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第5話
それからどんどん気温はあがり、七月がやってきた。とはいえ本格的な夏は八月なので、この調子で俺は夏本番を生き抜けるのか?と冷や汗が出る。その冷や汗の原因はこれから上昇する気温に対する不安だけではなくて……
「尊人~!」
「……お前さ、課題とかやらないとダメなんじゃないの」
「やってるってえ」
「診療所にも手伝いに行くだろ。毎日俺に会いに来なくていいんだぞ」
「なんでそんな冷たいこと言うのよお。俺やっとこっちで生活出来るのに!」
「あー、そっか。引っ越しお疲れさん」
「ねえ~。尊人に会いたくて来てるのに。尊人は俺に会いたくないの?」
小首をかしげて俺の顔をのぞき込む。その仕草を今すぐやめろと言いたいが、ぐっと飲み込んで目線を逸らす。こいつに対して冷たい態度を取りたいわけではないのだから。
「別に、お前が会いに来るのは、イヤじゃないけど」
「じゃあよかった! ねえ今日電話あった?」
「うん、さっき折り返しを頼んだところ。やっぱり夏休みだから、学生からの連絡が多いな」
「そっか。それならよかった。成人より未成年の方が、自殺率が高い傾向にあるからね」
「家族にも言えないし、友達にも言えないし、一人で生きて行く力もないから八方塞がりになっちゃうんだよな。すごい分かるよ。ここに電話を掛けるのだって、死ぬほど勇気がいるだろうしさ」
愛沢は事務室の冷蔵庫からお茶を取り出し、二つグラスを並べて注いでいく。カランカランと踊る心地良い氷の音が、逆立った俺の心臓を落ち着かせた。
「やっぱり尊人は、この仕事向いてるね」
「そうかぁ?」
「うん。尊人ってたくさん本を読むからかな。人の気持ちを想像するのが上手いような気がするんだよね。あとそれから、言葉選びも。俺が言うより相手に伝わってる気がする」
「自分じゃよく分かんないな。俺からすれば愛沢の方がずっと向いてるよ。明るいし、元気だし、おしゃべりだし」
「じゃあ俺たち、二人でいたら最強だね」
グラスをテーブルに並べて、隣のイスに腰掛ける。こいつはどういうわけか、俺のそばに居たがった。俺と違って友達だってたくさんいるはずなのに。勘違いするからやめて欲しい。
「ほら、ふたりはeat love!! みたいな」
「ふざけんな、バーカ!」
こうやって、愛沢と笑い合っている時間が好きだ。お前と出会う前までは死ぬことばかり考えて、本の世界に逃げてばかりだったけど、今は眠ることがそんなに怖くなくなったよ。明日が来るのがほんの少し楽しみになったよ。またお前に会いたいって思えるようになったよ。それだけでもう、十分だと思えたらいいんだけど……。
「尊人、楽しいね」
「……うっせえ」
この時間がいつまでも続かないことを、俺はきちんと理解している。というか、最近気が付いたと言うのが正しいかな。俺は診療所で俺や先生と話す愛沢しか知らなかった。でもeat loveで手伝いをするようになり、他の職員や患者さん、患者の家族と話している愛沢が、とんでもないくらいモテることを知った。そりゃそうだ。かっこ良くて気さくで明るくて、モテる要素の固まりみたいなヤツなんだから。
愛沢が働いている様子を、俺はいつも遠目から眺めていた。
「鈴岡さん! 今日輸血の日だね。具合どう?」
「ここに来てからすごく調子良いんです」
「そっか! 良かったね。再就職とかの手伝いも出来るから、もう少し体調が良くなったら一緒に資料見てみる?」
「は、はい……! お願いします」
ああやって入院患者一人一人に目を配り、必ず声を掛けて様子を確認する。それは患者家族にも同様で、Vロームの身内を持った時の悩みや弱音を親身になって受け止めていた。そうなれば、恋に落ちるのは簡単だ。この数週間で、最低でも三回は告白現場を目撃してる。でも愛沢は決まって「今はVロームの取り巻く環境を良くすることで手一杯だから、ごめんなさい」と、丁寧に断っているのだけど……。
「あの天然タラシホスト野郎め……っ」
「なあに尊人くん、怖い顔~」
「だって!晶さんっ!あいつやべーんだって。歩いてるだけで女の子が落ちてるんだって」
「歩いてるだけではないでしょう」
クスクス笑いながら俺の話を聞いてるのは、あの日助けた谷山晶さんだ。屋敷先生から聞いていた通り、大きな病院で治療を終えたあと、うちの診療所に移ってきた。身体の傷は良くなっても、彼が負った心の傷は想像以上に根深い。だから晶さんは個室で長期入院して、精神的な療養に努めている。その主な話し相手が俺というわけだ。
「この病院でただれた恋愛は見たくない……」
「女の子たちの気持ちも分かるけどね」
「どの辺がぁ?」
俺が問いかけると、晶さんは窓の外を見つめながら話し始めた。
「だって僕らは心身共にボロボロになってこの診療所に来るわけだよ。そこにさ、ドロドロに甘やかしてくれる人がいるわけ。優しくてかっこ良くて面白いことも言ってくれるわけよ。もちろんそれが彼の仕事だって分かっていても、期待しちゃうのはしょうがない気がする」
晶さんが見つめる方へ、俺も視線をやる。そこには、Vローム患者の子どもと遊ぶ愛沢の姿があった。そして、晶さんがため息交じりにつぶやいた。
「子どもかぁ……」
「どしたよ晶さん」
