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3.不安と安堵
ふと目を覚ますと、誰もいなかった。
「……え……?」
ベッドは整っているし、服もきちんと着ている。抱き合ったはずの相手も、その形跡も、どこを探しても見当たらない。
――まさか夢だったのだろうか。
観測塔の事件でグラキエと離れ離れになった時の事を思い出してしまって、どくどくと心臓が早鐘を打ち始めた。重だるい体をを引きずって何とか寝台の端に辿り着き、蚊帳を勢いよく開く。
「リィウ? どうしたんだ慌てて」
丁度目の前に立っていたのはラズリウの番。
驚いた表情を浮かべながら近付いてきて隣に腰掛けたと思えば、優しい手付きでそっと頭を撫でてくる。宥めるように抱きしめられて、思わずぎゅうっと抱きついた。
ふと見たその首筋には、こっそりつけたラズリウの跡が浮かんでいる。
「キーエ……キーエ、っ……」
あれは夢なんかじゃなかった。甘さの残る体のだるさも、抱き合った肌の感触も。
子供のように抱きついたまま離れないラズリウに、グラキエはしばらく何も言わずに抱きしめられてくれていた。そっと後頭部を撫でられる感触がして、ようやく目を開くことが出来て。
シーツの上には分厚い書物。少しくたびれた表紙のそれは、中に挟まれたメモか付箋の様なものが飛び出している様子が見えている。
恐る恐る顔を上げると、ラズリウを見つめていた顔がふわりと微笑んだ。
「すまない、これを取りに行ってたんだ」
「……本?」
「リィウが言ってた資料」
一瞬考えて、あ、と小さな声がこぼれた。
そういえば資料を借りてきて欲しいとお願いして、グラキエの部屋にあると確かその時に言っていた気がする。彼から離れたくなくて引き留めてしまったけれど。
わざわざラズリウが眠っている隙を見て、自室へ取りに行ってくれていたのか。
「じゃ、じゃあ服とベッドは……」
「汚したまま寝てしまっていたから、ついでに綺麗にしておいた」
「そう、いう、こと……そう……」
顔が上げられなくなってきて、思わずシーツに視線を落とした。
……恥ずかしい。
グラキエの気遣いに思い至る余裕すらなく、姿が見えないだけで子供のように不安になってしまった。何もかも、後始末までさせておいて。
自己嫌悪で何も言えずに居ると、そわそわとしだした様子のグラキエがラズリウの顔を覗き込んできた。
「すまない、その、な、何かやらかしていただろうか」
ラズリウを見る視線は少し不安げだ。ここまでしたのにと怒ってもいい程なのに。
今まで婚約者候補に挙がった令嬢に無礼な態度を取って叱られ続けたせいなのだろうか、そんな発想には至らないらしい。
「そうじゃ、なくて……何もなかったから……夢だったのかなって」
まさかベッドメイクまでそつなくこなす王子だと思っていなかったのもあるけれど。それにしても思考が短絡的過ぎて情けない。
ラズリウの様子にしくじった訳ではないと分かってホッとしたのか、グラキエは少し笑ったようだった。白い指が頬を撫でて唇にそっと触れる。そのま顎を持ち上げられたと思えば、近付いてきた顔の唇がそっとラズリウの口に触れた。
「あれが夢だったら俺は泣いてしまうな」
ちゃんと覚えているらしい。いつも限界を超えて気絶すると、意識を飛ばす前後の記憶があやふやになっているみたいなのに。
じっと優しい金色の瞳が柔らかくラズリウを見つめてくる。くすぐったい暖かさに強ばった全身がほどけていった。
「キーエは観測塔に……まだ居るのかなって、思った」
新しく作ったドームの観測塔へ赴いて行う、有人観測という調査。
そこでドームが破損し、調査チームとして参加していたグラキエも他のメンバーと共に閉じ込められる事件が婚約前に起きた。物言わぬ帰還となる可能性が濃厚な状況に、グラキエに惹かれ始めていたラズリウは不安と募る恋しさで押し潰されそうになって。泣いて過ごしたあの時間は未だ記憶の中に焦げ付いている。
抱き合ったのは、番になったのは幸せな夢だったのか。
実は未だ泣いて過ごしたあの日々の途中だったのか。
その可能性が浮かんだ瞬間、悲鳴を上げてしまいそうだった。
「逆に不安にさせてしまったのか。本当にすまない」
