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4.塒渡り
目的の部屋に入ると、壁一面の本棚と色々な道具が並んだ棚に出迎えられた。相変わらずの物の多さだ。
抱えられたまま寝台に近付いて、枕の横にちょこんとテディベアが座っているのが視界に入る。ネヴァルストの童話に出てくる少年をモチーフにしたという白い毛のスルツと……見覚えのない黒い毛のテディベアが居た。
琥珀色の目をしているその人形には白い服に橙色のスカーフが巻かれている。こっちも何かの童話の登場人物だろうか。
「この子は前から居た?」
「番がいる方がいいかと思って、作って貰った」
……それはグラキエに番が出来たから、という事なんだろうか。何だか照れてしまう。
「き、キーエって人形が好きだよね」
「スルツが特別なんだ。ずっと一緒に居た相棒だから」
そうは言うけれど、成人まで子供の頃の人形を持ったままの人間はあまり多くない気がする。
ラズリウは勿論のこと、祖国の兄弟姉妹も年少の子以外は早々に人形を卒業して手放していたはずだ。武を尊ぶネヴァルストだからだろうと言われてしまえば、まぁその通りかもしれないけれど。
黒いテディベアを優しく撫でるグラキエの顔は、どこかうっとりしている様にも見える。ラズリウが目の前に居るのに。それは少し面白くない。
持ってきた荷物を思わずぎゅっと抱きしめると、愛おしそうに人形を撫でていたグラキエは彼らを抱きかかえてサイドテーブルに座らせた。
「……あれ、移動させてしまうの?」
少なくともスルツはいつも枕元に座らせていたのに。いっそ抱きしめて寝ている時もあるとテネスから聞いていた。そんな大事な相棒を、どうしてわざわざ。
「リィウの巣に入るのは俺だけでないと嫌だ」
しれっとした顔でそう言われて返す言葉を失う。ぼわりとまた顔が熱くなってしまった。
最初の頃は雑な態度だったのに、最近のグラキエはマメで時々とろけるように甘くなる。こういう所は婚約者に何かと理由をつけて触れている、第二王子ニクス殿下の弟だなと感じる部分だ。
……グラキエが興味の無い事に対して雑でよかった。そうでなければきっと、ラズリウまでお鉢が回ってこなかっただろう。
ラズリウのコートや防寒具を天蓋の梁にかけている姿を眺めながら、ぼーっととりとめのない事を考える。すると不意に視線がこちらを見てゆっくりと近づいてきた。
「リィウ、日飾りを出してくれ。せっかくだからベッドの端につけよう」
「えっ? あ……うん」
無意識とはいえじっと見つめていた事に気恥ずかしさを覚えながら、慌てて持ち込んだ包みを開く。箱に収めていた日飾りを取り出して、伸びてきたグラキエの手の平に乗せた。
天蓋から吊るされたそれは、またキラキラと光を振り撒いている。
包みを開いたついでに、月灯草の標本が入った箱をサイドテーブルに座っているスルツ達の前に置いた。初めてグラキエから貰った贈り物。何かあったら必ず手に持っている宝物。
スルツがグラキエの相棒なら、この標本がラズリウの相棒かもしれない。
「これで全部だろうか」
「うん。ありがとう、キーエ」
隣へやって来たグラキエに抱き寄せられて、そのまま腕の中へ収まる。視線が合って、何となく良い雰囲気になった――その時だ。
「グラキエ殿下ァァァァ――――ッッッ!!!」
至近距離に落ちる落雷のような怒鳴り声が部屋に響き渡る。慌てて声のした入り口を見ると、血走った目を吊り上げたテネスが亡霊のような立ち姿でグラキエを睨んでいた。
亡霊の割には……生命力に滾った迫力がありすぎるけれど。
「て、テネス……? どうした……?」
いつも怒られようが説教をされようが、どこか飄々としているのに。流石に今日の剣幕には圧倒されたらしい。宥めるような落ち着いた声とは裏腹に、ぎゅうっとラズリウを抱きしめる腕に痛いほどの力が入っている。
「ヒート期間のΩを部屋から出す馬鹿者が何処におりますか!! フェロモンが番にしか通じないとはいえ、迂闊にも程がございましょう!!!」
「そ、それは……その……」
「それも無断で!! 荷物まで持ち出して!!! もぬけの殻の部屋を見て、我々からどれほど血の気が引いたかお分かりか!!!!」
怒涛の勢いで捲し立てられる声の瀑布に、二人して竦み上がってしまった。しかしその内容はごもっともすぎる。ぐうの音の欠片も出しようがない。
「……す、すまない……」
「ラズリウ殿下もです! グラキエ殿下を甘やかさないで下さいとあれ程申しましたのに!!」