「いや、Vロームになっちゃうとさ、やっぱり家族とか子どもとかは諦めなきゃならないよなぁって」
Vロームを取り巻く環境はあまりに悪い。俺らは社会から腫れ物扱いされていて、一緒に居たいと思ってくれる人間の方が稀だろう。追い打ちをかけるように、晶さんは俺の知らないVロームの事情を話してくれた。
「入院してた病院で聞いたんだけど、女性は自然妊娠もしなくなるんだって」
「はっ⁉ それって精液が栄養になるからってこと?」
「そうだね。体外受精ならいけるかもしれないみたいだけど、積極的に子ども持ちたいとは思えないでしょ? しかも自然に妊娠出来ないと、それだけで性被害に遭う率が上がると思う。だからこれ、世間には公表されてないんだって」
「そっか……課題は山積みだなぁ」
「でも尊人くんは、その課題にeat loveのみんなと、愛沢くんと向き合っていくんでしょう?」
切れ長の瞳が、静かに俺を見つめる。そして、白くて細い指先が、ゆっくり唇に触れた。
「あ、きらさん……?」
「いいなぁ。僕もパートナーが欲しい。結婚出来ないならせめて安心出来る相手が欲しい」
「な、え、俺パートナーなんかいないですよ」
「愛沢くんがいるじゃん」
「……パートナーなんて、そんなことありえないよ」
「なんで?」
「晶さんも言ってたじゃん。愛沢はモテるって。俺みたいな面倒なVロームじゃなくて、それこそ愛沢みたいな、明るくて可愛くて素敵な女の子を見つけるでしょ」
自分で言ってて悲しくなってきた。でもそれは変えられない事実だ。俺は今まで男を好きになったことはない。
でも、毎日せっせと運ばれる愛沢からの大きな愛が俺の中に少しずつ貯まっていき、種となり、ついにそれは芽吹いてしまったんだ。
たぶん、キッカケはキスしてくれた時だったと思う。そして、夢に愛沢が出てきた時、愛沢を見つめている自分の顔を見て気が付いてしまったのだ。俺は恋愛的な意味で愛沢を好きになってしまったんだと。
「ていうか晶さんにバレてることの方が衝撃なんだけど」
「尊人くんガード固いからね。表情ですぐ分かるよ」
「えーまじで。愛沢にバレないように気を付けないと……。でもあいつ鈍感そうだし大丈夫かな」
「鈍感なのはどっちかねぇ」
ふっと笑みをこぼし、唇に触れていた指で、今度は俺の髪の毛をくるくるといじりはじめる。これは最近気付いたことだけど、晶さんは気を許した人の身体を触るくせがあるらしい。まあ別に構わないんだけど、少しくすぐったいな。
「愛沢くんにふられたら僕の所に来たらいいんじゃない。Vローム同士上手くやれる気がする」
「えーやだ。俺口説かれてる?どーしよ」
クルクル髪に触れる晶さんの指を絡め取り、手を合せる。きゅっと力を込めて握るが、やはり晶さんの手は骨張っていて、痩せていた。
「まだまだ栄養が足りないね」
「……出来れば栄養は、まだ輸血だけがいい。ダメかな」
「俺もその方がいいと思うよ。ていうか俺だって輸血だけでここまで良くなったんだもん。他の栄養摂取なんて考えなくていいからさ」
晶さんにとって精液を飲むということは、地獄に閉じ込められていた日々を思い出すようなものだから。でも、それをあえて口にはしない。晶さんが自分で話せるようになるまで、もしくは晶さんが永遠に忘れたいのならそれでいい。少しだけど、俺も気持ちが分かるから。
「晶さんはもう、大丈夫だからね」
「……うん、ありがとう尊人くん」
晶さんの表情に柔らかさが戻ったように見えて、ほっと胸をなで下ろした。
すると、ガチャリと音を立てて扉が開くと、部屋のカーテンが舞い上がる。驚いて振り返った先に立っていたのは、肩から息をしてる愛沢だった。
「な、どしたお前。ていうかノックしろノック!」
「ま……窓からっ」
「窓から? なんだよ、落ち着いて話せ。どうし……」
愛沢のそばへ行くためにイスから立ち上がり駆け寄ると、勢いよく両肩をつかまれ引き寄せられる。突然眼前に迫った愛沢の顔に、一瞬呼吸が止まった気がした。
「あい、さわ……」
「窓からっ! 尊人が!」
「お、う、お、俺、俺がなんて?」
「尊人がキスしてるから何ごとかと思って‼なんで俺以外とキスしてるのねえ‼」
「何の話だ‼」
本気でわけが分からなくて自分でも想定以上にデカい声が部屋に響く。すると後ろのベッドに横たわっている晶さんがふき出す声が聞こえた。
「い、いや……っあはは!」
それに対して、すかさず愛沢が噛みつくように声を上げた。
「なに⁉ 笑いごとじゃないんですけど⁉」
「キスしてないしてない。僕が、ちょっと尊人くんに顔を寄せただけだよ」
「なんで顔寄せたの⁉ キスするつもりだったんでしょ!」
「違うって。可愛いなあと思っただけ」
「思ってるじゃん‼」
ふーふーと威嚇する声が聞こえてきそうな顔で、晶さんを睨み付ける愛沢。それをニヤニヤ見つめ返す晶さん。なんなんだこの構図は。でもとりあえず釈明はしておいた方がよさそうなので、俺はゆっくりと愛沢の肩に手を添えた。
「キスなんかしてねーよ。晶さんは二十三歳だぞ、八歳も年上なんだぞ。俺なんか相手にしてないよ」
「そうだねぇ、さすがに未成年に手は出せないね。五年後が楽しみだなぁ」
「晶さんからかってるでしょ」
初めて出会った時は弱々しい印象だったけど、少しずつ心を開いてくれた晶さんは、少し意地悪で余裕のある大人の男性だった。今も俺らのやり取りを見て内心ゲラゲラ笑ってるんだろうとため息をつく。
