたはずだった。しかし今自分の背中の下にあるのはパリッとした糊の貼られた清潔なシーツの上で柔らかいスプリングが自分の身体を包みこんでいる感覚があった。  そのままぼんやりと天井を見つめ続けていた斎はどこからが夢だったのかを思い出せず、記憶を辿り寄せ始める。茅萱に呼び出されてこのホテルにやってきた。てっきりラブホテルだと考えていたら高級なシティホテルでまずそのグレードに驚いた。指定された部屋に訪れたら茅萱が扉を開けて迎え入れてくれた。それから――。  無意識に舌先が上唇に触れ、さくらんぼのような甘い味がした。そう、茅萱とのキスはいつもさくらんぼの味がした。 「……茅萱、……さん?」  斎は反射的に茅萱の名前を呼ぶ。腰を中心にして軋むように痛んだが、ベッドから身を起こすと斎は自分が服を着ていないことに気付く。ただ汗などのべたつき感は一切無く、咄嗟に布団を捲ると下着も穿いてはいなかったが、後始末などは全てされた状態でそれはまるで風呂上がりのようだった。  幾ら記憶を辿ろうとしても、斎は自分がベッドに上がった記憶がない。また不自然に記憶が途切れていて、茅萱とセックスをした直後は殆どがそうだった。  然程広い訳ではない室内を見渡しても茅萱どころか人の気配すらない。ベッドから飛び出し床に足を付くと腰に激痛が走り斎は苦悶の表情を浮かべる。それでも何とか痛みを押してバスルームやトイレを確認するが、やはり茅萱の姿は室内のどこにも無かった。  全裸のまま部屋に戻った斎はガラステーブルの上に一万円札が無造作に数枚置かれていることに気付く。しかし紙幣以外には何も無く、斎に残すメモのようなものすら何も無かった。恐らくその紙幣の枚数はこのホテル一室の宿泊料金に対しては多過ぎて、何度も利用しているであろう茅萱が金額を間違えて置いていくとも思えなかった。残された金額のその意味を受け取った斎は胸が熱くなり、再び涙が込み上がりそうになった。 「っ……」  カウチの上には畳まれた斎の服があり、その一番上に置かれていたスマートフォンへ斎は手を伸ばす。真香からのトークや着信が何件か来ているようだったが、今はそれをゆっくりと確認している余裕すら無く、斎は震える指で茅萱とのチャットのトークルームを探す。  最後の会話は茅萱から送られてきたこの場所と時間で、それに対する斎の返信だった。最後の斎の返信に対しては既読の文字が付いており、斎は動揺を抑えながらも間違えた場所を押さないよう慎重に選択をして茅萱に対して発信をする。  耳元で無情に鳴り続けるコール音。滅多に茅萱と通話をすることは無かったが、居なくなった茅萱とを繋ぐ接点はもうこれしか残されていなかった。耳元で鳴り響くコール音に呼応して斎の鼓動も高鳴り始める。しかし暫くすると茅萱が応答することなく斎からの発信は途切れる。  これはきっと何かの間違いだと考えた斎は再度茅萱への発信を試みるが、同様にコール音が鳴り響くだけで自動的に切れる。気付いた時にはトークルームは斎からの不在発信のみで埋まっていた。  その無情な液晶画面にぼたりと、そしてぼとぼとと続けて斎の涙が落ちる。 「ふっ、ぐ……うぇ……」  拭っても次から次へと零れる涙はもう斎の意志では止めることの出来ないものだった。  茅萱の見せる表情の端々が、今でも斎にとっては愛おしい。初めて会議室で遭遇した時のあの驚いたような顔も、突然脅すようにこのホテルへ来るよう迫ったあの男子便所での小悪魔のような顔も、何気なく頭を撫でて笑う天使のような笑顔も。全てが大好きだった。  茅萱との関係が周りから祝福されないのだとしたら、今の環境を全て捨てても良いと考えられるほどに茅萱との毎日が自分にとっては必要だった。  騙されていたのだとしても構わない。茅萱がそういった仕事を好き好んでやっているのならば、自分に出来ることがあるのなら協力もする。もし三睦に抱かれろと言うのならば、茅萱が望むのならばそれだって出来たと思う。  だから信じて本当のことを打ち明けて欲しかった。自分はずっとひとりだったから、分室の中でひとりだけ浮いた存在だったから、ひとりじゃないことを実感させてくれた茅萱の為だったらきっと何だって出来た。  その覚悟で今日この場所へ来た。文字よりは言葉の方が茅萱に伝わると考えたから。だから茅萱がこのホテルの場所を伝えてきた時は本当に嬉しかった。  言いたいことの半分も茅萱に伝えられなかった。茅萱の本当を知りたかった。茅萱が自分を受け入れてくれたように、自分も茅萱の全てを受け入れたかった。  斎はこの日この瞬間、茅萱から捨てられたことを自覚した。

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