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その2-1

 思う人がいた。  そばにいたくて、触れたくて、笑ってくれたら幸せで、その人が自分と同じように思ってくれたら、どんなにいいだろう、と何度も思った。  でも、今いっしょにいられる時間が大切で仕方なくて、手放したくなくて、ずっとこのままでもいいんじゃないか、って、思ってもいたんだ。変わってしまうくらいなら、この思いは、胸の内で大事にしまっておいてもいい、そう思えてしまうくらいに、おれは、あんたを。 「ヤ、ナ……」  彼のいつもと変わらない目がこちらを振り向くのが、スローモーションみたいに見えた。形のいい唇が離れて、巧の名前をなぞる。  カシャン、と大きな音が鳴り響いた。カウンターの端から、鍋の蓋が落ちたのだと、数秒置いてから気づく。びっくりした、自分の心の音かと、思った。 「……な、に、して……」  声が掠れた。柳瀬の唇から、触れる掌から、目が逸らせない。  巧の声に、紫乃の大きな瞳がこちらを振り返った。――途端、紫乃は柳瀬の手を振り切って、キッチンを抜け、住居スペースの奥へと、身を翻して行ってしまった。  沈黙が落ちる。  紫乃を、追えなかった。手も足も氷みたいに冷たくて、そのくせ、身体の中が焼けるように熱い。心臓の音が、鼓膜を直接震わせる。視界が霞む。  真っ白な頬、血の気を失った唇、泣きそうな目――。 「じゃあ、おれ帰るから」 「柳瀬!」  おまえ、なにしてんだよ。なに考えて、宮司さんにあんなことしてんだよ。おれの気持ちを知っていて、どうしてその相手にキスなんかできるんだよ。おれが、怒らないとでも思ってんのかよ。  大股で近づいて、柳瀬の胸倉を掴む。 「殴れば?」 「――っ」  自分でもわかるくらい、拳が震えた。殴りたい。でも、そんなことをしたところで、過ぎ去った瞬間が返ってくるわけじゃない。この感情が収まるとも思えない。 「……殴らねえの? じゃ、巧ともキスして、さっきの分けてやろうか」  ――らしくない。こんな軽口、柳瀬らしくない。 「宮司さんに、なにか言われたのか……?」 「え?」 「そんな口のきき方、ヤナらしくない」  必死に、なにかを隠そうとしているみたいに聞こえた。友に悟らせないようにしているように感じられた。そうだとしたら、紫乃との間になにかあったとしか思えない。  胸倉を掴む手を解く。小さく柳瀬が咳き込むから、「ごめん」と呟いた。 「巧」  呼ばれる。伏せた瞼を上げる。鋭い視線とぶつかって、反射的に身が強張った。 「巧、あの人は、やめたほうがいい」  柳瀬の言う意味が、わからなかった。  やめたほうがいい? なんだ、それ。どういう意味? それは、つまり……。 「おまえ、あの人諦めろ」 「な、に……」 「あの人思うの、やめろって言ってんだよ。新しい相手探したほうが、ずっと近道だ。巧はモテるし、すぐ相手なんか見つかるって」  近道? なんの? 宮司さんのことしか、考えられないのに? べつの相手? そんなのいらない。おれが欲しいのは、一人だけだ。 「……いやだ」 「巧」 「いやだ! そんなのできない! なにが言いたいんだよ、意味わかんねえ!」 「わかれよ!」  無理だよ、なに言ってんだよ。おまえ、おれがどんなに思っているか、知ってんだろ。  どくどくと血が全身を巡る。さっきよりも、ずっと苦しい。ずっと苛立っている。ぐっと両肩を掴まれた。振り払おうとしたが、その力が驚くほど強くて、抑えられてしまう。 「ヤナ、宮司さんになに言われたんだよ。なに聞いたんだよ!」 「おまえは、知らないほうがいい」  どうして、肝心なことは教えてくれない。そんなんじゃ、納得できるはずがないだろう。  唇を噛んだら、鉄の味が口に広がった。ああ、こんなに乾いていたのだ。頭に血が上って、物事が上手く頭に入ってこない。  今度は、ちゃんと腕を払うことができた。さらに問い詰めようとして、もう一つ息を吸う。