「じゃあ晶さん、このあと輸血だからね。準備したら降りてきて」
「は~い。じゃあまた来てね、尊人くん」
「うん。また明日ね。ほら、行こう愛沢」
愛沢の手を握り、部屋を後にする。いつもの庭に行けばこいつも落ち着くだろうかなんて考えていると、今度は愛沢が俺の手を引いて歩き始めた。
「ちょ、愛沢っ!」
声を掛けても返事をすることなく、黙って進んで行く。その先は普段あんまり使うことのない資料室だった。鍵を開けて中に入り、俺もその中へ引き込まれていく。
「あい、さわ」
「あの人のこと好きなの?」
「へ?」
「谷山さんのことが好きなのって聞いてるの」
「や、だから晶さんは」
「だって下の名前で呼んでるじゃん」
電気の付いていない資料室に、夏の日差しが降り注ぐ。ホコリが反射して、足元でキラキラ光る。そんな薄暗い部屋でも、愛沢が顔をゆがめているのは分かった。そんなの、嘘だよ。やめてくれ、お願いだから。
「……晶さんから下の名前で呼んで欲しいって言われたんだよ。あの人、自分が心開いた人にはすげー甘えたっていうか」
「じゃあ、俺も呼んでくれる?」
壁に追いやられ、俺たちの隙間は数センチしか空いていない。目線を逸らしたくても、顎を掴まれ強引に前を向かせられた。
やめて、どうか今の俺の顔を見ないで。
「ねえ、呼んでよ」
「つ……つーか、なんでお前はそんな、怒ってんだよ。お前が怒るような話でも、ないだろ」
「どういう意味」
「だ、だって俺ら、ただの、友達……っ」
そう言いかけて、強制的に唇が塞がれる。何が起こったのかまったく分からず、抵抗しようとしたが、愛沢の力に敵うはずもなかった。
「は……はぁっおま、何を……っ」
「俺だけにしてくれるんじゃないの」
「は……?」
愛沢の言葉が分からず、声が漏れる。恐らくこいつと俺の間には、かなり意識の隔たりがあるように感じた。
「俺、好きでもない子にキスしたりしないよ」
「や、ちょっと、ま、待って。待って愛沢」
「好きだよ。尊人が好き。だから谷山さんに触られたくない。そう思うのは普通じゃないの?」
愛沢の口から飛び出す発言を、俺は何一つ理解出来なかった。記憶を必死に巻き戻し、愛沢にキスされた日のことを思い出す。でも、俺は、俺はてっきり……
「お、おれ、あれは、その、栄養をくれたんだと思ってた」
「はあ?」
今度は愛沢が、信じられないという顔で声を漏らす。どうにか説明しなくてはと、必死に言葉を続けた。
「だ、だから!口から血飲むのはアレだけど、だ、唾液ならセーフと思ったのかなって。お前の優しさでしてくれたんだとばっかり…」
愛沢は更に眉をひそめ「ありえない」という表情を浮かべる。そんな顔をされても、俺は本気でそう思ったんだから仕方がない。だって愛沢が俺を好きになるなんて、どうやったら想像出来るんだよ。
「おま、お前、なんか勘違いしてるよ。なんでお前が俺を好きになるんだよ……っ」
「全部説明したら俺のこと好きになってくれるの?」
「ばっおま……っ」
「ほら、おいで」
愛沢はゆっくりと俺を抱き寄せる。そして耳に響いてきたのは、早鐘を打つ心臓の音。
「……緊張、してるな」
「そりゃね。ていうか俺は、キスした時に告白したつもりになってたから、尊人になんにも伝わってなくてビックリだよ」
「だ、だって……す、好きともなんも言われてない‼」
「栄養を受け取るのは俺だけにしてよ。尊人の隣に立つのは俺だけにしてよって言ったもん」
「そ、それ、それは……っだ、だって……」
「それとも男から好きって言われるのは気持ち悪い?」
「そんなわけない‼」
そんなわけない。そんなこと、ありえるはずない。だってお前を好きになったのは、きっと俺の方が先だったから。
「尊人がね、見つめると視線を逸らすのも、俺が女の子と話してると、その場から逃げていくのも、全部気付いてたよ」
「は……は⁉なん、え、は⁉」
「自分で言うのもアレだけど、なんか俺、モテるらしいから。人の好意は敏感に気付く方なんだよ。それなのに、尊人と一緒にいても全然恋人っぽい空気にならないから、何なんだろうと思ってた」
彼の腕が腰に回る。それと同時に彼の頭が俺の首元へと沈んだ。彼の声が耳元に直接響いて、いやでも無視が出来なくなる。
「最初はね、幸知の苦しみを理解するために、幸知と同じ立場の人と話がしたかった。それで屋敷先生から紹介されたのが尊人だった。ヘレンと遊んでいる時の尊人はすごく優しい顔をしていたから、きっと良い子なんだろうと思った。でも俺が駆け寄った時、びっくりした。幸知と同じ目で俺を見るから。俺は本当、幸知のことも、尊人ことも、何も分かってあげられてなかったんだなって、ダメだなって思ったよ」
「そ、それは……聞いたよ。でもそんなのお互い様だ。俺だってお前が普通のヤツで、男っていうだけで、酷いこと言ったから」
「そんなの当然だろ。尊人がどんなに辛い目に遭ったか話を聞いたとき、尊人を襲ったやつ、みんな殺してやりたいと思った。俺だったら尊人をそんな目に遭わせないのに。ずっとそばにいて、離れないで、大事にしてあげるのにって」
「なんでそんな……そんなこと」
「分かんない。もう気付いた時には尊人が好きだったよ。俺のこと、外人みたいな見た目でもからかわないし、英語喋れないのってバカにしないし、幸知のことも真正面から受け止めてくれたし、一人で泣いてる俺を見つけて、抱きしめに来てくれたから」