「も、申し訳ありません……」
剣幕に圧されて縮こまる二人の前にシーナが微笑みを浮かべながらやって来た。テネスの後に視界に映ると、その姿はさながら慈愛の女神のようである。
けれど。
「グラキエ殿下。ご自身の行為がどの様な事態を引き起こす可能性がおありだったか、きちんと理解しておられますか」
声が冷たい。
顔はいつもの優しいシーナなのに、その口から出てくる声に優しさの類は感じられなかった。淡々と抑揚のない声がいつものシーナと違いすぎて、ひりひりとした違和感が背中を這っていく。
微笑みの中に見えた青い瞳は一切笑っていない。むしろ怒っている。絶対零度の針の様な視線がグラキエを冷ややかに突き刺している様に見えた。
「ええ、と……フェロモンに当てられたαに襲い掛かられる、とか……」
「ラズリウ殿下のフェロモンはグラキエ殿下にしか効きませんでしょう」
視線が泳いでいるグラキエの答えは抑揚のない声でバッサリと一刀両断されてしまった。普段でも時折そういう事があるけれど、今日は特に容赦がない。叩き落とす勢いだ。
「万一フェロモンが途中で溢れてしまった場合、グラキエ殿下が影響を受けて発情いたします。下手をすれば人目のある廊下でラズリウ殿下を襲い、辱める事になるのです」
「う……それ、は……」
しおしおと。そんな表現のとおりにグラキエの背中がしなびた植物の如く丸まっていく。
言われてみれば確かにそうである。魔法の首輪が抑えてくれているとはいえ、万が一の可能性が全く無いとは言い切れない。
返す言葉に窮した二人に、シーナの怒りに満ちた笑顔が畳み掛けてくる。
「人前にラズリウ殿下の痴態を晒す、獣の様な交尾をお望みですか」
「そっ、それは嫌だ」
「ならばきちんと考えて行動なさい。フェロモンの影響とはいえ、一番ラズリウ殿下に危害を加える可能性を持つのはグラキエ殿下です」
「……っ! ……す、まない……」
説教自体はいつもの光景とはいえ、さすがに可哀想になってきた。グラキエだけではなくラズリウの事を持ち出されているのもあるのかもしれない。あるはずのない、垂れた犬のような耳と尻尾が見える。
「グラキエ……」
すっかり俯いてしまった背中をそっとさすると、シーナと目が合って内心飛び上がった。今度は矛先がラズリウに向いたのを察したからだ。
腹を括って見つめ返すと、先程よりも滲み出てくる怒りは落ち着いた様子に見える。けれどいつもより遥かに目つきが厳しい。
「ラズリウ殿下もです。症状が軽くなったからといって発情期間に外出するなど、もってのほか」
「は、はい」
「万一があれば、番を加害者に貶めてしまう可能性があるのです。その事は決して忘れてはなりません」
「はい……軽率でした。その、嬉しくて……」
お気持ちは分かりますよ、とシーナは優しく頭を撫でてくれる。やっといつもの見慣れた顔が見えた。
そこからは優しい声で小一時間ほど説教を受けた。結局は説教だったけれど、最初のような冷たい視線と声でないだけ気持ちの持ちようが全く違う。
グラキエは途中からテネスにバトンタッチしてしまったから、ラズリウよりもこっ酷く怒られていたけれど。
「では、お部屋を抜け出す悪いお子様方には見張りをつけます」
向こうの説教もひと段落した頃、にこにこと微笑むシーナに二人ともすぐには反応出来なかった。
「いや……流石にもう何処に行くつもりもないんだが」
「そうは仰っても、少しばかり信用が不足しておられますわね」
「なに、大した事ではござりませぬ。近衛騎士が二人ばかり扉の前で立ち尽くしておるだけですからな」
にこやかに顔を見合わせる夫婦の笑顔が逆に不気味だ。
脱走の見張りに二人も人員を割こうというのだから、よほどお冠だったのだろう。しかも、駆り出されるのはよりによって王族の最も近くで警護をする近衛騎士である。彼らは王城内の騎士で最も上位に居るといっても過言ではないのに。
確かにグラキエはこの国の第三王子で、婚約者であるラズリウも他国とはいえ王族の末席であるけれども。
「流石に騎士の無駄遣いが過ぎないか?」
まるで自分の心の声が飛び出た様なグラキエの反応に、思わず力一杯首を縦に振った。部屋の見張り如きに近衛騎士はさすがにやり過ぎである。
「左様にございますな。早う信用を回復して頂きたいものです」
もはや二人の中では揺るぎない確定事項らしい。テネスにふんと鼻先で一蹴されて、グラキエもラズリウも何一つ返す言葉が出てこなかった。
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