鈴の音が鳴って、声が閊えた。振り向くと、秋名が驚いた顔で戸口に立っていた。巧と柳瀬を交互に見て、戸惑っている。 「えっ、と……、喧嘩?」 「……帰る」  秋名の惚けた声に、柳瀬が冷たい声を重ねる。バッグの中から何枚かの紙を取り出して、擦れ違いざまに巧に押しつけて出ていく。 「おい!」 「巧、またあした」  扉が閉まる。鈴が静かに鳴る。店内に、耳が痛くなるほどのしじまが満ちる。  手渡されたのは、先日頼んでいたレジュメとノートのコピーだった。 「なにか、あったのかい……?」  窺うように秋名が問う。巧は首を振って、なんでもないと答えた。完全な虚勢だった。それでも秋名は空気で察してくれて、「じゃあ、きょうは私も帰るね。宮司さんに、次は月曜日にと、伝えてもらえるかい?」と荷物をまとめはじめた。  気を遣わせている。わかっている。でも、今は、秋名が帰ってくれるのがありがたい。 「……すみません、秋名さん」  帰り際に頭を下げると、秋名は控えめに微笑んだ。 「卵、頑張ってください」 「うん。じゃあ、また」  頷く。また、鈴が鳴る。みやじ食堂は再び静かになる。  胸の奥に黒いなにかがくっついて、心を重くする。心臓が痛くて、目を閉じる。  ――あの人は、やめたほうがいい。  反芻する言葉に重なって、遠くで水の流れる音がした。 「宮司さん……?」  店の奥から聞こえたから、気になって住居のほうに向かう。  だんだんと大きくなる水音に、じわじわといやな感じが背中を上ってくる。思わず、紫乃を探す足が速くなる。 「宮司さん」  彼は、洗面所にいた。水の音も、そこからだった。  ――紫乃は、洗面台の水を流しっぱなしにして、掌に溜めては口にかけ、擦って、拭っていた。何度も、何度も、繰り返す。顔をいっぱいに濡らして、Tシャツの襟口も色が変わって、それでも、何度も、何度も。唇も、すっかり赤くなっている。 (ずっと、こうしていたのか……?)  あれから、ずっと? 自覚した途端、血液が逆流するようにかっとなった。 「宮司さん、なにやってんですか! この季節でも、そんなにしたら荒れますよ!」  両手首を捕まえる。水で冷えきっていて、死人の手みたいだと思った。――そんなことよりも、振り向く顔に身体の芯が冷える。顔をぐしゃぐしゃにして、彼は泣いていた。赤らんだ唇だけが、いやに色味を帯びている。 「みや……」 「……ごめん、ほっといて」  びっくりするほど強い力で、手を解かれた。一歩後ずさって、それ以上、なにも言えなくなる。蛇口から溢れる水だけが、巧と紫乃の間にある空間を埋めていく。初めて、途方もない距離を、真正面から突きつけられた気がした。  紫乃が床に崩れる。支えることも、手を差し伸べることも、抱き締めることも、できない。  柳瀬の言葉の意味が、少しずつ現実味を増して迫ってくる。それに比例して、身体が重くなった。ふらふらと、洗面所を出る。  それを追うようにして、子どもみたいな嗚咽が、聞こえてきた。  水の音は、しなくなった。泣き声も、いつの間にか止んでいた。  いつもは紫乃が作る夕飯を、きょうは巧が作った。店も、開けなかった。  紫乃ほどおいしくは作れない味噌汁と、昼間のオムライス、野菜炒めと焼き魚を並べて待ってみる。いつもの夕飯の時間だった。  しかし、巧がいくら台所のイスで、正面に座る人を待っても、彼は現れなかった。時計はもうすぐ九時半を指そうとしている。 (……まだ、洗面所かな。疲れて寝てないかな……)  そんな呑気なことを思ったけれど、恐らく違うということくらい、わかっていた。そっとイスを引く。 「宮司さん」  洗面所で蹲る背中に、声をかけた。 「あの、夜ご飯作ったので、よかったら食べてください」 「うん……、ありがとう」  こちらを見た彼の顔は、前髪で隠れて表情が読めなかった。でも、涙を拭った痕が色濃く残った頬や、水の冷たさで荒れた唇に、ずっと泣いていたことを教えられる。