彼の胸元から顔を上げれば、視線が重なる。その瞳は熱を帯びていて、もう言い訳は出来ないと確信した。
「何度でも言うよ。尊人が好き。俺たちの出会い方は特殊だし、尊人はこれからもずっと自分のことをVロームだからって後ろ暗い気持ちになるんだと思う。でも俺はVロームになってからの尊人に恋したんだよ。今の尊人が好きだ。これからもずっと尊人のことが好きだよ。だからお願い。俺を選んで」
「……おれ……」
本当は、何も考えずお前を抱きしめて、俺もお前が好きだと叫びたかった。でも頭によぎったのは、晶さんの言葉だった。
――Vロームになっちゃうとさ、
やっぱり家族とか子どもとかは諦めなきゃならないよなぁって
「……ごめん、愛沢」
胸元に手をあて、ぐっと押しつけて身体を離す。愛沢の考えていることは表情を見ればすぐに分かった。
「お前の気持ちを疑うわけじゃないよ。でも俺はVロームで、お前はそうじゃない。いつか女の人を好きになって結婚して子どもだって考えられるんだよ」
「そんなの……!」
うん、お前がそうやって否定してくれるって分かってる。分かっていても、きちんと伝えなきゃならないんだ。
「お前は今、そんなこと考えてないと思う。でもいつか、考えが変わるかもしれない。でも俺は二度と、そんなことは考えられない。俺と同じVロームを助けるために人生を使うことに決めたから。だから一人でも大丈夫。俺の人生にお前は巻き込まない」
無言のまま俺を見つめる愛沢を横目に、ドアノブに手を掛ける。そして振り返らずに部屋を後にした。
――向かった先は診察室。無言で部屋に入ってベッドに座り込む。そんな俺の顔を見て、ふ っと笑みをこぼしたのは花先生だった。
「やあ、どうしたんだい。酷い顔だね」
「輸血お願いします」
「そこに寝て。屋敷先生を呼んでくるから」
「…少し、花先生と話がしたい。ダメ?」
「いいよ。でも横になってね。顔色が悪すぎる」
花先生に促されて、そのままベッドに横になる。俺は何かあると決まって花先生のところに逃げ込んでいた。それは花先生が余計なことを言わないと分かっているのもあるけれど、今日は花先生にしか質問出来ないことがあったからだ。
「花先生は、どうして屋敷先生と結婚したの?」
「おや、尊人くんが恋バナを振ってくるなんて珍しいね」
「真剣に聞いてるんだよ、俺」
ベッドの前に丸椅子を寄せて、花先生はゆっくりと腰掛ける。膝の上には、ぷちがそっと座っていた。
「まず私は元々結婚願望がない人間だ。誰かと暮らすというのが向いていなくてね。で、Vロームになったことで親族からも毛嫌いされて、本当に天涯孤独となってしまったわけだね」
「プロポーズは屋敷先生からだったの?」
「そうだよ。若くてキレイな女じゃなくて、こんな六十歳の枯れたばあさん、しかもVロームなんて、物好きというレベルじゃないと思ったね」
「でも屋敷先生だってそのくらいの歳じゃないの?」
「私より彼の方が三つ若いよ」
「じゃあほとんど同い年じゃん。屋敷先生には花先生が素敵に映ったんじゃないの」
長いまつげが、花先生の痩せた頬に影をつくる。彼女は必要最低限の輸血しか受け付けないから、体重が増えないのが悩みだと屋敷先生がつぶやいていたことを思い出す。花先生はぷちの顎を撫でながら話を続けた。
「素敵に映ったかどうかは分からないが、彼は自分の一生をこの診療所に捧げるつもりだと分かっていた。だから、その手伝いが出来るなら結婚も悪くないだろうと思ったんだよ。むしろ私は、Vロームになって結婚という選択肢を選ぶことが出来たように思う。一人じゃ生きていけないと分かりきっているから無理しても意味がないし。この年齢ならそもそも子どもなんて考えていない結婚だしね」
花先生の言葉が、頭上にずしんとのしかかる。二人はVロームだからこそ出会い、結婚することを選んだ。それは純粋な愛じゃないかもしれない。でもそれだって一つの愛の形だ。二人が夫婦になって俺はとても嬉しい。
「尊人くんは?」
「へ?」
俺に質問が返って来るとは思わず、間の抜けた声が出てしまう。そんな俺に優しい笑みを浮かべながら、花先生はもう一度質問を投げてきた。
「尊人くんは、生涯誰とも添い遂げずに生きて行くのかい?」
「……俺、今からすげえ嫌なこと言って良い?」
「いいよ」
「花先生は女の人じゃん。働いてるけど、屋敷先生がいたら大丈夫だもん。それに結婚したって子どもとか考えなくて良いって言ってたけど、俺がこれから好きになる人は、そうもいかないじゃん。俺は高校行かないでこのままeat loveで働いていければ、それだけで十分っていうか、手一杯っていうか」
女の人は結婚すればラクでいいよね、なんて言うつもりはない。でも花先生の結婚は、屋敷先生はもちろん、周りから子どもを期待されるわけでもない。それになにより……
「二人はちゃんと結婚出来るんだもん。お祝いされるに決まってるよ」
「ちゃんと結婚出来ないと、君の人生は祝福されないのかい?」
「……分かんないから、花先生に聞きに来た」
少し開いた窓から、ヘレンの声が聞こえる。近所周りから帰ってきたのかな。愛沢が迎えに行くんだろうか。部屋に一人残してきて、あいつは怒ってるだろうか。そんなことをぼんやり思う。次会った時、どんな顔をすれば良いんだろう。グルグルと思考を巡らせていると、目元に冷たさが走る。花先生の細い指が、するりと俺の涙を拭った。