ぽろりと一粒だけこぼれた涙に少し驚いた顔をしたグラキエは、ぎゅっとラズリウを抱きしめる。気の利いた言葉は何一つ出てこなくて、ただただ強く抱きしめ返した。
しばらく無言のまま背を撫でてくれていたけれど、不意にグラキエの手がラズリウの顔に触れる。
「なぁ、リィウ。俺の部屋に来ないか?」
じっと見つめてくる瞳は良いことを思い付いたと言わんばかりに微笑んでいる。言われた意味がすぐには理解できず、ぽかんと間抜けな顔でグラキエを見つめ返すのがやっとだった。
「え……ど、うして」
「資料が沢山ある。したい時に勉強出来るし、俺の部屋なら、それ以上どこかへ行って居なくなる事もない」
「……キーエの、部屋……」
心臓がとくとくと騒ぎ始めた。
合理的な提案だとは思う。けれど今こうして抱きしめられている状況でもグラキエの香りに包まれてくらくらしいるのに、今のラズリウが彼の匂いに満ちる寝室へ行ったりしたらどうなってしまうのだろう。果たして自分のままで居られるのか、少し不安が残る。
けれど。
「少し散らかってるから、そこは申し訳ないけれど。俺の部屋に君が居てくれたら……とても嬉しい」
照れた様子ではにかむ顔に、ぐるぐると回りかけていた思考は急停止した。
「い、行く。行きたい……!」
居てくれたら嬉しいとまで言われて、断る理由などあるだろうか。あるはずもない。勉強のための環境だってこの部屋よりもずっと揃っているのだから。
勢いよく食いつくラズリウに少し面食らった様子だったけれど、すぐにグラキエは笑顔を浮かべた。
「なら善は急げで支度をしよう。着替えなんかはテネスかシーナに頼むから、他で持っていきたい物を教えてくれ」
「ええと。このブランケットと、日飾りと……」
ラズリウの言うものをグラキエが一つ一つ回収して渡してくれる。
手触りの良い生成りの生地に白い糸が輝くブランケットはグラキエの兄である第二王子と婚約者のベルマリー嬢から、僅かな光を周りに反射する繊細な細工の日飾りは王太子と王太子妃夫妻からの贈り物だ。
初めてこの国にやって来てから初めてヒート期間に入った時、毎日一つずつ届けられた品々。慣れない環境でどこか不安を覚えていたラズリウに心強さをくれた気遣いの印。
「月灯草の標本はまだ分かるが、コートや防寒具まで持っていくのか? 外に出ないのに」
ラズリウの言う通り揃えてくれたグラキエだったけれど、外出の時に着ている防寒具は流石に首を傾げながら持ってきた。
「うん、初めて貰った贈り物だから。全部持っていきたいんだ」
白いコートとベージュ色の襟巻きはグラキエから、橙色の手袋は国王夫妻からのものだ。そして白い羽毛のイヤーマフは、街を案内して貰った時にグラキエに買って貰ったもの。
改めて眺めると、様々な人の思いやりにくるまれてラズリウは過ごしている。
白いコートは嵩張るので羽織る事にして、ブランケットに贈り物を包む。その様子を見守っていたグラキエはくすくすと笑い始めた。
「俺の塒 にリィウの巣が出来そうだな」
「……作ってもいい?」
「俺も入れてくれるなら」
グラキエには何のつもりでもない、ただの喩えなのだろうけれど。巣という単語にラズリウの心臓はにわかに大きく跳ねた。
野生動物の巣の多くは番と共に在るための、もしくは相手を得るためのもの。それをグラキエの部屋に作るということは、彼の中に大きく踏み込むこと。発言した本人の意図はどうあれ、少なくともラズリウにはそう思えた。
「むしろ、その……は、入ってきて欲しい……」
「よかった。なら、喜んでお邪魔する」
――ふたりの巣。
そんな単語が頭の中を埋めつくして、ぼわりと頬が熱くなっていく。そんな心中を知るはずもないグラキエはブランケットを抱きかかえているラズリウを横抱きにして持ち上げた。
「き、キーエ!?」
「行こうか。俺達の塒に」
そっと囁かれた声に返すはずの言葉が喉の奥へ引っ込んでいった。しばらく声を出そうとしたけれど、どう頑張っても出てくる気配はない。
返事をするのは諦めてこくんと一つ頷くと、ラズリウを見る笑顔が一際眩しくなる。そのまま部屋を出て、グラキエの塒まで連れていって貰ったのだった。
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