紫乃がひどくショックを受けていることくらい、わかる。でも、どうして……。 「あの人は、やめたほうがいい」  柳瀬の言葉が蘇る。キスをされたくらいで、この狼狽え方はふつうじゃない。なにか理由があるに決まっている。目を背けて、否定して、逃げて、なんになるというのだろう。頭ではわかっているくせに、そうせずにはいられないのは、己が弱いからとか、そんな格好いい理由ではない。そのほうが楽だと、知っているからだ。 「おれ、先に食べているので……」 「うん……」  洗面所を去る。紫乃が立ち上がる気配は、感じられなかった。  問いただすのは簡単だった。なにがあったのか訊くことはいくらもできた。でも、しなかった。紫乃の口から聞くのがこわかった。  柳瀬は、なにを知ったのだろう。探り、と言って、彼はなにを聞いたのだろう。どんな顔で、どんな声色で、どんな気持ちで、紫乃は話をしたのだろう。今紫乃は、なににそんなに、傷ついているのだろう。  柳瀬に尋ねれば、わかるのだろうか。どうして紫乃がこんなに泣くのか、ほんとうに彼にわかるのか。話の上辺だけをなぞった柳瀬に、紫乃のほんとうの気持ちが、わかるのか。――きっと、小戸森なら、知っている。  巧と同じ思いを抱えながら、それでもなにも言えず、これまでそばで紫乃の姿を見てきた、あの人なら、わかるのだろう。  布団に入る前に、残された紫乃の分のご飯にサランラップとして、昼間のオムライスもおにぎりにしておいた。仕込みは巧にはできないから、あしたもみやじ食堂が『営業中』の看板をかけることはないのだろう。  布団に入っても、うまく眠れなかった。そのまま一時間くらい経って、隣に気配を感じた。紫乃が眠りに来たのだと知る。  衣擦れの音が静まって、でも、かける言葉が見つからなくて、声が震えてしまいそうで、なにを言われるのもこわくて、結局、寝ている振りをした。泣き疲れたのか、紫乃はすぐに眠ったようで、微かな寝息が聞こえてくる。  静寂が横たわる部屋で、自分の心音と紫乃の呼吸だけに包まれる。 (ちゃんと、目覚ましかけておかないと)  もし寝坊をしても、紫乃は巧のことどころではないと思うから。昼食は、学食に行くかコンビニで買っていけば、どうにかなる。でも、もしも、ずっとだったら……。  どくどくと心臓が鳴る。鳴る、というよりも、震えるようだった。  紫乃が、もしも今までみたいに笑ってくれなかったら。料理を作ってくれなかったら。そうなったら、堪えられないと思う。今までの紫乃を、どうしようもなく求めてしまうと思う。そんなの、紫乃を否定するみたいで、いやなんだ。  今さらだけれど、自分の頭の中は、ほんとうに宮司紫乃でいっぱいなのだと知る。だから、一つ一つにきちんと理屈をつけて、納得して乗り越えないと、がんじがらめになってしまう。そこから動けないで、あしたすら綺麗に思い描けなくなってしまうのだ。そこには、宮司紫乃が笑っていてくれないと、だめなのだ。  自分が、こんなにだれかを思って悩むことになるなんて、思ってもいなかった。  自分のこと以上に気にかかって、自分の幸福以上に紫乃の笑顔を願う。十九年間、男として生きてきて、流し方すら忘れかけている涙だって、自分のためには無理でも、たぶん、紫乃のためなら簡単に流せる。そんな相手に出会えた。それは、途方もない奇跡なんじゃないのか。手を離してはいけないんじゃないのか。  掴まえたい。横に並んで、その手を包みたい。そう望むなら、選ぶ道はもう見えているはずだ。 「あ、おはよう、巧くん」  ――起床して、顔を洗いに台所を通りかかったところで、いつも通りの笑顔に挨拶された。 「えっ、宮司さん?」 「なんだよ、寝ぼけてんのか? ほら、顔洗っておいで。きょうの弁当はオムライスとハンバーグ」 「あ、はい……!」  促されて、洗面所に走る。台所からは、鼻唄さえ聞こえそうな軽さで火を使う音がする。 (夢……?)  いや、しかし、顔にぶつかる水は、ちゃんと冷たい。それでも、思わず確認したくなってしまうほど、この現実はおかしい。