「そんな風に悩めるくらい好きな人に出会えたことは、君にとっての幸福だと私は思うよ」
「報われないのに?」
「人生の幸せは、人それぞれだとみんなが言うね。私もそうだと思う。だけど、結婚して子どもを授かることが幸せのスタンダードとされてきた時間があまりにも長すぎたことも事実だ。それはもはや呪いのように私たちにまとわりついてる。私はその呪いから逃れたくて一人でいたのかもしれない」
そうだ。俺もきっとその呪いに捕らわれている。Vロームになる前は、女の子を好きになって、付き合って、結婚して、いつか自分も親になって。そんな未来を漠然と描いていた。でもそれが叶わなくなって、俺は人と違う人生を歩いて行かなくちゃいけない。こっちの道を歩かなくても、普通の道を歩いてけるあいつを巻き込むことが何より怖かった。だってあいつは俺が手を伸ばしたら、いつもの調子で手を握るに決まっているから。
「尊人くん。人は誰かに悩みを話す時、だいたい答えは決まっているんだよ。背中を押して欲しいか、反対されても押し切れるか、それを考えているだけなんだよ」
「花先生は、俺の悩みを押し切ってくれる?」
「いいや、私は何もしない」
「言うと思った」
「でもね、尊人くん。その呪いのせいで、本当に手にしたい幸せを逃すなんて、馬鹿らしいと思わないかい?」
俺が手にしたい幸せ。それはきっと、手にしてはいけない幸せでもある。だって俺が幸せになるってことは、あいつが本来手に入れるはずだった幸せを諦めさせることになってしまうから。グルグルとした思考を停止させるように、部屋のドアが開く。入ってきたのは屋敷先生だった。
「尊人くん、お待たせ。輸血しようか」
屋敷先生がやって来ると、花先生の表情がほんの少し色づいた。先生は呪いから逃げていたと言うけれど、きっとそうじゃない。花先生はずっと、屋敷先生と出会う日を待っていただけなんだ。それがたまたまVロームになった後だっただけ。二人を見てると、何となくそう思う。
花先生は屋敷先生をふと見つめたあと、視線を僕の方へと戻した。
「それで尊人くん。私の回答は君の欲しいものだったかな?」
「欲しいものがもらえたから解決するわけでもないじゃん?」
「言うようになったねぇ」
花先生はすっと立ち上がり、それに合わせてぷちも床へ着地する。「次の約束があるから行ってくるよ」と言い残し、部屋を後にした。
「花さんと何を話してたの?」
「なんで屋敷先生と結婚したか聞いてたの」
「あらまぁ。花さんが恋バナなんて珍しいこともあるもんだねぇ」
楽しそうに笑いながら、手早く輸血の準備を始めていく。俺は人生であと何回輸血をすることになるんだろうな。腕は二本しかない。毎日少しずつ場所を変えて、なるべく負担が掛からないようにいているけれど、Vロームの腕は、傷が絶えないのだ。そうしてこれからの人生、一人でずっと、輸血をしながらこの窓から見える外を眺めていくことになるんだろうと思うと、漠然とした不安に襲われる。ぎゅっと目を瞑り、意識を暗闇へ溶かそうとした時、耳に響いたのは……
「待って~ヘレーン!」
「はは。富実くんの声は大きいよねえ。お庭からここまで届くんだから」
屋敷先生の問いかけに俺は答えることはせず、寝たふりを決め込んだ。どうして一緒にいないのに、こんなに近くに感じるんだよ。
目が覚めたら、今抱えている全部のモヤモヤが消えてなくなっていればいいと、本気で思った。
――目が覚めた頃には輸血はとっくに終わっていて、日もすっかり暮れていた。屋敷先生は「疲れてたんだね」と笑い、俺の顔色が良くなったことを確認して家まで送ってくれることに。そして家へ帰ると、玄関には一枚の書き置きが残っていた。母さんが泊まり込みで帰らない時に置いて行くもので、二日ほど戻らないらしい。いつもなら母さんの身体を心配するけれど、しばらく一人で考える良い機会だなと少しほっとする。
ゆっくり階段を上がって自分の部屋へ入り、夜風に当たるために窓を開けた。すると、視線の下でチカチカ光が揺れていることに気が付いた。そして、その光の先に居た人は……
「あ……愛沢……っ⁉」
「よかった! 尊人生きてたー!」
「なん、な、なんで、ど、は⁉」
「スマホ電池切れちゃったの~? メッセージ送ったし電話もしたんだよ」
そう言われて慌ててポケットからスマホを取り出す。そういえば昨日充電を忘れて、残りが少なかったような気もするけど……。
「診療所の手伝いしてたんだけど、屋敷先生から尊人が今さっき帰ったから行って良いよって言われたの。ねえ、少しで良いから話させて」
こいつは本当に、どこまでも俺を逃がすつもりがないのかと恐ろしくなる。でも、この心臓の高鳴りは、愛沢を恐ろしいと思っているだけではないことを、さすがに自分でも分かっていた。窓を閉めて、階段を降りる。鍵を開けてドアを押す。顔を見る勇気がなくて俯く俺の頭上に、彼の声が降ってきた。
「開けてくれてありがとう、尊人」
「……どうぞ」
そういえば、愛沢を家に入れるのはこれが初めてのことだと気が付いた。靴を脱いで玄関に上がる愛沢に「洗面所あっちだから。手洗ったら二階に上がって」と言い残し、そそくさと部屋へ戻る。愛沢は俺に、何を話しに来たんだろう。告白は断ったのに、これ以上俺に何を求めると言うんだろうか。考えても答えは出ず、狭い部屋をウロウロと歩き回る。こうしていても仕方ないとベッドへ腰掛けると、背後からガチャリとドアの開く音がした。
「おじゃまします」
「どう、どうど、ど、どうぞ」
「何そんな緊張してんのさ」
ふっと笑みをこぼしながら、一歩ずつこちらへと近づく。
「隣座ってもいい?」
「お、おう」
「ありがとう」
一人分のスペースを空けて隣に腰掛ける。愛沢の顔を見て話したいけれど、その勇気が俺には出なかった。しかし顔を見なくても、声を発さなくても、彼は俺の言葉を感じ取ることが出来るのか、静かに手の平に熱が重なった。
「ねえ、尊人は何を怖がってるの?」
「こわ、怖がるって、俺は……」
「男に告白されたのが気持ち悪かったわけじゃないんでしょ?」
「だから、そう言ってるだろ!」
「尊人は俺のこと好きじゃないの?」
「そ、れは……」
人の気持ちはもちろん、俺の気持ちにも敏感なこいつに、嘘をつき通せるとは思っていない。それならもういっそ、真正面からぶつかって納得させるしかない。俺は腹をくくって息を吸った。
「……好き、だよ。でも俺はお前を選ぶつもりはないんだ」
「それは俺が普通の人で、尊人がVロームだからってやつ?」
「……それもあるけど、それだけじゃない。だってお前は、俺以外の人間も選べるけど、俺はたぶん、もう、お前以外選べないから」
Vロームになってから毎日死にたいと叫んでいた俺のそばにやって来て、優しく抱きしめてくれた人。手を握って一緒に歩いてくれた人は、母さんと先生たち以外では、お前だけだったんだから。
「愛沢が、いつか目を覚まして、俺以外の人を好きになるのが、怖い。自分一人で、お前を好きでいるのはまだいいけど、も、もし、ちゃんと付き合って、そのあとやっぱり要らないって言われたら、俺……っ」
言葉尻が上がり、上手く喋れなくなっていく。ああ、泣くな、泣くな。顔を覆い、必死に息を吸う。それでも溢れる涙は止まってくれない。どうして俺は、肝心な時に上手く出来ないんだろう。言葉を続けられない俺の背中を撫でながら、愛沢は静かに切り出した。
「普通の幸せなんていらないよ。彼女も奧さんも子どももいらない。尊人がいてくれたらそれが俺の幸せなのに、尊人に否定されたら俺はどうすればいいの?」
俺の顔を覆っていた手は、愛沢によって引き剥がされ、強制的に視線が重なる。彼の瞳は俺と同じように薄い膜が張られて、悲しい光を帯びていた。
「あいさ、わ……」
必死に声を絞り出し、彼の名前を口にする。愛沢は俺の腕へ手を伸ばし、輸血のために刺し続けた針の痕に触れた。
「輸血だって本当はして欲しくない。全部俺から飲んで欲しいのに」
「だ、だって、そんなの……」
「口から飲んでも、尊人が人間じゃなくなるなんてことありえないよ。俺の目の前にいる田崎尊人は、口が悪くて素直じゃなくて、でも他人の傷を、心の傷を分かって寄り添ってあげられる、優しい人だよ」
静まりかえる部屋に響くのは、異なる早さで鳴り響く二つの心音。一つは俺、そしてもう一つは、目の前にいる宝石のように美しい人。俺は今からこの人に、ずっと胸に秘めていた醜い感情をぶつけることになる。それで嫌われてしまうなら、それでいいと思った。
「……もし血を飲んだら、俺はお前がいないと生きていけない身体になるかもしれない。でも捨てられるのは俺の方で、俺はそうなったら今度こそ耐えられる気がしなくて怖いんだよ……っ」
あまりの怖さに、彼の顔を見ることが出来ない。すると、彼は俺の身体から離れていった。ああ、嫌われた。終わった。でもこれで良かったかもしれない。時間は掛かるかもしれないけど、普通の友達に、良い仕事仲間になれるだろうか。気持ちを切り替えようと必死に頭を働かせても、浮かんでくる言葉はどれもこれも女々しいものばかりで、余計に悲しくなってくる。しかし、鼻先をかすめた香りのせいで俺は勢いよく顔を上げた。
「な、にして……」
彼の手には小さなカッターが握られていて、そのまま自身の指先を切りつける。そして彼の指先からは、芳醇な香りを放つ赤い液体が流れ出していた。愛沢はその指先を迷うことなく俺の唇に滑らせる。全身が脈を打って、頭がぐらぐらした。
「俺は、幸知を奪ったVロームが憎い。幸知を救えなかった自分のことが、今でも、たぶん、これからも許せない。だけどね、尊人と出会わせてくれたのもVロームだから。俺はこの病気とずっと向き合って生きて行く。Vロームのために人生を使うって決めた尊人と一緒に生きて行く」
「愛沢……」
「好きだよ。きっと出会った時から尊人を好きになる運命だったんだ。一生一緒にいるって約束する。もし俺が尊人から離れていくなんて馬鹿なこと言ったら、刺して殺していいよ。だからお願い、俺を選んで。尊人」
Vロームと診断されたあの日、俺は見たことも会ったこともない神様を恨んだ。
でも、もし神様がいるんだとしたら、どうかお願い。この人だけは、この人だけは俺から取り上げないで。
「……ずっと一緒にいるって、約束しろよ」
「俺、何回もそう言ってる気がするんだけど、尊人は俺が言うだけじゃ信用出来ないのね?」
「そう言うわけじゃ……」
「……じゃあ、俺のこと名前で呼んで?」
「名前って、なんだよ、急に」
「名前を呼んで、好きって言って。そうしたら俺、一生尊人から離れない。死ぬまでそばにいるって約束するから」