だって……。  足元に視線を落とす。だって、きのうはここで、ちょうどこの場所で、紫乃は顔をあんなにして泣いていたのに。それなのに、一晩で、あんな風に笑うのか……?  水を止める。顔を拭くのも疎かに、台所へ戻る。髪もくしゃくしゃのままの巧を振り返って、紫乃は丸い目をさらに丸くした。手元の火を止めて、黙ったままの巧に近づいてくる。 「巧くん? どうかした?」 「……宮司さん」 「うん?」 「おれに、空元気は必要ありません」 「え……」と消え入りそうな声を、耳元で聞く。自分よりも小さくて、華奢な身体を腕の中に包み込む。抱き締めずには、いられなかった。 「ここは、宮司さんの家です。おれは、宮司さんの家族です。遠慮とかそういうの、おれにはいらないです」  以前、紫乃が「ここは巧くんの家なんだから」と言ってくれたのが、巧は、鼻の奥がつんとしてしまうくらいうれしかった。だから、彼にも、同じものを返してあげたかった。  宮司さん、おれは、あんたの家族です。だから、遠慮とか空元気とか、無理をするとか、虚勢とか、そんなの一個もいらないんです。宮司さんの弱いところを、おれには見せていいんです。ちゃんとおれは、ぜんぶぜんぶ受け留める。宮司さんのこと、ぜんぶ抱き締めてみせるから。  思ったことを、すべてさらさらと言葉にできたら、どんなに楽だろう。でも自分には、そんな器用さも素直さもないから、だから、抱き締めた。この体温で、一つでも伝わるものがあればいいと、そう思ったのだ。  名前を呼ばれる。 「巧くん」と、子どもみたいに舌っ足らずの声で呼ばれる。はい、と返事をすると、細い肩が震えていた。 「やだな、空元気なんかじゃないって。大丈夫だから、放して?」  ――身体を包む腕に、力が籠る。強く、抱き締める。  紫乃の声が戸惑っているのがわかる。 「あの、巧くん」 「……大丈夫じゃないから、放しません」  そんな腫れた目をして、そんな引き攣った笑顔して、どうしてあんたは、誤魔化せるなんて思うかな。相手は、おれだよ? いつもあんたのことしか見ていないおれを、そんな言葉で騙せると思うなよ。 「放しません」  もう一度、ちゃんと言葉にする。放したくない。逃がしたくない。ここで諦めたら、もう二度と、紫乃の心を許してもらえる相手になれなくなる気がする。……言ってしまいたい。この思いの丈を、すべて伝えてしまいたい。そうしたら、きっとわかってもらえる。きっとずっと楽になる。拒絶されても、受け入れられなくても、この靄は晴れてくれる。 「宮司さん……」  おれは、あんたのことが。 「……ん」  言おうと思った。静かに紫乃が息を漏らしたから、言葉を飲み下した。ああ、今言わなくて、よかった……。  紫乃は、泣いているのだと気づいた。  きのうみたいな激しい感情ではない。しとしとと雨が降るように、静かに、穏やかに、艶やかに涙を流す。 「宮司さん……」 「……よんで」 「え……?」 「もっと、名前……」  宮司さん。宮司さん。  呪文のように、彼の名前を呼んであげる。その度に、小さな頭が、こくこくと頷いて、巧の肩に寄り添った。  宮司さん。宮司紫乃さん。  世界でたった一人、独り占めしたいと心の底から願った人の名前だった。  紫乃が包んでくれた弁当をバッグに入れて、学校に向かう。店を出るときには、無理のない顔で送ってくれて、ほっとした。  学校に着くと、校門で柳瀬が女友だちに囲まれていた。柳瀬は女の子が大すきだ。だから余計に、どうして彼がきのう、あんなことをしたのかがわからなかった。  こちらに気がつき、柳瀬は女の子たちを振り切って、向かってきた。巧を待っていたらしい。 「巧、おはよう」 「……はよ」 「宮司さん、どう?」 「どうって……」  不躾に言われて、カチンとくる。おまえのせいで大変だったんだぞ、と責めてやりたい。言い返そうと口を開きかけたところに発せられた科白に、頭の中から言葉が飛んだ。 