まるで宝物でも見つめるかのように、愛しい視線を注がれる。その瞳に映る俺はどんな顔をしてるか、両目に涙が溢れる俺には分からなかった。
「好き、好きだよ。ずっと一緒にいて。離れないでそばにいて。俺にだけ、その血、ちょうだい……富実」
「……うん。俺を選んでくれてありがとう」
深く息を吸い、彼の指先を口に含む。人生で初めて人から直接飲んだ血液の味を、俺は一生忘れない。そして俺が知る血液の味は、この先ずっとこの人からがいい。そう強く願った。
「……ん、ふぅ……」
そっと指から口を離して呼吸を整える。すると、彼は不安げな瞳でこちらを見つめた。
「……どうしたんだよ」
「や、その、美味しかったかなって」
真剣にそんなことを言うから、思わず笑ってしまう。こいつの、富実の心配するところはいつも少しズレているから。
「美味しいよ。お前がくれるものは、きっと全部美味しい。唾液も、血液も。きっとそれ以外も、全部」
「それなら良かった。いくら尊人のことが好きでも、不味かったら飲んで欲しいとは言えないもん」
唾液も血液も、美味しいと感じたのは本当だ。唾液はレモンのように甘酸っぱくて、血液はまるでチョコレートのように濃厚で。Vロームになってから一度だけ血を口から飲んだことがあったけれど、あの時とは比べものにならないくらいの満足感だった。だからきっと、それ以外も美味しいのは本当だと思う。でも、それを受け取るには……
「でも、ごめん。俺、まだ、精液を受け取るのは、怖い。富実があいつらと違うのは分かってる。分かってるんだけど……」
震える手を必死に押さえ込むが、それでも身体に刻まれたトラウマはそう簡単には消えてくれない。すると、俺の身体はゆっくりと富実の腕の中に抱き寄せられた。
「前にも言ったじゃん。尊人が嫌なら一生セックスしなくていいって。血だって直接飲まなくて良いって言ったのに、こうして受け入れてくれた。それだけで十分だよ。尊人が隣にいて笑ってくれるなら、それ以外何も要らないから」
彼の手が頬へ伸び、口を開けるよう誘導する。そして、まだ血が溢れる指先をそっとあてがった。
「たくさん飲んで。俺が今まで我慢してた分、いっぱいね」
「……うん。それじゃあ、いただきます」
もう一度彼の指先を口に含み、舌を絡ませ血を丁寧に舐め取って行く。こんな風に気持ちが満たされたのはいつ以来だろう。
「どうして泣くのよ」
「そういうことは、聞かないんだよ、ばかっ」
「じゃあその涙は、俺がもらうね」
目元にキスを落とし、丁寧に舐め取られる。普通のヤツが舐めたら、それはただのしょっぱい水だろうに、富実は幸せそうな笑みを浮かべた。
「ねえ、今日泊まったら尊人は嫌?」
「別に嫌じゃないけど、どうしたんだよ」
「せっかく恋人になれたのに、すぐ帰るのは寂しいじゃない」
本当、こいつの愛情表現は真っ直ぐで、投げられる度に心臓が破裂しそうになる。俺は中々素直にそういうことを言えないけれど、でもいつか言えるように頑張るから、今は勘弁して欲しい。
「……好きにすればいーだろ」
「うん! ありがとう。いっぱいおしゃべりしよーね」
それから富美の指先の手当をして、お風呂に入って寝る準備をしてベッドに入ってから、朝になるまでお互いのことをポツポツ話していく。知っていることもあれば知らないこともあって、今日泊まってくれて良かったと思った。
「あ~、もうこんな時間! 明るくなってきたねぇ」
窓から差す光で、朝がやって来たことが分かる。自分がVロームになってから、朝を楽しみに思うことはなかった。でも、今日の光は昨日の光よりまばゆく感じて、涙が出そうになる。
すると、富実がこちらに顔を向けてつぶやいた。
「こういうの、なんて言うんだろう?」
「こういうのって?」
「朝に差す光っていうの?」
「……朝焼けって、言うんだよ」
「そっか。キレイな日本語だね。こんな時間に言うのもなんだけど、ちょっと寝ようか」
柔らかな笑顔を浮かべ、俺の頭を撫でたあと、そっと身体を抱き寄せる。
「お休み、尊人」
「……お休み、富実」
朝焼けの光に包まれながら、俺たちの意識は夢の中へ溶けていった。
――それから俺たちはいわゆるお付き合いをすることになった報告を、まずは先生たちにすることに。屋敷先生も花先生もとくに騒ぎ立てることはなく「ようやく安心出来るよ」と、ほっと胸をなで下ろしていた。
問題は母さんだ。いくらVロームの俺と付き合ってくれるとはいえ、男同士の恋愛なんて反対されるだろうか。不安な気持ちで、母さんとテーブルを共にする。
「あ、あのね、母さん」
「どうしたの?」
「そ、その、あの、えっと、俺……と、あ、あ愛沢と、つき、つ、付き合うことになって」
勇気を振り絞って母さんに告げる。恐る恐る顔を見上げると、母さんは目をまん丸に見開いて驚いていた。どうしよう、反対されるかもしれない、なんて言えば母さんは安心するんだろう。頭を必死に回転させるが上手い言葉が出てこずオロオロしてると、母さんはスマホを取り出してどこかへ電話を掛け始めた。
「ちょっと富実くん! やったわね⁉」
「え、と、富実⁉」
「今尊人から聞いたの! 今すぐ家にいらっしゃい!」
母さんはそれだけ言うと電話を切り、俺の両手を固く握った。
「よかった。尊人が富実くんの手を取る覚悟を決めてくれて本当によかった。ありがとう、おめでとう尊人」
「も、もしかして母さん知ってたの……?」
「ふふ。それは母さんと富実くんの秘密だから」