「やっぱり、すごいショック受けてた?」 (やっぱり……?)  やっぱりって、なんだ。わかっていて、あんなことをしたと言うのか。宮司さんが、おれが、一体どんな思いで……。  周りから、小さな悲鳴が上がる。左手が、柳瀬の胸倉を掴んでいた。 「きのう殴れなかった分?」 「そうだな」  拳に力が籠る。本気で、こいつを殴りたいと思った。  おれは、宮司さんが大切で仕方がない。そんな人を、わざと傷つけるようなまねをする人間を、友人だからといって許すことなんてできない。殴って、いたぶって、そんなことしてもなんの解決にもならないと理解していても、拳が震える。抑えが効かない。宮司さんの泣き顔が、赤い視界に蘇る――。 「……やめんの」 「……そうだな」  意外そうな声。勝手に解ける手。目を伏せた。  紫乃の泣き濡れた顔が、瞼の裏に焼きついて離れない。抱き締めたときのいとおしさが、胸から溢れ出す。今望んでいるのは、こんなことではないはずだ。  身を翻す。「おい」と声をかけられた。 「巧、講義は」 「きょうはサボる。殴られなかった分、ちゃんとノートとっといて」 「へいへい」  柳瀬の気の抜けた返事を背中で聞いて、来たばかりの道を引き返す。  駅まで速歩きで行って、普段使わない路線上にある、目的地の最寄り駅までの運賃を確認した。同じ大学生らしい人たちと擦れ違って乗車する。あとは、乗り換えなしで行き着く。  アナウンスを聞き、下車の準備をする。  みやじ食堂や大学のある豊下(とよか)市は合併で広がりつつあるが、隣の豊羽(とよは)市と比べればまだ小さな街だ。豊羽市は、準都会と言えるくらいに栄えている。そして、市街中心部にある豊羽市駅前に、そのレストランの本店は建っていた。  レストラン『HEMP』。  煉瓦作りの外装に赤い屋根、緑の旗、この三つが目印のHEMPは、県内外に店舗を広げる、小戸森麻紀を社長に戴くチェーンレストランだ。  自動ドアを潜ると、かわいらしい制服の従業員に出迎えられた。ちなみに、こんなかわいい制服を考えたのは小戸森では決してなく、デザイナー及び投票した女性従業員の方々だ。食堂でぼやいていた当時の社長のことを、いつか紫乃から聞いた。 「お一人様ですか?」 「いえ。小戸森店長をお願いします。みやじ食堂の者だと言ってもらえれば」 「か、かしこまりました」  従業員が店の奥に駆けていく。そちらが厨房になっているのだろう。こう言っておけば手軽に、仕事もぜんぶ後回しにしてすぐに来てくれる社長を釣れる。  小戸森に会いに来たのは、知らなくてはならないと思ったからだ。詮ないことで悩むのも、逃げるのも、見て見ぬ振りももうやめだ。知らない過去から目を背けるのではなく、紫乃のことを知りたい。自分がそう願ったからだ。  柳瀬に聞くよりも、現実に見てきた小戸森だから、ずっと確かで、ずっと深く知っている。自分と同じ気持ちを抱えている小戸森だからこそ、だれより客観的に見てきたはずだ。それを、彼の口から聞きたい。あんな様子の紫乃からは聞くのは、自分にも彼にも、酷すぎる。  予想通り、ほどなく髪の毛があちこち跳ねた小戸森が現れた。慌てて帽子をとったのだろう。いつも完璧な姿しか見たことがなかったから、つい吹き出してしまう。なるほど、こういう格好が標準装備だったのならば、紫乃がスーツ姿を笑う理由がわかる。  待合イスの傍らに佇む巧の姿を認めて、小戸森はあからさまにがっかりした顔をした。 「川辺くんか……」 「うれしくなさそう。宮司さんが、入店の申し込みにでも来たと思いました?」 「……いや、思わない」  軽口の回答がいやにはっきりとした口調で引っかかる。紫乃が食堂をとても大切にしていることくらいわかっているけれど、こんな風に言い切られるとは、思わなかった。  こんな小さな蟠りさえ、すべて繋がっていたのだと知るのは、この三十分後になる。

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