そう言って笑う母さんの目尻には、涙が浮かんでいた。俺には分からないけど、きっと母さんと富実だけが知っている話があるんだろう。それを聞くのは野暮だと思い、それ以上の質問はやめた。しばらくすると富実が自宅に到着し、改めて母さんから祝福を受ける。それでもどこまでも後ろ向きな俺は、不安な気持ちが拭えなかった。
「ただでさえVロームなのに、男同士で恋愛なんて、母さんイヤじゃなかったの……?」
「もちろん富実くんから聞いた時はビックリしたわよ。そして、何かあったら傷付くのは尊人の方だってことも分かっていた。だから尊人に対してどう思ってるのか結構問い詰めたのよ」
「いやそれ初耳だけど⁉」
思わず富実の方へ視線を投げると、少し耳を赤らめながら「そりゃ言えないでしょ。かっこ悪いじゃん……」とつぶやく。こんな自信なさげな表情は初めて見たので、単純に驚いた。そして、母さんもその後について教えてくれた。
「でもね、富実くんはちゃんと一人の人間として尊人が好きで、Vロームであるあなたと一生添い遂げる気持ちがあるって信じられたから、応援することに決めたのよ」
「……俺たちまだ子どもなのに、一生一緒にいるなんて約束出来るのかな」
俯きながら、隠すことなく不安を口にする。この際言いたいことを全部言ってラクになってしまおうと思った。言ったところで解決出来るものでもないけれど、ため込むよりマシ だろう。すると、富実の長くてキレイな指が俺の左手を持ち上げ、薬指を優しく撫でた。
「今度一緒に指輪買いに行こうね! そんなに高いのは買えないけど」
「なんでそうなるんだよ⁉」
「言葉だけじゃ安心出来ないなら、目に見える形があった方が良いかなって。それで俺がちゃんとお給料貰えるようになったら、一生物のやつをプレゼントするから」
薬指にキスが一つ。それは彼から受け取る初めての印だった。
「まあ死ぬまで一緒にいるんだし、いつか分かってくれるよね」
「……うっせえよ、バカ」
――それから季節は流れ、葉が散る秋の終わり。花先生が入院することになった。元から身体が弱い上に、血液も必要最低限しか摂取しない人だった。何度も輸血の増量を打診しても「私みたいな老い先短い老人ではなく、未来ある若者に少しでも多くの血液を回して欲しい。この考えは変わらない」の一点張りだった。
窓の向こうから、花先生の病室を眺める。ベッドに横たわる、痩せ細った花先生。そして、その花先生に寄り添う屋敷先生。最近この病院では先生の理念に賛同して手伝ってくれる医師も増えたため、屋敷先生は数週間休みを取ることになった。
もちろん、花先生を心配しているのは屋敷先生だけではない。先生の助手のような立ち位置で後ろをついて回っていた富実の表情は曇っていくばかりだった。
「花先生、やっぱり輸血は増やしたくないみたい」
富実の長いまつげが頬に影を落とす。彼も毎日のように説得を試みているけれど、ここ最近の花先生は会話するのも辛いらしく、返事が返ってこない時も増えてきたと聞いた。
終わりが近いことを誰もが感じていて、そんな残されたわずかな時間を出来るだけ屋敷先生と過ごして欲しいと思っていた俺は、あえて花先生のお見舞いに行くことはしなかった。
「尊人くん」
「どした?先生」
「花さんが呼んでる」
その一言で、俺は全てを理解した。屋敷先生もきっと分かっているんだろう。多くを語ることはせず、俺の両肩に手を置いて真っ直ぐな瞳で見つめられる。
「花さんをよろしくね」
「……うん。行ってきます」
静かに扉を開け、眠る花先生の横に腰掛ける。すると、花先生はゆっくりと目を開いて俺の手を握った。
「お別れだね。尊人くん」
「花先生ガンコだから。もっとちゃんと輸血してくれたらよかったのに」
「すまないね、それは譲れない」
いつものように無表情で、でも決して冷たさを感じさせない、温かい声でつぶやく。花先生の伸びた前髪を、ゆっくりとすくい上げる。それは彼女がよく俺にしてくれたことだった。
「尊人くん、君がいてくれてよかった。君が生きることを諦めないでくれたから、私も諦めないでここまで来られたよ」
花先生の頬に雫が流れる。それは俺が見る限り、彼女が流した初めての涙だった。
「君はこれからも、日本で最初にVロームを発症した患者の生き残りであり続ける。それが他の子たちにとってどれだけ強い希望になるか、君には分からないかも知れない。でも、君が生きているだけでたくさんの人が救われる。だから、尊人くんが富実くんの手を取ってくれて良かった。本当に良かった」
そう言いながら、花先生は枕の下から一冊の本を取り出す。その表紙には美しい文字で『親愛なるあなたへ』と書き記されていた。
「私がVロームになってから付けていた日記だよ。悲しくなった時、死にたくなった時に読み返してほしい。幸知たちと一緒に向こうで待ってる」
「……うん。ありがとう花先生。俺も花先生に会えて幸せ。大好きだよ。またね、花先生」
今までのありったけの感謝を込めて全身を抱きしめると、花先生はそのまま眠るように息を引き取った。どれくらいそうしていたかは分からない。でも、気が付いた時には富実に抱きしめられ、花先生は屋敷先生の腕の中で静かに微笑んでいた。
さようなら。さようなら、花先生。
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